大掴み、分かりやすく、すっきり 

 

徳永の「日本・近・現代史」

 

 

 

 

 

 

目次 

一、. 概説                  4頁

二、 幕末と開国               7頁

三、 近代国家の設立へ            11頁

四、. 明治の外交と朝鮮問題          17頁

五、 文明開化                21頁六、 七、 アジアと日本              30頁

八、 蚕食される清国             34頁

九、 .日露戦争                36頁

十、 白人侵略五百年の俯瞰           40頁

十一、日露戦争後の国際情勢              43頁

十二、日韓併合までの忍耐四〇年               44頁

十三、対米敗戦の序曲                52頁

十四、第一次世界大戦へ                 54頁

十五、世界恐慌と満州事変                60頁

十六、大アジア構想                  69

十七、 統帥権と日華事変            71頁

十八、 日米開戦                   76頁

十九、 戦争責任                   79頁

二十、 大東亜戦争について             83頁

二十一、五百年間の白人主義との対決であった  85頁                  二十二、戦争に思う              86頁

二十三、失われた日本                96頁

二十四、冷戦と国際連合              99頁

二十五、遅い米国の目覚め-半島情勢の理解      101

二十六、講和条約、日本の独立         103頁

二十七、日本株式会社の倒産             107頁

二十八、日本外交 日本の油断            110頁

二十九、日本人よ国史を学べ             114頁

三十、  日本の保守よ しっかりせい         121頁

三十一、現代日本の課題             122頁

あとがき                                  125

 

 

 

  大掴み、分かりやすく、すっきり  

徳永の「日本・近・現代史」 

はじめに
敗戦後、日本人が日本歴史を学ばないで来た結果が国民の意識、今日の国際、外交関

係に大きなマイナスを日本に与えつつあると指摘できる。それは国家喪失に近い恐るべ

き段階に到達している。私は専門家でもないが、日本歴史、中でも近・現代を再び学び

直し取り組みたいと決意した。

ざっくりと、大掴みで、大局的に、素直に、独自の見解を披瀝し今日的なものができたと自負している。

ちなみに、本書は鳥取木鶏会各月例会で輪読し大方の好評を得たことを記しておく。

 

    平成十五年六月一日     

擱筆 徳永圀典

 

 

一、概説

十六世紀以降、欧米諸国は地球規模の植民地化を進め、十七世紀にはアジアに植民地橋頭堡を築いた。十九世紀になり一段とアジア諸国に圧力を強めた。イギリスは産業革命、ロシアはツアーの権力拡大、アメリカは太平洋に進出しアジア諸国を狙った。

開国を要求された鎖国日本、徳川幕府は対処の妙案はなく国論は開国か攘夷かで沸騰した。幕府は三〇〇年の慣例を無視し天皇の権威を借り挙国一致で難局を乗り越えようとした。国論は割れた。アヘン戦争でシナ人の破滅的実情を知った日本人は欧米の意図を察し攘夷を唱え幕府を倒し王制復古をものにした。これが明治維新である。

この時、国内の幕府対立勢力も欧米勢力の意図魂胆を知り賢明にも彼ら外国勢力を拒否したので、日本は内戦の泥沼化や民族の分裂は避け得た。国論分裂は民族に悲劇を齎すのは洋の東西を問わぬ歴史的事実であり、それは二十一世紀の今日にも通ずる。

国家の独立に危機感を抱いた明治政府は欧米列強に伍する国家として、独立保全を希求し、西欧化による文明開化と富国強兵に邁進する。明治半ば、アジアで最初の立憲国家となる。憲法を創り、国会を開き、幕末に欧米の力に負け、無知故に締結した不平等条約の改正に取り組み半世紀かかって改正を実現。

近代化した日本は、ロシアに侵食されつつある朝鮮半島に危機感を覚え彼らに近代化と独立を働きかけた、朝鮮の独立をである。為に朝鮮の宗主国である清国の反発を受けて対立、日本は日清戦争で勝利、さらに満州で我が物顔に跋扈し南下する大国ロシアの朝鮮半島進出に対抗せんとした。結果、日露戦争となり勝利した日本は対ロ橋頭保を満州とした、これは歴史的正解であり今日の極東の険悪を思うとその後のアメリカの無知と愚かさを慨嘆する。当時のこの事実は世界各地の民族独立運動に強い刺激を与えた。

大正から昭和には満州の権益を巡り米国と対立する。米国は門戸開放、機会均等を掲げシナに対する植民地や権益獲得に加わり次第に日本と対立が深まる。米国と満州鉄道を共同経営しておれば日米対立は防げ得たとの反省がある。この間、日本は経済恐慌、対シナ外交に苦しむ。政党政治に不満の軍部が台頭し満州事変を誘発しシナ事変に拡大する。遂に米国との戦争が勃発し敗戦。

敗戦した日本は連合国に占領され、民族二千年の文化・伝統初めあらゆる革命的変革を強要された。極東軍事裁判という非近代的、野蛮なる事後法裁判で戦争を厳しく問われた。戦力放棄を規定した新憲法はマッカーサー指令によるものである。戦後日本はこのように米国の生殺与奪の武装権力の下に変革させられたもので、今日まで日本のあるゆる自主性喪失の原点となっている。

アメリカによる国際法違反の四三七市町村の無差別空襲と原子爆弾により焦土と化した日本。米ソ冷戦下、国内では左右の思想対立に苦しんだ、それは現在でも尾を引いているが国民はゼロから立ち上がり団結し目覚ましい再建を経済中心に果たした。

米国に次ぐ世界第二の経済大国となった日本は超大国と申すべき対外純資産世界一となる。冷戦終結により、世界の屋台骨を揺るがす程の金融資産を貯めた日本に対して欧米が経済逆襲を迫り、冷戦思考の抜けきらない、国家戦略を持たない日本は奈落の底に落ちるように市場経済という名のアメリカ・クリントン政権の経済謀略・恫喝に曝され戦後成功のソフトと言える日本型システムを放棄した。経済優位を一挙に失い現在は、立ち直りの兆しさえ見えない不況の真っ只中にある。

二一世紀を迎えて、民族のアイデンティティを喪失したかに見える日本は、北朝鮮の拉致問題を通して、戦後国家の主体性の無さを漸く自覚しつつある。

だが、冷戦終結により、共産主義国人民約七億人の自由経済参加による低コスト攻勢は、二一世紀が否応なく新しいパラダイムに進むことを示している。だが、その処方箋は、どの国もまだ確立していない。EU通貨の創立がドル覇権を脅かしている。世界情勢の行くへは混沌とし、日本の進む道は示されていない。

               概説終わり

 

平成十五年六月一日

二 幕末と開国 

幕末の国際情勢  

十八世紀後半の英国産業革命は次第に西洋諸国に波及し大量生産体制に入る。原料獲得の為の植民地確保にアジアは絶好の地であった。一九世紀末には日本・清・朝鮮・タイ以外は殆ど英国・フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルの植民地となった。アヘン戦争に敗れた清は香港を英国に割譲し幕府は衝撃を受けた。依然として鎖国政策をとったが一八五三年米国ペルーが来日し江戸湾に入り軍艦四隻で恫喝し開国を求めた。幕府は平和ボケで事態処理能力を欠いておりこれが諸大名をして政治への発言を誘発し幕府崩壊への導火線となった。そして朝廷の権威が高まる。

 

開国     

一八五四年ペルー再来日、強硬に条約締結を要求。これが世に名高い不平等条約の「日米和親条約」。外交知識に欠けた幕府は米国に一方的な最恵国待遇を認めた。英国・ロシア・オランダとも同様の条約を結ばされ、ここに完全に寛永十六年、一六三九年以降、鎖国体制は終焉した。この条約の不平等性を解決するのに半世紀かかっている。それは明治四四年-一九一一年の関税自主権の回復である。

不平等条約                                    勅許を得ないまま井伊直弼は米国と条約の調印をした。それは

.外交官の江戸駐在、国内旅行許可。                        二.神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市。                       三.通商は自由貿易。開港場に居留地を設け一般外国人の国内旅行禁止。              四居留地内の領事裁判権を認めた。                       五.関税の税率決定権を日本に与えないという不平等条約であった。          これはオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結んだ安政の五カ国条約である。この欧米諸国の手法に現代の市場経済の本質に似たものを見出すことができる。

 

安政の大獄  

勅許を得ないで条約締結した井伊直弼に対し公家・大名・志士は憤激した。井伊は大弾圧を加え反対者を弾圧し吉田松陰は刑死した。朝野の強い反発を招き桜田門外の変で井伊は暗殺された。井伊の後継の安藤信正大老は鎖国攘夷を約束し朝廷と幕府の融和、公武合体を画策し天皇の妹の和宮を将軍家茂の夫人に迎えた。政略結婚に反対した水戸浪士は安藤を襲う、坂下門外の変である。独自の公武合体論者島津久光の要求により参勤交代の縮小、西洋式軍制採用などの改革も実行した。文久の改革である

開国による貿易の影響    

外国との貿易は大幅の輸出超過、生産量が追いつかず物価は上昇した。大量生産の安価な綿織物の輸入で農村や業者は大打撃を受けた。江戸の問屋中心の流通機構が崩壊した。外国と金銀比価に大きい違いがあり、外人は約束に違反し銀で日本の金を購入した為に大量の金貨が海外に流出した。低品位の金貨-万延金を発行したがこの改鋳により貨幣価値が益々下がり物価上昇に拍車をかけた。貿易に対する反感が高まり在留外国人とか商人が襲撃され攘夷運動が激化した。百姓一揆が全国的に増加し都市で打ち壊しが頻発した。

 

吉田松陰

松陰は条約の違勅締結を機会に倒幕に傾斜。国難に対処するには、これまでの幕府独裁政治を廃止して朝廷を中心に挙国一致体制をとらなくてはならないと主張した。その門下生達は、長州藩を尊王攘夷論に固めて倒幕の推進力となり明治新政府の骨格をなすに至る。(門下生には、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎等多数の下級武士の志士が育った。)

 

国内列強の動向 

長州藩は外国船砲撃の報復として英国・フランス・オランダ・米国の四国連合に砲撃された。薩摩藩は生麦事件の報復として英国の砲撃を受けた。列強国は神戸沖に軍艦を進め幕府に税率引き下げなどを強く要求。このようにして無知なアジアを植民地化、奥ゆかしい日本人に対しては恫喝する彼等の本質は二一世紀にも変わらぬものが見える。フランスは英国に対抗して幕府支援の立場で経済的、軍事的援助をした。英国は幕府政治に不信を抱き始める。

 

幕末維新の主要人物       

孝明天皇、明治天皇、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、井上馨、松平容保、三条実美、徳川慶喜、高杉晋作、伊藤博文。明治新政府の主要人物と新政府前の志士である。薩長連合無くして維新は成立しなかった。天皇・公家を除く一一人中八人が薩長であった。彼らは列強の野心を見抜き、日本分断化の恐れを洞察してそれを防いだ最大の功労者である。幕府は士気も無くガバナビリティを欠いていた。幕府に干されていた薩長連合、国史を紐解くがいい、日本の大改革は有史以来地方から澎湃として起きている、草莽崛起である。

 

維新前後の社会状況        

開国による政治と経済の大激変は社会不安を増大。世直しと呼ばれる大衆の動きが各地で発生、エエジャナイカである。伊勢神宮へお蔭参りの爆発的発生は日本独特のカタルシスであろう。これが倒幕運動にも影響。幕府は開国進取政策をとり積極的に欧米文化の輸入に努めた。薩長も同様。日本文化も海外へ紹介を始める。欧米との力の差を如実に体験して、これも日本人の特徴と欠陥でもあるが一挙に雪崩のように欧米希求を始め、伝統文化を捨てすぎたきらいがある。これを第一次とするならば第二次は対米敗戦による伝統文化放棄という禍根を民族に残すはしりとなる。

三 近代国家の成立へ
王政復古       慶応一〇一四一八六七年、時勢の推移を察した将軍、慶喜は朝廷に大政の奉還を申し出た。家康以来一五二六五年で幕府は滅んだ。幕府の野心を見抜いた薩長は政変を断行し王政復古の大号令により天皇親政による新政府を樹立。幕府に対してフランスが薩長抗戦援助の申しであったが慶喜は賢明でそれを断り朝廷恭順を堅持した。英国公使パークスの努力もあり官軍の西郷隆盛と幕府方勝海舟の会談により江戸城の無血開城なる。これにより大規模な内乱と欧米列強の介入が阻止された。これは特別に記憶していい歴史的且つ現代的テーマである。

明治政府  近代国家成立の始まり。

天皇の外交親裁、幕府の締結した条約遵守の対外発表。明治元年、明治天皇は新政府の方針である「五箇条の御誓文」を発表。国民には「五榜の掲示」を公布。

国家目標 「五箇条の御誓文」       

一、広く会議を興し万機公論に決すべし。

二、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし。

三、官武一途庶民に至る迄各々其志を遂げ人心をして倦まさらしめんことを要す。

四、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。

五、智慧を世界に求め大に皇基を振起すべし。                  わが国未曾有の変革をなさんとし、陳躬(ちんみ)を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大いに斯の国是を定め万民保全の道を立てんとす。衆亦この旨趣に基き、協力努力せよ。                 

 

これに難癖ある向きもあるが、それは無知と社会主義に毒された戦後文化人・朝日新聞、毎日新聞を初めとするフェイクメディア・日教組・日弁連、社民党など知性と冷静さに欠けたものと指摘しておく。世界的にも国家の在り方としてこれに勝るものはないと定評がある。

五榜(ごぼう)の掲示」  庶民向けのもの。

一、人倫の道を守ること。

二、徒党・強訴の禁止。

三、キリスト教を邪宗門として禁止。

四、外国人への暴行禁止。

五、郷村からの脱走禁止。(幕府時代からの政策)

時代激変の経過的保全措置である。

不徹底な三権分立

新政府は五箇条の御誓文の方針に基き政治組織を固めた。太政官にすべての権力を集中した中央政府で、その下に七官を置いた組織である。アメリカの官制を模倣している。然し、明治政府の三権は高度な独立性に欠けた。これが敗戦を経て一五〇年後の今日まで真の三権分立として機能し確立しない牢固たるものとして尾をひいている。               五箇条の御誓文は民主主義として欧米諸国に比しても遜色ない原理であるが、三権分立制度の基礎固めが不徹底であり今日まで機能しなかったと言える。この為に、昭和初期の軍部独走、大東亜戦争の対米和平の不成功、米ソ冷戦後のマネー戦争などの敗北時に柔軟性を欠く軍部官僚を含む官僚主導の政策となり立法府の主体性欠如が戦前戦後を問わず幾多の致命的国益を損じた元凶となった。これは朝日新聞をはじめ日本のマスメディアが真のジャーナリズム精神の発達に於いて二一世紀のいまなお後進性がある事と無関係ではない。

廃藩置県と現在の改革                                明治-一八七一月廃藩置県を断行。これにより新政府の政治的な国内統一が

完成し封建制度が平和裡に廃止された。諸侯は華族、藩士、旧幕臣は士族、下級武士は卒、農工商は平民とされた。明治年に身分解放令-壬申戸籍―わが国最初の近代戸籍―が出され表面的には四民平等が実現したが真の解放は対米敗戦後を待たなければならなかった。家禄を失い更に明治年には廃刀令で士族の特権も消失し政府に対する不満分子の憤激も強くなり社会的には大きい混乱動揺があったのは当然である。明治維新は世界史的に見ればフランスの革命のように血なまぐさいものではなく、シナのような易姓革命でもなく、日本的な風土に生じた人間的温厚革命といえ日本人のレベルの高さを証拠づける。これはシナ文明に毒されていない証左でもあろう。現在の国難的、経済財政悪化を思う時、歴史に学ぶとは、国家再生には武士の特権放棄を見習うべきであり、それは廃県置道、国会議員の半減、公的職員大削減による一大改革を先導する事でなくてはなるまい。

神仏分離                                  神仏分離令が明治元年―一八六八年に出され廃仏毀釈を招き幕府の保護を受けていた仏教は大打撃を受けた。神仏混淆は中世に発した極めて日本的なものであるが、分離令は神社から仏教的要素を除外し王政復古、祭政一致の理念に基づいたものである。古来の純粋な神道の姿に戻ろうとし明治年、政府は「かんながらの大道」を天下に布教せんとした。この事は格別不思議ではない、縄文以降の大和民族の信仰に戻ったに過ぎない。これを昭和になり政治や軍部が悪用したのが大きな過ちであり、それは対米敗戦後の今日まで、神道が国内的にも国際的にも大誤解を招き、靖国問題にまで尾をひいてしまった。民族土着信仰を米国占領軍に否定されそのまま今日迄従うとは日本人とは一体何物なのかとさえ思われる。多くの日本人は気づいていないが神道の原理は二一世紀の地球を救いうる普遍的原理を保有している。(詳しくは徳永圀典著、日本の神様は大自然の原理そのまま参照)。明治時代に米国宣教師某が日本の神を西洋神ゴッドと同様なものとして翻訳し国際化しそれが定着したのは痛恨の極みである。キリスト・イスラム・ユダヤなど目には目の一神教のゴッドと、自然への感謝の神道の神は根本的に異なる事を国民は銘記し真の理解に努めなくては日本は国際理解されないのみか優れた伝統文化も真に理解できない。

国民皆兵                                  欧米列強のアジア侵略と遠慮無い植民地化の姿とか列強の軍備を驚異の眼で見た新政府にとり近代的な軍隊を作ることは国防上最重要課題の一つであった。初代兵部大輔大村益次郎は国民皆兵の徴兵制度を唱え、山形有朋が志を継いで新兵制の確立に努めた。明治-一八七三年徴兵令が定められた。以後、原則として満二〇才に達した男子全員が身分に関係なく兵役の義務を負う制度が整った。特権を奪われた旧武士士族の反感、流言もあり人心不安を誘発したが、これは大変革の時代には必然のこと

でもあろう。近代的な警察制度も進み明治年東京に警視庁が創設された。このように

新政府は国家諸制度の近代化を驚くべく急速に進めた。

貨幣制度と殖産振興                                  明治年金本位制を確立し円金貨を本位貨とし、円・銭・厘の硬貨を発行。同年米国ナショナルバンクの制度を模倣した国立銀行条例を制定。工部省を設置して鉱山の政府直営、工学寮は技術者の養成であり大阪の砲兵工廠、横須賀、長崎の造船所の整備に当たる。外人指導の基に製糸工場で生糸の生産拡大に努めた。内務省は各地に官営模範工場を作り勧業政策を推進した。明治年には蝦夷地を北海道と改称し開拓使を置いて米国式大規模農業を試みた。叉、屯田兵を置き開拓に努めた。交通、通信も整備が急速に進んだ。明治年には新橋・横浜間の鉄道開通。大阪・神戸、京都・大阪も開通した。佐賀の乱や台湾出兵の軍事輸送を任せられた岩崎弥太郎の三菱が政府の手厚い保護を受けて発展した。明治年に官営郵便制度が実施され全国に広まった。このように、短期間に一挙に先進国への道を進みだしたのは、日本人特有の好奇心と新し物好きが背景にある。同時に江戸時代からの一般庶民のレベルの高さが他のアジア諸国と大いに異なり近代化の素養十分の庶民の知的基盤があったからでもあろう。

.明治の外交と朝鮮問題

.不平等条約の改定

当時わが国が抱えていた最大の国家目的の一つは欧米諸国の恫喝への対応、無知と武力の故に幕末に締結した不平等条約の改正であった。

明治四年右大臣岩倉具視を全権大使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを従え使節団を欧米に派遣した。先ず米国で条約改正交渉、最恵国待遇があり米国一国だけでは改正が成立しないので打ち切った。その後ヨーロッパ諸国を歴訪し見聞を広めた結果、条約改正の前提には内治整備が急務と痛感し帰国、条約改正は明治末期となる。これは欧米諸国の論理と一方的ルールの押し付けであり彼等の植民地収奪の手法である。現在の国際金融経済の手法と酷似している。これらへの対抗策はやはり論理と力と情報で、外交能力は武力を背景にしなくては対抗は至難と見られる。

一六世紀以来、世界の屋台骨を支えてきた彼らの財力、情報、人脈、武力との連携が背景として大きなパワーであり農耕民族は彼ら狩猟民族への対抗には所詮無理があるのかもしれない。それ故に国益を守るという命題は国家戦略として常になくてはならぬが今なお国家的反省が全く無きに等しい。明治維新の元老にはあの鎖国の中にあってそれを保有していた。これは国家国益を死守するという白刃の上を渡る思いの所産であろう。

.朝鮮半島                                 江戸時代から友好関係ある朝鮮と新たな国交を開こうとした。鎖国の朝鮮は一六三七

年から清国への朝貢国であり、明治維新後、従来の慣習に異なるとして天皇の名の国書

を拒否し続けていた。彼らは天皇の皇は清国の皇帝のみ使うとした。現在でも日本国の

象徴である天皇を日王と呼ぶなど非礼極まりない韓国である。これでは真の友好関係は

無理であり夜郎自大、頑迷固陋さは少しも変わらない。

この封建的な朝鮮は当時ロシアに狙われており世界の欧米覇権に対抗して生きようとする日本の弊害であった。放置すれば朝鮮はロシアの植民地化は必至であり日本の安全の為にそれは絶対に避けねばならぬ事態であり、これは当時の国際的常識で判断しなくてはならぬ。これがやむなく日本が朝鮮を併合した真因の一つである。政府は次第に強硬論となり明治六年板垣退助は軍隊派遣を主張、西郷隆盛は使者派遣を提議、自ら全権大使として朝鮮に渡り先ず開国を要望して事態の打開を図ることを主張し閣議決定。処が欧米視察から帰国の岩倉具視は強く反対、内治優先を主張し閣議決定を覆した。西郷は辞職し、板垣退助、江藤新平、副島種臣らの参議も下野し政府首脳は分裂した。

閣内の征韓論争後も政府は朝鮮との修好を計ったが進展しない。明治八年江華島沖で測量など示威行動をした軍艦に朝鮮の砲台から攻撃を受けた。翌年、朝鮮に使節を派遣し開国を要求し日朝修好条約を結んだ。この第一条に、清国の宗主権を排除し朝鮮は独立国である事を掲げさせ朝鮮の独立を日本は支援した。清国はあくまで宗主権を誇示し朝鮮に干渉、為に半島南下を図るロシアに対しても日本は外交交渉をすることとなる。このように韓国の宗主国、―清は漢民族でなく女真族で、本来は化外の民の筈だが----清国以上に儒教にどっぷり浸かる李朝、朝鮮には全く自主権がない惨憺たる状況であった。歴史の真実を抹殺したかの戦後韓国人には理解不能なのであろう。

三 琉球・台湾・千島列島                            日本は清国とほぼ対等の関係にあったが琉球問題で紛争が生じた。廃藩置県に際して琉球を鹿児島藩に編入したが翌年琉球藩とした。琉球国王尚泰を藩王として華族とした。多くの国民は、琉球は明治時代に日本国に編入したと信じているが、実は史実として足利幕府六代目、足利義教将軍は、青森県から沖縄までを統一して天下布武を成し遂げている。琉球を日本にしているのだ。それが「()(きつ)元年(がんねん)御教書(みきょうしょ)」である。これは江戸時代の島津の琉球侵攻、明治の琉球侵攻も日本領土だとの根拠になる。中華の支配下になったとの史実は何一つない。                      明治年琉球民が台湾で殺害された。この時清国は、台湾島民には二種類あり、清国に従わない島民は「自国の支配の及ばない化外の民」と称して責任を放棄した。よって政府は明治年軍隊を台湾に派遣し占領した。大久保利通の北京での事件解決交渉も難航、英国の調停により妥協成立。清国は日本の台湾出兵を義挙と認定し賠償金支払いで解決した。これにより琉球問題は解決し明治一二年琉球藩を沖縄県とした。           明治-一八七五年ロシアと「樺太千島交換条約」にて樺太全島をロシア、千島列

島全島を日本領土と決定した。対米敗戦後、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破り、  泥棒猫の如く満州に侵入し数十万の日本人を拉致したが千島列島も不法占領したままである。

西郷隆盛                                                                                                    今なお国民的に人気の高い人である。茫洋としたタイジンの風格は魅力がある。西郷は早くから西洋を学んでいて開国論者の橋本左内とも交友あり叉福沢諭吉の書物も読み絶賛している。然し本質的には東洋的思想による政治哲学の保有者である。      西郷隆盛の「南洲翁遺訓」には次ぎの言葉がある。「文明とは、道徳があまねく実現されることであり、立派な宮殿が建設されたり、きらびやかな衣服をまとったり、外観が派手になったりすることではない」、「真の文明国とは、未開の国に対して慈悲をもとに開明に導くべきで残酷な方法で利益を求める西洋のやり方は野蛮というべきだ」と記されている。西南の役では賊とされたが、西郷挙兵の精神には非難すべき点はなく政府が西郷を死にやったと福沢諭吉は論じたし中江兆民や内村鑑三も西郷を支持した。西洋式の官軍が薩摩士族を破り西郷は自刃した。この西南の役を最後に武士の反乱も終わり名実共に武士の時代は終焉した。然し、武士の精神を持ちつつ近代化を進めよという西郷の識見と気概は当時の人々の共感を呼んだ。現代もそれは極めて大切である。これを忘れているからこそ二一世紀の今日の悲劇を招いたと言える。この五〇〇年間に亘る欧米諸国の世界植民地化は野蛮主義そのものである。これはいまなお不変の彼等の本質的要素であり二十一世紀の現在でも彼らの国際政治・金融・経済での野蛮なる手法は変わらない。この歴史的事実をしかと認識した上での対米同盟、日本の主権確立が絶対に必要である。

五 文明開化                                  文明開化教育と啓蒙思想                            文部省を明治年に新設。フランスの学区制を模倣、学問は国民が身を立て智を進め産を作る実学主義が説かれた。福沢諭吉、新島襄、大隈重信などの特色ある私学により人材も輩出した。明治-一八七四年には五〇〇名以上がイギリス・アメリカ・フランスなど海外留学をした。福沢は英米流の功利主義・自由主義で人間の自由・平等・独立の精神と実学を尊重した。フランス、ドイツなど西洋の新しい思想が大いに紹介された。明治年最初の日刊新聞、横浜毎日新聞であるが、相次いで新聞・雑誌が新思想の普及に大きい役割を果たした。怒涛のような欧米化の進展が見られるが、西郷隆盛、佐々木高行等の伝統精神が伴わず、これが日本の百年後に大きい禍根を残すこととなる。                                文明開化の音がする                                   政府は率先して西洋風俗を採用し奨励した。明治年斬髪令により、ざんぎり頭が増えた。軍隊での洋服や靴が官吏や警察も着用、一般にも広く使用されるようになった。牛肉を食べるようになった。銀座の赤レンガの建物、石油ランプ、ガス灯、馬車、人力車も登場。明治年には太陰暦から太陽暦にした。それは明治-一八七二一二日を明治日とした。一週間七日制とし日曜日を休日とするなど、国民生活が一挙に西洋式に変化してしまった。この明治初年の文明開化の風潮は対米敗戦後のアメリカ文化へ一挙に従属したのと同様で、余りにも日本文化を捨てすぎた。廃仏毀釈により貴重な仏像、浮世絵など伝統的美術品をさも後進、野蛮のように思い、したたかな外国人の手に渡ってしまった。                            対米敗戦後にこの傾向が一段と進み、敗戦後六〇年で、日本の日本らしいものが消失したばかりか、日本人と思えぬ青少年が育ってしまい、二千年の伝統ある文化を放棄させてしまった。その第一次が明治初年の文明開化であり軽薄の謗りは免れまい。新しいものへの好奇心は日本人の長所でありまた欠陥であるが、国家のアイデンティティ喪失にまで及ぶとは民族的大問題と思われる。         

ベルツの見た日本人                                    明治初年の日本の風潮はどんなものであったか。明治は余りにも日本の伝統文化を捨てすぎた第一次と記載した。当時の教養と知性ある白人は日本をどう見ていたのか、実に興味深く示唆に富む読み物がある。明治一〇二五日付ベルツの日記である。「我々中世の騎士時代の文化状態にあったのが、昨日から今日へと一足飛びに、我々欧州の文化発展に要した五百年たっぷりの期間を飛び越えて一九世紀の全成果を即座に、しかも一時に我が物にしようとしている。・・このような大跳躍の場合・・これは寧ろ「死の跳躍」と言うべきで、その際、日本国民が首を折らねば何よりですが。・・何と不思議なことには、現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした。」と私に言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、我々の歴史は今からやっと始るのです」と断言しました。」      

この日記はドイツ医学者で日本で著名なベルツ博士である。唖然とする程に対米敗戦後伝統文化を捨てて省みない現代日本人と変わらない。西洋は野蛮じゃ、と本質を喝破した西郷隆盛、日本は近代法律と技術以外は西洋に学ぶ必要なしと見識を示した佐々木高行が偲ばれる。  

余談                                    白人優位                                 不平等条約の改正交渉を有利に進めようとして行った極端な欧化政策を象徴する言葉が鹿鳴館であろう。これは甚だ悲壮で滑稽である。国民は反発した。明治一九年のイギリス船ノルマントン号事件―日本人二〇名を乗せて横浜から神戸へ行く途中、和歌山沖で沈没、船長以下乗組員全員脱出、日本人全員水死。神戸の領事裁判所は船長無罪、横浜領事裁判所では船長禁固三ケ月、賠償なし。これに国民は憤激、外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判は行われないと完全な法権力回復を求める声が沸きあがった。万国国際法という欧米に都合のいい法を力で押し付け後進国を人間扱いしない白人優位の人種差別である。これにより日本人をして白人らよる人種差別撤廃へ向けて堅く志を持つ事となったのである。

六 .立憲国家
.自由民権運動                                      新政府は薩長藩閥政府という批判が強く反政府運動が起きた。板垣退助等は明治年に議院設立建白書を提出した。政府は漸進的に立憲政体へ向うことに合意した。明治一三年片岡健吉等は国会期成同盟で国会開設要求をした。こうして武力による反政府運動がもはや不可能であると痛感した各地の士族は、言論によって要求を実現しようとする自由民権運動に参加する事となった。明治一一年政変が起き内務卿で維新政府の大実力者・大久保利通が暗殺された。大隈重信は漸進主義の伊藤博文ら薩長閥と対立して国会即時開設と政党内閣実現を主張した。大隈が政府批判運動と関係していると見て辞任に追い込み同時に明治一四年国会開設の勅諭により明治二三年を期して国会開設を公約した。これにより伊藤博文を中心とする薩長派の政権が確立し欽定憲法制定の準備が始った。                                    二 .政党                                    欽定ではあるが国会開設が決まり自由民権派は政党結成へと動いた。明治一四年士族や豪農・地主を基盤とする板垣退助の自由党は急進的であった。大隈重信の立憲改進党、政府サイドの福地源一郎等による立憲帝政党であるが大きな力となりえず何れも解党し消滅している。                               三 .政府の直面したもの                             明治初期の日本政府が直面したのは当時の国際情勢は武力と経済力を背景にした国際秩序があるという厳然たる現実であった。これは現代でも歴然たる真実であり欧米が世界の屋台骨を支えているという自負とその維持の為の権謀術策は今日でも少しも変わらない。覇権は彼らの本能的且つ本質的性格であろう。明治藩閥政府は欧化政策をとり欧米列強に匹敵する文明国であると認識させ、それにより国際的地位を高めようとした。現段階で考えるとそれはやや悲壮且つ滑稽で効果に乏しいものと思われるが真剣であった。在野には西洋文明に屈従を快しとしない人たちは国権確立の為に、幕末の不平等条約の早期撤廃を求め藩閥政府を打倒し民権を伸長させるための早期国会開設を主張した。この帰趨如何が百年後の日本民族を左右するとは当時は誰も思わなかったであろう。                                      四 .財政状況                                   西南の役に多額の出費がかさみ、不換紙幣で調達した為に烈しいインフレを招いた。輸入超過が進み正貨は減少の一途であった。明治一四年松方正義は増税と徹底した支出削減、官営事業の民間払い下げにより紙幣価値の回復を計った。明治一五年中央銀行として日本銀行を設立し、紙幣価値安定を見届けて明治一八-一八八五年から銀兌換による兌換銀行券を発行。政府紙幣も銀貨と兌換される事となり、本位貨を銀とする事実上の銀本位制が確立した。松方の厳しい緊縮政策は深刻な不況を招き、農村は米価や生糸の暴落で大打撃を受けた。自作農が小作農に、土地が少数の大地主に集中した。土地を失った農民は賃金労働者となった。かかる状勢から政治的に急進化し過激事件も頻発した。

国会開設と憲法    
行政機構の確立    

明治一八年大宝律令以来の太政官制度を廃止、西洋流の内閣制度とした。総理が各省長官をひきいて内閣を構成し天皇を補佐し全政務の責任をとる体制である。宮内省は内閣の外に置いて行政府と分けた。明治二一年ドイツ人顧問モッセの助言で市制・町村制、明治二三年に府県制・郡制を公布し政府の強い指導の地方自治制が確立した。軍令機関としては統帥権を独立し参謀本部を新設、明治一五年に軍人勅諭を発布し軍人として不可欠な忠節・礼儀・武勇を説き政治活動の禁止と軍人精神の徹底を強調したのは世界の列強を見れば当然であった

 

大日本帝国憲法    

一 .伊藤博文が各国の憲法調査のため欧州へ行き一年半でベルリン大学、ウイーン大学で憲法を学ぶ。プロイセン憲法がわが国の実情に照らして参考になるとの結論を得て帰国した。明治二〇年伊藤は井上毅の草案を元に伊藤巳代治と金子堅太郎と検討、ドイツ人顧問ロエスレルの助言を得て二一年四月に草案を完成した。この憲法草案審議の為に二二年、天皇の最高諮問機関として枢密院を開設し伊藤博文は首相を辞して初代議長に就任した。                                    二 枢密院では天皇臨席の元に慎重に審議が尽くされた。そして明治二二年―一八八九年―一一日の紀元節に、大日本帝国憲法が発布されたのである。ここにアジアでは初めての近代的立憲国家が生まれた。アジア諸国の独立はその後日本が戦争に敗れたとは言うものの列強国、米・英・フランス・オランダと戦い彼らをアジア諸国から追放する日本敗戦まで半世紀以上の歳月を要した。

三 この憲法は欽定憲法である。冒頭に日本の歴史・伝統をふまえ、万世一系の天皇を統治権の総攬者とした。文武官の任命、緊急勅令、宣戦・講和・条約の締結、陸海軍の統帥などの天皇大権を決めた。国民は議会を通して国政に参加を認められ、法律の範囲内で契約の自由、所有権の不可侵、信教・言論・出版・集会・結社の自由も認めた。帝国議会は対等の権利ある貴族院と衆議院の二院制、司法権も行政権から独立し三権分立体制がとられた。憲法では議会が天皇に意見を上奏すること、予算を衆議院で先議、議会が法案提出するを定めたのは民権派も評価し、多くの国民が歓迎している。一応、幕末以来の悲願である列強並みの近代的国家の形が整い不平等条約解決のため先進国の形を整備したといえる。これは列強の口実に過ぎないが、彼らはこうして後進国を餌食とし叉、我々も彼らも西洋科学文明の享受の為にはそれが当然のような世界観を保有し今日までそのように思い慣らされて来たと言える。

国会   

明治二三年-一八九〇年七月第一回衆議院議員の総選挙が行われた。首相黒田清隆は政府は政党の動向に左右されない不偏不党の政策実現を表明した。政府は民党と烈しく経費節減・軍艦建造費・条約改正問題で対立した。詔勅により政争は第六回議会で終了したと言う事で発足当時のわが国の議会と民意の限界が理解できる。                    

 

不平等条約解消迄の推移                            岩倉具視   明治一八七二 最初の条約予備交渉?米と改正交渉不調     

寺島宗則   明治-一一年  関税自主権回復希求-米は賛成、英国反対で失敗      

井上馨    明治一五-二〇年 欧化政策採用、外国判事の任用・外国人内地雑居問題で失敗                 大隈重信   明治二一-二二年 外国人判事の大審院任用で挫折      

青木周蔵   明治二三-二四年 外人判事任用を中止-英国は賛成            

陸奥宗光   明治二六-二七    日英通商航海条約で領事裁判権の完全撤廃、以後明治三十年までに      各国と同様な条約改正に成功。           

小村寿太郎  明治四四            日米通商航海条約が成立、関税自主権の完全回復に成功以後各国と同様な条約改正に成功。                           

明治四四-一九一一年、関税の片務的、屈辱的な条約は外相、小村寿太郎により撤廃され、条約上では対等な国家として列国から承認を受けた。開国以来実に半世紀である。この先人の血の滲む努力に深甚なる敬意を表する。日本が無知ゆえとは言え、欧米の手法のこのアクドイ手法による日本からの収奪に対して憤りに近いものが沸々としてこみ上げて来る。戦後も政治経済全般に亘りこの種のものが横行しており依然として歯がゆい日本の政治、外交能力が認められる。

不平等条約“考”                               締結当事者の幕府が有責者である。ハリスと交渉したのは幕府随一の外国通の井上清直と岩瀬忠震、両者とも、当時の国際法・条約の知識が欠如しており、この条約の不平等性に気づかなかった。一旦締結したら約束であり致し方ないが、現代でも欧米諸国の金融取引には、善意で臨む習性、経世済民の思想を持つ日本人が見落として損害を被るのと同様であろう。欧米諸国との条約とか商談の締結には彼らの陥穽に落ちないように並々ならぬ注意が絶対必要である。

七 .アジアと日本                                朝鮮半島情勢                                       明治年の日朝修好条約後は日本の影響力が次第に朝鮮に増大した。実権を持つ国王の外戚である閔氏一族は日本と結ぶ政策であった。反対者は国王の父大院君に結集し明治一五-一八八二年一部兵士が日本公使館を襲撃。対抗上日本が出兵すると清国も出兵。妥協が成立し清国は宗主国として朝鮮に融和を勧告、朝鮮と日本と条約締結し損害賠償や公使館守備隊の駐留を認めた。清国に頼りたい事大党の勢力増大、日本と結ぶ勢力の金玉均等はクーデターを起こしたが失敗。伊藤博文は翌年天津にて清国全権の李鴻章と天津条約締結、朝鮮半島に於ける日本と清国との撤兵と出兵の相互通知の確約をした。このように朝鮮は当事者能力が皆無であった。朝鮮国王と閔氏一族は清国の支配脱出の為に親ロ政策を取ったため清国は朝鮮の支配を更に強化した。このように一九世紀末は朝鮮にガバナビリティが存在せず、当然の事として国家主権は無きに均しく外交自主権も無い有様で、朝鮮半島は日本・清国・ロシア三国の勢力争いの舞台となった。清国は朝鮮の外交権を認めず、日本の経済活動に圧力を加えつつ貿易量を大幅に増進した。この当時の朝鮮半島情勢は、特段に、正確に認識しておかなくて現今の問題理解に繋がらない。                

朝鮮半島と日清戦争                              明治二七-一八九四年、朝鮮で東学党の乱と呼ばれる乱があった。キリスト教の西学に対抗して東学道徒を中心とする農民が地方官の暴政に対して反乱を起こしたものである。朝鮮半島南部の全羅道一帯を占拠した為に清国は朝鮮政府の要請を受けて即出兵した。天津条約に基づき清国は日本に通知し日本も直ちに派兵。反乱は鎮圧されたが日本と清国の共同で朝鮮の内政改革をするとの提案をめぐり交渉が難航し対立激化。半島に平穏がないと日本に安定がないのは現今の半島状勢を勘案すれば容易に理解できよう。ここで日本は清国の勢力を朝鮮から一掃の決意を固め豊島沖海戦をきっかけに清国に対し月宣戦布告した。これが日清戦争である。朝鮮半島は力の空白状態であり、清国の力とロシアの意向を洞察した日本の自衛策であり、これは当時の国際常識である。いかなる時代も力の空白は戦争を誘引する。日本がかかる決断をしなければ半島はロシアに占領されるのは必定であった。そして清国はロシア初め欧米諸国の歯牙にかかり最終的に日本に再び強烈なその矛先が向けられるとの脅威が実存した。日清戦争の開始と共に帝国議会は政争を停止し全会一致で軍事費の支出を可決した。ここらに現在の政党の国益観の欠如が見事に見て取れる。国家、国会議員とはかかるものでなくてはなるまい。陸軍は平壌から鴨緑江を経て満州に入り北京へ進撃する態勢を示した。海軍は黄海海戦に勝ち明治二八-一八九五年陸軍は威海衛を陥落し北洋艦隊を降伏させた。同年月伊藤博文・陸奥宗光と清国の李鴻章間で下関条約を締結調印し講和が成立。内容は.清国が朝鮮の独立を認める。.遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本割譲。.賠償金支払い。四、新たに四港の開港。これが弱肉強食の当時の様相であり日本のみのやり方ではない。幕末のペルーの米国・英国・オランダ・フランスとて日本が軟弱であれば彼らに同様にされていた事は絶対に間違いない。               

下関条約余談                                         第一条 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因って右独立自主を損すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし。
第二条 清国は左記の土地の主権並びに該地方に在る城塁、兵器製造所及官有物を永遠に日本国に割与す。
一 左の経界内に在る奉天省南部の地。
二 台湾全島及その附随諸島嶼。
三 澎湖列島
第四条 清国は軍費賠償金として庫平銀二億両を日本に支払うへきことを約す。右金額は都合八回に分ち、初回及次回には毎回五千万両を支払うへし。(下略・日本外交文書)
この条約により日本は清国に対して欧米列強と肩を並べる治外法権などの不平等条約を獲得した。ペルー以降日本が列強から受けた不平等条約はそのままである。将に弱肉強食の現実であり、食うか食われるかの時代であった当時の国際情勢をしかと認識しなくてはならぬ。更に清国から得た賠償金は金本位制の確立、陸海軍の軍備強化に貢献し、わが国の本格的な産業革命への起動力となった。            

三国干渉                                  三国とは、ロシア・フランス・ドイツである。ロシアは極東進出の国策を持ち満州に野心があった。清国の働きかけに乗り白人仲間のドイツとフランを誘い日本領有となった遼東半島を清国に返還するように強く日本に要求してきた。これを三国干渉といい私達の年齢では大屈辱として忘れ難いものがある。日本はこれら三国の圧力に対抗できる軍事力が無いために、やむなく要求に屈した。国民の間には「臥薪嘗胆」が合言葉となりロシアへの復讐を叫ぶ声が広まったのは当然である。それはこれ等三国が干渉をして得た報酬が日本が戦争して清国から得た利権だからである。ロシアはその遼東半島等を租借、ドイツは山東省の利権を得た。日本が清国に戦勝し割譲受けたものをむしり取られたわけである。

八、蚕食される清国                                       一 .ロシアの脅威                               日本との戦争で負け弱国と見られた清国は列強国により分割を招く事となる。日清戦争後はロシアの勢力が一段と朝鮮王室に対して影響力を強めた。一八九六年ロシアは満州の吉林・黒龍江を横断してウラジオストックに至る鉄道の敷設権を得てシベリヤ鉄道と接続した。更にロシアは遼東半島の旅順・大連湾一帯を租借し鉄道敷設権も得た。ロシアの野望は全満州から朝鮮迄を勢力圏としシベリヤから太平洋へ地続きの不凍港確保にあった。これは日本の大脅威以外の何ものでもなく放置できないのが国家というものだ。現今の拉致・北朝鮮問題はわが国政治家が依然として属国的であり主権国家でない事の証左である。矜持と主権ある国家なら戦争勃発である。現代政治家の甘い認識は絶望的と言えよう。                                  二 .ドイツ・英国・フランス・米国                              一八九八年ドイツは清国から膠洲湾の租借権や山東半島の鉄道敷設権を得た。英国は九竜半島と威海衛の租借権、フランスは広州湾の租借権と鉄道敷設権を得た。アメリカはこのような列強の清国分割に直接加担しなかった。然し一八九八年ハワイ併合、フィリピンをスペインから獲得して他国への干渉政策に転換して極東・太平洋へ意欲的に進出してきた。                                 .  日英同盟                                      列強が進出した清国では、国家再建改革運動があったが失敗した。排外運動は高まり義和団が天津の外国人居留地を攻撃し、北京でも各国公使館を包囲した。清国は列強国に宣戦布告した。日本は欧・米・八ケ国連合軍の中核となり義和団を鎮圧した。これが北清事変である。清国は降伏し謝罪し多額の賠償金と列強軍隊の北京駐留を認めた。この事件を契機としてロシアは満州を占領し事後も撤兵せず、この地域の独占権を清国に認めさせた。これが当時の国際情勢である。真空に吸い込まれるように力の空白は侵略を呼び込む、これは今も昔も変わらぬ冷徹な真理である。国内ではロシアと妥協の意見もあり満州と韓国交換論さえあった。韓国はそれ程当事者能力を欠いていた。             英国はロシアの南下を恐れており、これが日本と利害が一致し、遂に大英帝国はわが国と同盟条約を結んだのが明治三五-一九〇二年である。この同盟は画期的なもので極東の力学が日本に有利に運ぶこととなり、これにより自衛上、日本はロシアの極東進出を阻止する事を決断した。                                    ロシアの深刻な脅威                              ロシアは中国から旅順の割譲を受けると要塞を築き、ロシアと清国以外の入港を拒否し大連を貿易港とした。ロシアの脅威に対抗上、日本は台湾を維持するために対岸の中国福建省を他国に割譲させない事を約束させた。ロシアの極東活動は積極的で日本にとり脅威であった。朝鮮半島がロシアに席捲された場合を想定したわが国の脅威は国家の興亡にかかわるものであった。                    

大韓の主体性の欠如                                      明治二八年韓国内親ロ派の排除を図った日本公使三浦悟楼等は独断で閔妃を殺害した。列強の非難を浴びたのは当然であり許される事ではなくいらざる禍根を残した。国王高祖はロシア公館に避難し韓国に親ロ政権が出来た。一八九七年韓国は大韓と国名を変更した。韓国を取り巻く列強の動きはわが国に深刻な議論を巻き起こした。主体性のない韓国はこのように清国・ロシアに撹乱され、それは日本の防衛上深刻な影響を与えるものであるが、明治初年以降早や四半世紀に及び朝鮮半島の動向に対する当時の日本の忍耐が窺える。                      

九 .日露戦争                                  明治三六-一九〇三年、ロシアは日本の撤兵要求を無視して満州に軍隊を駐留させた。ロシアは朝鮮半島にも野心があり満州・朝鮮半島に於ける日本の脅威となった。桂内閣は、あくまで外交により衝突を避けるべく交渉を続けた。ロシアに対して日本は軍隊の撤兵・満州の門戸開放、朝鮮半島に於ける日本の地位承認を求めたが拒否された。それ処か朝鮮半島におけるロシアと日本の勢力範囲を定める事まで提案してきた。これは日本として限界である。両国に衝突の危機が発生したのは国益上当然であり開戦の準備も進めた。明治三七月交渉決裂し戦争が始まる。大国ロシア帝国の執拗にして強引な政策に遂に小国日本も遂に我慢の限界に達したのである。戦争の経緯は記載しない。当時の大国ロシアに勝利した事は日本の威信をいやが上にも高めた。戦費一七億円の多くは国債と外国債で調達されたが、高橋是清の努力により主として英米二国で億円調達した。                                    勝利した乃木希典将軍が敗軍ロシアの将軍、ステッセルと水師営で会見した時の言葉こそ日本武士道の真髄である。「昨日の敵は今日の友」と歌われたように、これこそが最も日本的であり世界に誇りうる武士道の精神であり西洋列強の植民地収奪のようなものはない。日本武士道の精神・魂こそ人類の在るべき姿を示している。目には目を、のアングロサクソンやイスラムと違う素晴らしい日本精神の伝統をもっと自覚し子弟に教育し世界に敷衍してよい。                          

日露戦争に勝利した事により、ロシアは                     .朝鮮半島における軍事・政治・経済上の日本の優越権を認め、.旅順・大連などの租借権を日本に譲渡 三、満州は長春以南の鉄道と炭鉱を譲り 四、樺太の北緯五〇度以南を日本に割譲と日本海・オホーツク海・ベーリング海の日本漁業権を認めた。これがポーツマス条約である。小国日本がロシアの南下を食い止め独立を確保したことは中国の孫文、インドのネール初めアジア諸国民に自信を与えた。トルコ・エジプト・ポーランド・フィンランドに独立運動が巻き起こった。ロシアのロマノフ王朝は権威を喪失し革命運動への道筋をつけたと言える。

中国革命の父・孫文                                     孫文は中国革命の父と言われるが日本との関わりが深い。明治維新の後、日本にはアジア各地から民族解放運動で迫害された活動家が亡命して来ている。孫文もその一人である。彼は漢民族を支配している化外の清を倒すことを目指し、日本の明治維新を目標とした。不平等条約撤廃に成功した日本を見て孫文は「初めてアジアの最初の独立国となった」と日本を高く評価した。挙兵に失敗した孫文は日本に亡命し中国革命の準備をしたが彼を支援する日本人が多かった。孫文は日露戦争で日本海海戦で勝利した日本に戻り明治二八年中国の留学生を集め中国同盟会を結成し三民主義を発表、国名を中華民国と定めた。                  

橋梁的な朝鮮半島人                                      日清戦争に勝利した日本の影響力は朝鮮半島に次第に高まって行きた。日露戦争を遂行するにあたり、日本は日韓議定書を結び戦争遂行上の多くの特権を韓国政府に認めさせた。韓国政府に日本人顧問を入れ、内政・外交・軍事にわたる広汎な発言権も得た。日本は明治初年以降、朝鮮に自主権を持たせるべく働きかけたが、日本を軽蔑し宗主国・清に遠慮するも、一方でロシアと結ぼうとする。このような朝鮮半島人の橋梁的な性格が禍し結局日本・清国・ロシア三国のどの国にも真の同盟関係をもち得ないまま日清戦争を招き日本が勝利し、更にロシアにも勝利し遂に韓国は日本に従わざるを得なくなった。これは自業自得の結果と言えよう。世界の列強、アメリカ・英国・ロシアも日本の韓国に対する優越的地位を認めた。ここで漸く征韓論争が起きた明治初年以降四〇年ぶりに隣国の安定を得た事となる。日本の大陸進出への大きな足がかりとなって行くのは理の当然であった。明治三七-年にはまだ韓国を併合しておらない事は重要な日本の意志と認識してよい。                   

日本の産業革命“考”                              日清戦争の年代に第一次基礎的産業革命、日露戦争を挟んだ時代に製鉄・造船・機械・化学等重工業中心を第二次。そして第一次世界大戦を経て日本の産業革命は完成したと言える。
その特色は、                                .極めて短期間に急速に成立した事。                      .欧米諸国より機械・技術・制度などを導入移植して発達し自生的でない事。           .国家権力の保護育成の元に成長発展した事。                  三菱など.政商を中心とする産業資本が主たる担い手である事。                工業の発展が不均衡で大企業傘下の中小企業が広汎に残存した事。              .軍事・輸出産業の比重が大きい事。                      農業が小農経営中心であった事。                       .女子労働者の比重が高く労働条件が劣悪であった事。                    .国内市場が狭隘で海外依存度が大であった事等であろう。                  然し、江戸時代からの人的インフラは均一で極めて高く条件さえ整えば高い発展力を秘めていた。戦後に一挙に政治経済条件が満たされて一大成長を遂げて世界トップの金融資産を得るまでに至ったと言える。然しながら高度成長後、教育の劣悪とチャレンジマインドの大幅低下により壮青少年の伝統的資質は大きく失われつつあり近未来に大きな不安を秘めている。

一〇 白人侵略五百年の俯瞰                             一、.日露戦争は明治三七-三八年、幕末から早や四〇年経過していた。白人ロシア大国に勝利した日本。                               ここらで現代日本人は頭を冷やして巨視的に、世界歴史を地球規模で鳥瞰し見直してみる必要がある。
近世世界史をコロンブスのアメリカ大陸到着から今日迄の五百年を俯瞰すると、人類が歩んだ歴史が明白に見える。歴史のスパンを五百年の長さで、地理的空間をグローバルに観察してみなくてはならない。ここに人類の歴史の真実が手にとるように浮かぶのである。このスパンで見たものの延長線上に先の大東亜戦争を位置付けて見ると日本の存在の人類史的意義の重大さが明白に見える。この巨視的な歴史観で見れば、近年の隣国等の雑音は顕微鏡的なもので人類の歴史の本質から程遠い問題であると知るべきである。

二 この五百年間の世界侵略の主役一六世紀はスペインとポルトガル、一七世紀はオランダ、一八世紀は英国とフランスが主役でロシアが加わり一九世紀になるとヨーロッパ諸国は一斉にアフリカ大陸に植民地争奪戦をやり線引きでアフリカ大陸を切り取ってしまった。二一世紀のアフリカ問題の遠因はここに存在する。アフリカ原住民は白人の奴隷商人に狩り集められ家畜として売買されアメリカ大陸の労働力にさせられている。一九世紀中頃には世界の地図上の目ぼしい領土は殆ど白人の植民地になっていたのだ。幕末にはアジアも全て白人のもので、残っていたのは日本くらいしかなかった。これは歴史的事実であり日本人は心に銘記してよいと思われる。人類に神聖・真正世界史があれば白人の暴挙は人類の汚点として銘記されて良いであろう。                      

三 米国のペリーが四隻の船で日本に開港を脅迫したのは嘉永-一八五三年、前後してロシアが蝦夷現在の北海道に現れ、長崎にも来て迫っている。アヘン戦争で中国に勝利した英国の次の侵略目標が日本であることは間違いなかった。このように幕末の日本は虎視眈々と、東から米国、北からロシア、西から英国とフランスが食指を延ばしてきていた大国難の時代であった。それで日露戦争勝利の意義は極めて高いのだ。不幸だが朝鮮半島の日本併合はこの人類的視野で記憶されるべきであろう。白人の世界侵略を阻止したこの対ロ勝利の世界人類史的に意味するもの、日本人の勇気と気概は子孫に伝え欧米諸国との交際に忘れてはならない事と思われる。和魂に洋才こそが望まれるのである。                                      四 アムステルダム市長の知性                          平成三年「日本傷痍軍人会代表団」が先の戦争の敵国であったオランダを訪問した。同国の傷痍軍人代表と首都アムステルダム市長主催の親善パーティに招待された。その時の市長の歓迎挨拶があります。実に良心的で大東亜戦争の真実を語りました。      「貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダ人は勝って大敗しました。今、日本は世界一、二を争う経済大国になりました。私たちオランダ人はその間屈辱の連続でした。即ち勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三六倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄耀栄華を極めていました。今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国だけとなりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、それは人類最高の良いことをしたのです。なぜなら、あなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳され、悪い事をしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って見つめる必要があるでしよう。本当は白人が悪いのです。百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて永い間奴隷的に酷使されていた東亜民族を解放し、共に繁栄しようと理想を掲げて、大東亜戦争という旗印で立ち上ったのが貴国日本だったはずでしょう。本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦しましたが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。」。

信を取り戻さなくては二一世紀は無い。

一一 .日ロ戦争後の国際情勢
鉄道王ハリマン                               アメリカの鉄道王と言われたハリマンによる満州鉄道の日米共同計画は時の桂総理の内約を得ていたが、小村外相の強い反対で中止となった。これにより米国は日本を国際競争相手として強く意識した。日本を仮装敵国とした戦争計画である米国オレンジ計画がこの頃密かにできている。その筋書き通りの対米敗戦が一九四五年であり、この間実に四〇年、迂闊な対米認識と言える。                      明治三九-一九〇六年にサンフランシスコで日本人学童排斥事件が発生したのは当時の米国の感情を示している。そして日本人移民を制限し排斥運動が顕著となって行く。これは黄色人種日本人をターゲットにした明白な人種差別である。当時の中国人は米国ではまともな人間扱いをされていない。対米感覚は、当時の日本としてやむを得ないものがあったが、英国の力を重視し傾斜しすぎて、巨視的に世界の未来を洞察した桂首相の決定通り、米国の満州経営参加を認めたほうがその後の推移から見ても正解であったといえる。それは対ロ、対中国戦略としても有効であったろう。白人の世界支配体制は牢固たるものがある。                    

国内情勢                                  日露戦争で小国日本が大国ロシアを破り意気あがる民衆は講和条約を不満として桂内閣は倒れた。明治四〇-一九〇七年金融恐慌により再び桂内閣となり戊申詔書により国民に節約と勤勉を説き国力増進を目指した。然し夏目漱石が当時を悉く暗黒だと嘆いている。経済が目覚しく繁栄する一方で弱者救済の社会政策が遅れ日比谷騒乱に見る如く労働運動が盛んとなる。                            一〇 日韓併合までの忍耐四〇年                          ソウルに統監府をおいて初代統監に伊藤博文を任命。一九〇七年韓国はハーグの第二回万国平和会議に密使を送り実情を訴えたが列強には受け入れられなかった。第三次日韓協約を結ばせ内政権を統監の手に収めた。明治四二年-一九〇九年伊藤博文は韓国独立運動の安重根に射殺された。これを見て明治四三年-一九一〇年遂に日本政府は韓国の併合を遂に決断した。朝鮮総督府を置いていて凡ての政務を統括する事とした。        明治初年の西郷隆盛の征韓論から実に四〇有余年、この間、朝鮮半島を巡り日本は清国とロシアと深刻な葛藤があった。大韓を受け容れ、隠忍持久してきた日本であったが明治四三-一九一〇年遂に日本政府は韓国を併合した。欧米流の植民地ではなく日本国民とした。清国そしてロシアとの確執に勝利した日本は、極東の安定の為に韓国を併合せざるを得ない国際的流れとなっていたのである。当時の世界の趨勢から見てこれは自然の流れと言えた。日露戦争開戦直後の明治三七年-一九〇四年二月、韓国領内の日本軍の自由行動を内容とする日韓議定書、八月には韓国政府の財政・外交顧問に日本政府推薦者を入れた。一九〇五年には第二次日韓協約により韓国の外交権を接収して保護国とした。

昭和二〇年の敗戦直後、もしマッカーサー司令官を日本人が暗殺していたら直ちに日本は米国に併合されていたであろう。日本の決断は安重根による初代総理・伊藤博文暗殺に起因する。

日韓関係推移一覧

年代

事項

明治6 明治51873

征韓論起きる-中止

 明治8 明治7年1875

江華島事件

 明治9 明治81876

日鮮修好条規-江華条約

明治151882

壬生の変-斉物浦条約

 明治171884

甲申の変

明治181885

日鮮漢城(京城)条約・日清天津条約

 明治27年1894

東学党の乱・日清戦争

 明治28 明治281895

下関条約

 明治37 明治371904

日韓議定書・第一次日韓協約

 明治38 明治381905

第二次日韓協約―統監府設置

 明治40 明治401907

ハーグ密使事件・第三次日韓協約

 明治42 明治421909

伊藤博文、ハルピンで暗殺

明治43 明治431910

日韓併合条約―総督府設置

弱肉強食の修羅場                               列強が世界最後に残された極東で隣国を蚕食する時、日本は見て見ぬふりとか放置すれば間違いなく日本自体も侵略の矛先が向かってくるのは理の当然である。その時に戦後の左翼のように、平和・平和とお題目を唱えておれば安全か、それはナンセンスである。それは北朝鮮問題で明白である。主権国家が国民の安全を守るために対抗措置を取るのは他国に非難される筋合いではない。日本の生存権である。                         日露戦争に勝つと明治四〇-一九〇七年、日露協約を締結した。両国は東アジアの現状維持を確認した。秘密協定では、南満州における日本の、北満州ではロシアの利益範囲を協定し、韓国における日本の、外蒙古のロシアの特殊権益を認め合った。これは現在のイラク戦争後の利権協議にフランス・ドイツが排除され東欧のポーランドやスペインが参入した如くである。当時の敗者は弱者であり悲惨であった。日本は白人に勝ったのである。明治四三年-一九一〇年にはアメリカによる満州鉄道中立化案を阻止する為に満州の現状維持を確認し鉄道権益の確保を日ロ両国が協力を約した。大正元年-一九一二年には内蒙古の日露両国の利益協定を結んだ。これから四〇年後に対米敗戦するのだが、日本に奢りがあったのは否めない。                   

当時の中国情勢                              一一九一一年、清国の支配に抵抗して革命軍が中国各地に蜂起し武漢・南京を占領した。これが辛亥革命である。一九一二年三民主義の孫文を臨時大総統とする中華民国が成立。しかし、北京で実権を握った軍閥の袁世凱が清国一二代の宣統帝を退位させて中華民国大総統となり政敵の孫文は日本に亡命した。  

武士道                                   新渡戸稲造は明治一七年-一八八四年、二二才で渡米した。米国人に日本の宗教教育に関して質問をうけた事が契機となり新渡戸は日本人の道徳観念のルーツを思索した。アメリカ人の妻が日本人の物の考え方行動様式の質問を受けていた。それをもとに「武士道」を出版したのが明治三三年-一九〇〇年である。新渡戸によると、武士道とは、日本の長い歴史の中で神道を基盤として、仏教や儒教を受け入れつつ形成された道徳であり、日本人の倫理の源泉である。この書物にはバイブルやギリシャ・ローマの古典などが豊富に引用されており日本が日清戦争、日露戦争に勝利した精神力の源泉であるとされ世界中から注目され各国語に翻訳された。新渡戸は後に国際連合事務次長として活躍、昭和天皇の思し召しもあり日米関係の修復に尽力している。その高潔な人格は「心に真理を秘めた古武士」として世界中から人々の尊敬を集めた。               

教育制度                                  明治五年-一八七二年、文部省はフランスの学区制にならった学区制を発布した。学問は智を開き身を立てて産を作る為とする実学主義を説き各地に小学校を設置した。専門教育では明治一〇年開成学校と東京医学校を統合して東京大学を設立、さらに師範教育や女子教育の普及を図った。民間では福沢諭吉の慶応義塾、新島襄の同志社英学校の私学、大隈重信は東京専門学校を創設した。海外留学も奨励し明治七年には五百名以上がイギリス・アメリカ・フランスに留学している。国民あげて西洋文化へと怒涛のような盛り上がりが感じられる。白人に真に負けていた近代技術と近代法以上に西洋カブレし行き過ぎたものを残したことは否めない。       

思想の潮流                                 福沢諭吉が英米流の功利主義・自由主義を紹介し人間の自由・平等・独立の精神と実学を説いた。フランスの天賦人権論や社会契約論、ドイツの国権論も紹介された。徳富蘇峰は政府の欧化主義を貴族趣味と批判し平民主義を唱えた。三宅雪嶺、杉浦重剛らは西洋一辺倒の風潮を批判し日本には本来優れた思想・文化があり、これの保存発展こそ肝要と説いた。陸羯(くがかつ)(なん)は政府の安易な欧化政策や妥協的な条約改正交渉を非難し日本の独立、国内的には国民的自由を主張。高山(ちょ)(ぎゅう)は日本主義を唱え古来の伝統重視と国民精神発揚につとめた。これらが明治中期の主流であったのは怒涛のような欧米文化に日本のアイデンティティ喪失の危機感が背景にある。対米敗戦後と酷似しているのは矢張り欧米への劣等感に根ざしており真の日本文化に自信のない日本人の愚かさ、嘆かわしさが見て取れる。 

宗教の動向                                 明治初期の廃仏毀釈に仏教界は大きい衝撃を受けたままであった。徳川家康は一向一揆により宗教の恐ろしさを身にしみていたので浄土教を特に庇護して民衆対策をした。神道は、垂迹説の挫折により独自の教化を試みた。キリスト教は来日した外国人により熱心に伝道した。内村鑑三などのキリスト教思想家が現れた。近代思想や個人主義に大きい影響を与えた。キリスト教はサビエル時代から今日まで五百年経過しても韓国と異なり人口対比約一パーセントしか普及していない。教養としてのバイブルは魅力があるが自然崇拝で、縄文からの神道は日本人の心の中に確りと植え込まれているようである。西欧神ゴッドと日本の神さまとの相違は歴然として違うものである事の認識は正しくしておかなくては欧米思想に巻き込まれるだけである。人間、所詮は風土の産物である、日本人にはやはり風土の神が相応しい。    

国歌・国旗の由来                               日の丸は「日の本」の国にふさわしいデザインとして古くから扇や旗に使われてきた。江戸幕府が開国にふみきると、日本と外国と区別する印が必要で旗印と定めた。安政元年-一八五四年に日本総船印と決め、国の内外に布告した。それにより諸外国も日の丸が日本の国旗と認識されたので明治三年-一八七〇年に新政府も布告した。地図上でも地球で最初に太陽を受けるのは日本である。宇宙を現わす限りない白の空間、その大自然の大元・太陽の赤、シンプルなデザインは浩大で品位が高い。        

君が代は「わが君は」で始まる原歌が十世紀初め「古今和歌集」賀歌の冒頭に掲げられ長寿の歌として愛唱されてきた。そこで明治三年、国歌の歌詞として古来の「君が代」を選び、来日中のイギリス人が曲をつけた。しかし、その旋律が歌詞に合わず明治一三年宮内省の林広守らが雅楽の譜を作りそれに海軍省の音楽教師エッケルトが洋楽式に編曲した。欧米諸国の国歌の歌詞は戦闘を叫び血とか武器とかで報復を叫ぶ軍歌調ばかりである。日本の国歌の素晴らしい格調ある曲と歌詞は世界一と断定できるものである事を国民は知らなくてはならぬ。            

ラフカデイオ・ハーン                             小泉八雲は明治二三年-一八九〇年ギリシャ生まれの英国人。帰化して小泉八雲、私は中学時代に八雲の英語で大いに学んだ。幼くして母を失いその慕情が東洋文化を暖かい目でとらえる大きい要因と言われる。一九世紀は西洋文明優越時代で、近代化即西洋化、文明化即キリスト教化の観念が世界を、特に日本を支配していた。その時代に八雲は、日本の庶民の間に流れる伝説や固有信仰に深い共感を持った。日本の風土とそこに生業を営む人々の心に魅せられた。そしてそれを英文で海外に紹介し日本の伝統文化の良さを伝播した人である。

一三 対米敗戦の序曲                               国際情勢の変化と日本
一 陸軍横暴の端緒                                 大正天皇が即位され明治最後の内閣は西園寺公望であった。不況の中、軍備拡張を図りつつも財政緊縮化につとめていた。朝鮮駐屯の二個師団増設を閣議で否決、不服とした陸軍大臣上原勇作が単独で天皇に辞表提出。陸軍が後任の陸軍大臣を推薦しなかった。為に内閣は総辞職した。この時、陸軍参謀総長・軍令部長や陸軍大臣が内閣とは別に天皇に進言する帷幄(いあく)上奏権が問題となる。この時に大東亜戦争への助走が始まったと言える。陸軍の横暴こそ先の大戦・中国への戦争の真の原因と思う。              

二 尾崎行雄の議会演説                            大正二年-一九一三年二月桂内閣不信任案上程時の弾劾演説である。                  「彼等は常に口を開けば直ちに忠愛を唱え、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱えておりますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執っているのである。(拍手)彼等は玉座を以って胸壁となし、詔勅を以って弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか。・・・又、内閣総理大臣の地位に立って、然る後政党の組織に着手するというが如きも彼の一輩が如何に我が憲法を軽く視、その精神のある所を理解しないかの一斑が分かる。」(帝国議会衆議院議事速記禄)             桂総理は天皇の詔勅の威力を乱用し政府への攻撃を抑えようとした、これは非立憲的であると非難された。ここらに天皇を悪用する卑しい臣下が戦争独走への道を開いて行く。                                   明治の精神                                 明治天皇の御製「ゆくすえはいかになるかと暁のねざめねざめに世をおもふかな」に見られるように、国民と国民生活に深い関心を抱いておられた。国民も天皇に全幅の信頼を置いた。                                  乃木希典陸軍大将が自刃の辞世                        「うつし世を神去りまし大君のみあと慕ひて我はゆくなり」。              森鴎外は乃木大将の殉死の持つ意義を歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。夏目漱石は乃木の殉死を内面化した小説「こころ」の中で「・・すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」、これ等が明治の精神を現している。

一四 第一次世界大戦へ
日本の参戦                                 四年三月の間、ヨーロッパ全土に拡大、一九一七年アメリカの参戦で形勢逆転しドイツが劣勢となる。英国がドイツに宣戦すると、日英同盟を結んでいた日本も連合国側に参加し大正三年-一九一四年中国山東半島に出兵しドイツの租借地である膠州湾の青島や南洋諸島のドイツ領を占領した。                        ロシア革命と中国                              大正六年、一九一七年ロシア革命によりロマノフ王朝が倒れた。レーニン率いるソビエト連邦となる。連合国サイドにいた日本は要請を受けてシベリアに各国と共に出兵した。一九二〇年沿海州で日本守備隊が攻撃を受け邦人が殺害され一九二二年まで滞留した。日本はロシア初め諸国から領土的野心などで不信を買った。遅まきの欧米的領土拡張の野心模倣が始まったのは軍部であり天皇の意図ではない。また莫大な戦費で議会から批判も受けた。中国では日本が最後通牒を出して強引に製鉄会社の合弁させるなどもあり中国は国恥記念日として排日運動が活発化した。軍部の独走は本物となりつつあったと言える。                                    米騒動                                   シベリア出兵に伴う投機買いが起こり米価は暴騰した。大正七年-一九一八年、米の高値に不満を抱いた富山県の漁民の主婦などが米穀商におしかけたのを機に各地で七〇

万人もの労働者・農民が米屋や高利貸を襲った。京都・神戸では軍隊の出動があった。寺内内閣は米を廉売して事態の沈静化をはかった。     

初の政党内閣                                大正七年-一九一八年、わが国初の政党内閣が原敬内閣である。外相と陸海軍大臣を除く全員が政友会党員。絶対多数内閣である。あとで政友会に関する汚職・腐敗事件が続出し政党政治へ根深い不信感が残った。原は大正一〇年暗殺された。               原敬                                          平民宰相と言われたが祖父は南部藩家老。内務大臣時代に中央・地方の官僚組織を掌握し薩長出身者の藩閥脱出に挑戦した。道路・河川の改修、鉄道建設と公共投資に積極果敢で地方の党勢拡大に成功した。この利益誘導政治は薩長藩閥解体に有効であったが利権政治の体質を方向づけた。                            パリー講和会議.                               大正七年-一九一八年ドイツは破れ世界大戦は終わる。ヴェルサイユで講和条約締結しドイツは全植民地を失い軍備制限と多額の賠償を課せられた。アメリカのウィルソン大統領により国際機関の提唱があり大正九年国際連盟が発足。日本はイギリス・フランス・イタリアと共に常任理事国となる。日本は山東半島のドイツの権益の譲渡を受けドイツの領有していた南洋諸島の委任統治権を得た。                国際連盟発足にあたり日本は人種平等案を提出し、人種や国籍による差別撤廃を規約に盛り込む事を主張し実は多数の賛成を得た。アメリカとイギリスが反対し人種平等案は否決された。これは重大な歴史的事実である。日本のこの提案は二一世紀の今日の人権を先取りしたものである。日米戦争は根本的には欧米の人種差別が根幹にあり、彼等の優越的態度が黄色人種といわれるアジア人を受け入れず戦争勃発の根源的原因であろう。日本の提案は人間として差別のない世界を作ろうとしたものであり、この後の世界的混乱は彼等に在ると言えるのである。
中国・朝鮮半島                                中国はドイツの保有した権益を直接返還を求めた。これは当然であろう。中国では日本が権益を得たために日本人と日本製品排斥運動が起き中国は講和条約締結を拒否した。学生の反日運動が各地に広がった。半島でも独立運動が根強く、示威運動は全土に拡大し警察と衝突し軍隊の出動もあり流血も起きた。他国の領土に進出した日本も実は当時の生きる手段であったが是認されるものではない。今日の如く貿易の発達、科学技術と石油化学が当時あればと見るは虚しい。  

ワシントン会議                               世界大戦後、内向きであった独り勝ちのアメリカは漁夫の利を得て世界一のイギリス海軍を抜く海軍増強計画を進めた。興隆中の意気軒昂たる日本は、これに対抗しようとしたのは当然であった。八八艦隊の建造計画を推進した。恐らくは日本の対外勢力膨張と軍隊の強靭な資質に内心に恐れを抱いたのであろう、アメリカ大統領ハーディングの提唱により海軍軍備制限と極東・太平洋に関する国際会議-通称ワシントン会議が開かれた。これは平成当初のマネー敗戦をしたマネー大国日本攻略の手法と似ている。アメリカの世界戦略的意図からイギリス・アメリカ・フランスが組み日本をターゲットに四カ国条約を結ばせ太平洋諸島の現状維持を認めさせた。同時に大戦で弱体化の姉妹国イギリスを唆して日英同盟を廃棄させた。これは白人の日本に対する包囲網であり既に対日戦争の匂いが感じられる。日英同盟の破棄は世界の屋台骨との連携から外れることでありその影響は計り知れないものであった。                 

ワシントン海軍軍縮条約                            これは軍備制限条約であり極東の興隆国、日本への拘束である。世界戦略のある国との相違は現代でも明白に違う。そして白人との世界観の違いを明白に認めざるを得ない。主力艦の保有トン数をイギリス・アメリカ五、日本三、フランス・イタリア一・六七に制限、西太平洋の防備制限等である。幕末の開国から一挙に世界へ進出した日本はここまで白人に拮抗するまでに至っていた。客観的に見れば、これは日本の行き過ぎであろう。そこに内外に矛盾が起きても不思議ではないし当時の先進国から見て不安が生じたのも無理はあるまい。   

九ヶ国条約                                 ベルギー・中国を加えた九ヶ国がアメリカの提唱した中国の領土と主権の尊重、経済活動の為の中国の門戸解放、機会均等原則を国際条約として成分化した。日本は、それに従い山東半島の旧ドイツ領の権益を中国に返還した。アメリカの主張は尤もらしいが要するに日本の出すぎの防止であり、近年の日本経済力削ぎ落としの米国の戦略と酷似している。その恐れの背景に日本人の資質の優秀性と国民の集中力の高さがあるのを見落としてはなるまい。           

ワシントン体制                               縷縷述べたものは、要するに東アジアと太平洋地域の国際関係を当時の列強間で協調をめざした、即ち日本の力の抑制である。これをワシントン体制といい第一次世界大戦後の世界秩序を形成した。これにより日本は言うまでも無くアジア政策が強烈に欧米列強から制約を受けた。アジア人でないヨーロッパ諸国がなぜアジアに嘴を入れるのかと言いたいがアジアは植民地ばかりで独立国は日本のみであった。アメリカでは急速に勃興してきた日本へ風当たりが強く、排日運動が激化した。                  

アメリカの排日運動                              対日感情の悪化したアメリカでは第一次大戦中の下火が再び燃えはじめた。日本人のみの移民土地保有制限や入国拒否である。大正一三年-一九二四年には日本人排斥移民法が成立した。その排日の原動力であるが、世界各地から米国へ移民してきた民族と比べると、明治以来急速に世界の列強国に仲間入りした日本人は米国に於いても極めて質実剛健で勤倹振りが強く日本人に対して脅威を感じたとも言われる。 

第一次世界大戦総括                             九一九一四年、即ち大正一四年、資本主義の極度の不均衡の発展が世界再分割の期待を惹起した。日本も新規興隆国としてその意識があって当然であろう。世界大戦勃発で英国政府は日本に参戦を要請した。日英同盟は参戦の義務は無かったが日本政府は直ちに参戦を決定している。この大戦を機会に日本はドイツの中国根拠地を一掃して国際的地位を高めたいとした。大正一四年八月二三日宣戦布告をすると直ちに青島を攻撃、南洋群島を占領。英国は日本の軍事力をヨーロッパ戦線にと期待していたが、日本は寧ろこの機会に中国大陸で対列強国対策として地歩を固めたいとした。済南島、山東鉄道の領有を宣言。ドイツの権益のみならず中国の主権を著しく侵すものがあったと指摘されても致し方ない。当然世界各国から批判された。日本の対外的野心を露骨に示したものと言え日本を列強が警戒する決定的端緒となった。世界大戦中、日本はアジア市場を独占し参加諸国への商品供給などの好条件もあり日本の貿易収支は入超から出超へと転換し未曾有の好景気に沸いた。特に紡績業は九七倍も増加し英国を抜いて綿織物では世界第一位を占めるに至った。然し大戦終了後バブルは崩壊し大不況となり更に関東大震災により不況は慢性化した。その上に世界恐慌や金融恐慌に見舞われ深刻な経済的困難に直面した。この過程で独占資本の集積が進んだ。この間、国民生活は苦しく農村が疲弊し失業者の増大と社会問題が発生する。ロシア革命・米騒動が起きるがこの社会問題に政党政治が対処能力を欠いた。このような不信感の中で勢力を伸張してきたのがファシズムであり軍部による政治支配が実現して行くのである。そして軍部の統帥権問題から独走と、破滅への道を日本は進み始める。              

一五 .世界恐慌と満州事変                           大正九年、一九二〇年、株式、綿糸、生糸の大暴落に始まり、株式の立会停止、銀行取付六七銀行、支払停止二一銀行となる。恐慌襲来である。政府は五月二五日、国債償還、日銀融資に一億二千万円を放出し財界救出を実行したが物価下落、貿易減退など行き詰まる。大正一一年一九二二年、第二次恐慌へ突入し株価は下落、不況慢性化は深まった。                   銀行取付二九行を見た日銀は二億二千四八億円の財貨損失を見た。政府は支払い猶予令を施行したが金融は逼迫し株価も暴落、入超五億三千万円となり正貨は激減。このまま昭和に入り遂に、昭和二年一九二七年三月一五日、震災手形の処理から金融恐慌が発生。この根本原因はそれまでの日本経済の矛盾の集積であり二一世紀の今日の実情と瓜二つのものがある。即ち、戦後の反動的恐慌と大震災での打撃がある度に政府が財界の動揺を防止してきたが企業の整理と淘汰が進まず不況から立ち直らなかったのである。これは今日の現状と全く同様である。                               政府は七億円の補償救済措置により恐慌を食い止めようとしたが震災手形の処理に関して一部銀行の不良経営が暴露され取り付けが発生し銀行休業が続出した。内閣は三週間のモラトリアムを出したが不況は更に慢性化した。                 この恐慌の結果、中小銀行の預金は一流銀行と郵便預金に移動した。三井・三菱・住友、安田・第一の五大銀行は救済資金八億円の大半を吸収した。このため五大銀行の金融制覇が確立し独占化が進むこととなる。                      一九二九年大正四年、アメリカウオール街の株式大暴落は次々と資本主義国を巻き込み四年間に亘る恐慌は全世界五四年対比、輸入四〇パーセント、輸出四七パーセントの減少であった。この世界大恐慌が、経済的危機の日本をして大陸進出を求めた背景である。                  

大陸進出                                  日本が大陸に進出して中国と戦火を交えた事は決してよくない事であるのは間違いない。当時の列強諸国の白人は全てやっていたと言っても他民族の領土上での戦闘は特に現時点での感覚では局悪に近い。ここに至る迄、実に複雑な事情が対欧米、台湾の対中華民国、そして大陸・中国共産党現政権、日本の軍部、アメリカ首脳部に入り込んだソ連スパイの暗躍等々、一筋縄では説明できない事実が多々ある。それは日本の国内事情だけで侵略が進んだものでもない、中華民国、中国共産党の暗躍など相手の挑発もあり、なかんずく米国との複雑な経緯と推移をへて足を抜くことが不可能の泥沼に嵌まったのである。戦争とは所詮双方に理がある相対的なものである。私見としては矢張りアメリカのプロットに嵌まった国際感覚音痴、島国の白人音痴の結果が齎した面が強い。かてて加えてシナ人の本質の狡猾さを共産主義中国に見てとれる。それは、二一世紀の現在、日本敗戦三年後に出来た国・現中国の対日態度である。                  日本は中華民国と戦い、そして平和条約を締結しておりながら、戦っていない戦後出来た国に二一世紀の現在まで、日本の過去を責められるのは理屈上からもおかしい。 彼らが自ら卑下する日本人をして敗戦直後の心理状態のままにしておくのが最高に彼らの国益に合致するからである。問題は日本人の決然たる姿勢の欠如に起因している、それは日本のメディアと日本人自らに在ると認識しなくてはならぬ。ここを乗り越えなくては真の日本独立は果たせない。問題は日本人に在るのだ。

第一次世界大戦のあと、中国は軍閥の抗争が激しく続いている。中国国民党は国民革命を目指しているが一九二四年共産党と提携した。これが第一次国共合作である。蒋介石を指導者とする国民革命軍を創立、軍閥・帝国主義打倒のため北伐を行う。一九二六年、大正一五年七月に北伐開始、一〇月漢口、翌年上海にいたる。然し、列強の圧迫と浙江財閥の要求をのみ共産党と絶縁した。そして南京政府を蒋介石が樹立する。                         一九二八年昭和三年四月、最後の軍閥張作霖打倒に進む。北伐のこの成功は中国に利権を持つ日本にとり、大戦後恐慌に苦しんでいた日本経済に深刻な影響を与えた。これを食い止め更に大陸の利権を確保する必要が起きた。日本は山東出兵を断行し、張作霖爆死事件を起こした。大恐慌の矛盾を外にそらすために中国の国共内戦に乗じたのであろう。一九三一年柳条溝事件を契機に満州事変を起こした。              

満州事変                                  満州事変の導火線からはじめなくてはならぬ。一九三一年、昭六年九月一八日の柳条溝事件勃発の電信が日本外交年鑑主要文書下巻にある。これは林奉天総領事の報告である。
第六二五号(至急極秘)・・各方面の情報を総合するに、軍に於いては満鉄沿線各地に亘り、一斉に積極的行動を開始せむとするの方針なるが如く推察せらる。本官は在大連内田総領事を通して軍司令官の注意を喚起する様措置方努力中なるも、政府に於いても大至急軍の行動差し止め方に付適当なる措置を執られんことを希望す。                   第六三〇号(至急極秘)参謀本部建川部長は一八日午後一時の列車にて当地に入り込みたりとの報あり。軍側にては極秘に附し居るも、右は或は真実なるやに思われ、又満鉄木材木村理事の内報によれば、支那側に破壊せられたりと伝えらるる鉄道箇所修理の為、満鉄より線路工夫を派遣せるも、軍は現場に近寄せしめさる趣にて、今次の事件は全く軍部の計画的行動に出たるものと想像せらる。
以上の報告の通り、当時、公式には中国兵の満鉄爆破にあったことになっていたが、この資料は実際には関東軍と中央政府の計画的行動が伺える。中国に於ける日本の利権の最大のものは、関東州-旅順・大連-の租借権と南満鉄とその付属地などである。一九三〇年頃から満州でも排日運動が盛んとなり、中国が満鉄に平行して、二つの鉄道を独力で建設したため、北満の大豆がこのルートで流れ満鉄は大打撃を受けた。国内では「満州は日本の生命線」として獲得せよとの叫び声が起きた。                このような情勢下にあり、関東軍を中心とする満州占領計画がめぐらされていた。閣議でも問題となったが、陸軍は参謀本部の建川少将を説得に派遣し、九月一八日夜奉天に着いたが元々同調者でもあり関東軍の参謀板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らの計画を黙認したと言う。関東軍は武力で満州を中国から切り離す事を企図したのである。柳条溝の満鉄線路爆破は、その夜の一〇時三〇分、奉天独立守備隊河本末広中尉ら数名によってなされた。関東軍は、これを中国側の行為であるとし、中国軍の兵舎北大営を攻撃し、ここに運命の「一五年戦争」の発端となる満州事変が起きた。 半年で満州を制圧した。若槻内閣は参謀本部と共同で不拡大方針を表明したが関東軍はこれを無視し事変は拡大の一途をたどる。軍の行動は日本の権益を守るためだとして世論はこれを支持した。若槻内閣は総辞職した。国民世論はこぞって満州の軍の行動を支持した、これをどう判断するか、国民が断固として反対しなかった、時の政府は不拡大の方針であった。     中国の対日感情は極度に悪化し排日運動も激化。上海で日本の海軍陸戦隊が中国軍と衝突した。然し列国の調停で紛争が収拾されると日本軍は即時撤退した。

満州建国                                   満州で関東軍により新国家建設が強力に推進されていた、昭和七年一九三二年三月、日、朝、満、蒙、漢の諸民族-五族協和-を理想に掲げて満州国建設が宣言された。清朝最後の皇帝・溥儀が執政となり、二年後皇帝となる。                   犬養内閣は満州国承認に消極的であったが、昭和七年の五・一五事件で殺害されて内閣が倒れ次の斎藤実内閣は両国に日満議定書を締結して満州国を承認した。軍部が新国家を建設するというのは実に納得のいかないものである。そして軍部が益々野望を膨らませて行くのである。関東軍と中央政府の意思疎通、関東軍の行動は恰も独立政府そのものであり、理念は兎も角として許しがたい独走であり日本を破滅に導いた原点である。                   

大陸政策の転換                               田中義一内閣は中国への不干渉政策を改め、欧米諸国と同様な権益擁護外交へ転換した。遅まきの欧米模倣である。親日的な中国の北方軍閥の巨頭、張作霖に満州の東三省を支配させ、中国本部を蒋介石に任せて日本の権益を維持しようとした。然し張作霖は中国のナショナリズムと北伐の勢いに押され、援助を受けてきた日本に抵抗するようになった。所詮、外国本土でのやり過ぎは禍根を産む。             

リットン報告                                  国際連盟日華紛争調査団は英国のリットン卿を委員長としてフランス・イタリア・ドイツ、オブザーバーとして米国の代表五人である。一九三二年に来日して精力的に現地調査し極めて詳細なものである。ここにその第四章を披露する。              「九月一八日午後一〇時より一〇時半の間に、鉄道線路上若しくはその付近に於いて爆発ありしは疑いなきも鉄道に対する損傷は若しありとするも事実長春より南行列車の定刻到着を妨げさりしものにて其れのみにては軍事行動を正当化とするものに非ず。同夜に於ける如上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と認めることを得ず。尤も之により調査団は現地に在りたる日本将校が自衛の為行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものに非ず」。事変は日本の正当自衛権の発動でないとし、満州に於ける中国の主権を認めている。                    

五・一五事件                                  海軍の青年将校を中心とした一団が首相官邸などを襲撃し犬養首相を射殺した。ここに檄文がある。「日本国民よ、刻下の祖国日本を直視せよ。政治・外交・経済・思想・軍事、何処に皇国日本の姿ありや。政権、党利に盲ひたる政党と之に結託して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育、腐敗せる軍部と、悪化せる思想と、途端に苦しむ農民、労働者階級と而して群居する口舌の徒と、日本は今やかくの如き錯綜せる堕落の淵に既に死なんとしている。革新の時機、今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ武器を執って立て、今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外の何物もない。農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ。 陸海軍青年将校 農民同志」である。   

犬養総理の次の斎藤実内閣は穏健派と言われて世論の支持を受けた。昭和六年-一九三一年、陸軍の中堅将校による軍部内閣樹立のクーデター計画が発覚した。三月事件、一〇月事件と言われるもので、翌年二月、三月には、血盟団員が前蔵相井上準之助、三井財閥幹部の団琢磨を暗殺している。いずれの事件も橋本欣五郎を指導者として陸軍中堅将校を構成員とする秘密結社、桜会に係るもので、これに大アジア主義の思想家大川周明が加わり引き起こした。その目的は政党内閣を倒して軍部政権を樹立するものであった。軍部の組織的猪突猛進。                   

二・二六事件                                  この頃、陸軍内部では、皇道派と統制派が激しく対立、昭和一〇年、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山が皇道派に殺害されている。昭和一一年-一九三六年二月二六日未明、皇道派の来年将校が首相岡田啓介、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、侍従長鈴木貫太郎らを襲撃した。高橋是清、斎藤実は殺害された。東京は戒厳令が敷かれ、天皇の命による反乱軍討伐体制がとられ事態は収拾されたが皇道派は力を失い統制派が主導権を握った。皇道派は、国体を明白に唱える荒木貞夫、真崎甚三郎ら将軍中心の勢力、統制派は陸軍省や参謀本部の軍の統制を基礎に大陸経営を進める勢力であった。大陸進出勢力が主導権を把握した事で事後の日本の大陸進出が本格的になる。ここらに敗戦を招いた路線が既に見られる。それは昭和一〇年であり、これから支那事変が起き抜き差しならぬ道へ進むのである。青年将校の義憤を私は日本に、真のノブレスオブリージュの欠如を見てとるものである。戦後のそれは更にプアーであるし今後の日本に空恐ろしい悲哀さえ覚える。日本に真のエリート教育が絶対必要である。          

国際連盟脱退                                日本の大陸進出は、満州国独立承認、熱河省への侵入など次第に露骨となる。これは国際連盟を刺激した。国際連盟は一連の行為は侵略であるとして対日勧告案が提出された。総会で四二対一で採択された。日本は連盟脱退を提出した。日本の大陸進出を正当化し連盟諸国から離れ国際的孤立への道を進んで行く事となる。                     

日本ファシズム                               ファシズムは第一次世界大戦後イタリアで起こった民族主義的社会主義運動で尖鋭な反革命集団を推進力として既存の国家権力の反動的独裁を強化するものである。日本の場合ファシズム運動は満州事変を起点として進展した。日本の場合は大衆運動ではなく、軍閥などの上層部の運動が特色である。政党政治の腐敗に対する不満を利用して急進的な国家改造運動である。資本主義の行き詰まりを打開するため、侵略、排外をして天皇中心の国家改造をめざし、武力によるアジア解放を目的として急進的運動が起こったのである。 

一六 .大アジア構想-大東亜共栄圏                           日本のような小領土の国は、その発展の為に大領土を保有している英国やロシアと戦う権利があるということから、英国・ロシアをアジアから排除して日本を盟主とする大アジア構想である。これは二一世紀の現時点で考えても、白人の五百年の世界的侵略の事実からして極めてアジア人としては正しいと言える。残念ながらアジアで日本以外は全く国家として力のある国は皆無であった。日本のみが白人に対抗し猪突猛進して崖淵に落ちたのは歴史の悲劇だが、結果は人類史に残る偉業を打ち立てていると堂々と記憶してよい。

世界恐慌と日本                                一九二九年、ニューヨークのウオール街における株式大暴落に端を発したアメリカの恐慌は翌年欧州に波及し世界恐慌へと発展した。危機を乗り越えるため、各国は夫々独自の政策を進めた。英国は一九三二年、カナダ・ニュージーランド・オーストラリア・インドなど連邦諸国を動員しオタワ会議を開き自由貿易を棄て排他的なブロック経済体制を作る。アメリカは高関税により輸入を抑え一九三三年大統領ルーズベルトがニューディール政策をとる。これは外国に投資していた資金を国内公共投資にあて、政府指導の不況乗り切り策である。巨額な賠償金に苦しむ敗戦国ドイツはヒットラーのナチスがベルサイユ条約破棄と植民地の再分割を要求する政権を獲得したのが一九三三年である。疲弊していたイタリアはムッソリーニが既に政権に在り領土の拡張を策謀し一九三五年にはエチオピアに侵入した。いずれも他国を振り向く余裕が無く国内不況を対外膨張策で克服しようとしている帝国主義策が当時の姿である。

閑話休題                                  満州事変前後から、国内外の深刻な経済恐慌、そして政治、軍部の確執があり又、国民世論の満州進出賛同の背景から対外進出は当然の風潮であった。さらに満州軍部の独走が加わり、日本は抜き差しならぬ対外膨張へと大きく進んで行く。            

共産主義                                                                経済的不況の進行から満州事変後、無産党は国家社会主義へ傾斜、資本主義打倒の為に、赤松克麿らは国際的な領土再分割を綱領に掲げている。これは現代の視点から見れば白人の世界侵略を訴えておるものであり、世界の後進国、且つアジアの唯一の先進独立国・日本ならではの発想である。昭和八年獄中の共産党最高指導者、鍋山貞親は転向声明を出した。コミンテルンは既にソ連を擁護した一機関に過ぎない、君主廃止は日本に合わない観念的だとし、天皇を民族的統一の中心とした独自の一国共産主義を提起した。マルクス主義敗退と共に日本回帰が発生した。現今共産党の感覚は国際共産主義の残滓で時代遅れであろう。         

一七 .統帥権と日華事変                           統帥権                                   法人としての国家が統治権の主体であり、天皇は憲法に従い統治権を行使する国家の最高機関であると美濃部達吉が主張した。天皇は統治権の主体であるとした軍部や国家主義者が美濃部を攻撃し政府に対して取り締まりを求めた。当時としては天皇は元首であり統治権の主体であろう。然しながら軍部が統帥権を意のままにし始めた為に日本国の進むべき道を誤らせたのである。軍部が既成事実を作り統帥権保持者である天皇の裁可を得つつ進まなかった事こそ敗戦の根源的巨悪であろう。        

日華事変 -蘆溝橋事件                             昭和一二年、一九三七年北京郊外の蘆溝橋で、突如として日中両国軍が衝突した。近衛内閣は不拡大方針で一時停戦協定が成立した。七月末、政府は武力による事態打開と居留民保護のため内地師団の動員令を下し華北での両国紛争は拡大する。八月には日本軍海軍将校が殺害されたので戦火は上海に飛び火し日本は不拡大方針を放棄した。中国の蒋介石も総動員令を下し、共産軍も戦線に参加し、戦闘は宣戦布告ないまま戦線は中国全土に広がり全面戦争となった。近衛内閣は、早期停戦を模索しドイツを仲介国として交渉したが収拾不能であった。日本は中国内に日本と協力する新興政権を期待して「今後国民政府を相手にせず」の声明を発表し、早期停戦の望みは無くなった。近衛総理は軍部を抑える為には内閣が強力な指導力が必要でその為の国家改造をと考えた。各方面から一身に期待を浴びた。昭和研究会は英国・米国と対立を回避しながら日本・満州・中国が互いに連携して経済発展すべきだとの東亜共同体論の基本構想を持っていた、アジア人の共栄圏である。日本主導で中国とこれが出来ておれば白人に対抗できたのに、日本の敗戦まで迂回しなくてはならなかったのは日本だけの責任ではない。中国の偏狭な或いは国内不統一があり残念である。                     昭和八年、満州問題は一応解決し日中は平穏であったのだ。然し関東軍は、この機会に華北を日本の影響下に置こうとして冀東防共自治政府を樹立した。中国の国民政府に抵抗していた現中国共産党は抗日救国運動を提唱、内戦を停止して抗日民族統一戦線の結成-第二次国共合作-した。日本は、ここで踏みとどまるべきであったが事の重要性を把握しなかった。痛恨の極みはやはり軍部の近眼視な政治判断の欠けた思い上がりであろう。首都南京の陥落後、国民政府は奥地の重慶で英米の支援を受け抗戦した、日本軍の戦線は伸びきり戦争は長期化する。中国国民党の汪兆銘は重慶を脱出し日本の支援を受けた新政府樹立を宣言した。米国は一応中立を保っていたが近衛声明の国民政府を相手にせず、に反発して蒋介石を支援し日米関係が悪化することとなる。米英を巻き込むこととなりアジアの隣人との深刻な戦いを招いたのだ。米英を敵とした事は世界的視野で勘案すれば国益上不利益なのは明白で現在でも政治経済面も同様である。世界の屋台骨を支える国々と争っては勝ち目はない。            

国民精神総動員と国民徴用令                                  昭和一三年、支那事変が抜き差しならぬ泥沼の様相を帯びてきた。戦時体制が強化され遂に国家総動員法が制定された。これは戦時に於ける人的・物的資源の統制と運用は議会の承認なく行う事ができるものだ。電力国家管理法も同時にでき国策会社による電力管理も可能とし一直線に国家あげて戦時体制となる。そして遂に国民徴用令が昭和14年発令され国民を徴発して軍需工場に動員可能とした。昭和一五年には砂糖・マッチなど切符制、一六年には米穀配給制となる。

経済統制強化と日米通称条約廃棄                        日本は軍需物質の多くを海外に依存しており、とりわけアメリカへの依存度が高かった。然し、アメリカは昭和一四年七月、日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。資材の入手は困難を極めた。アメリカを敵に回せば日本は困窮するのは自明であった。そのアメリカが中国の支援に回っているというのにである。知的全体的判断不能状態であり、既に、論理の必然の結果を見通しでき、精神主義だけの指導者であったのか、全く理解に苦しむものである。              

ノモンハン事件                               昭和一三年、一九三八年、満州国の国境線をめぐりソ連との国境で張鼓峰事件、翌年にモンゴルとの国境でノモンハン事件が起きた。日ソは軍事衝突した。優勢なソ連の機械化部隊の前に関東軍は惨敗したと言われたがソ連側の被害を今日見れば日本が勝っていたと渡部昇一先生は指摘されている。当時はソ連の被害が不明で日本は負けたと認識した。これは軍部により国民に秘せられた。これを国民が知れば日本の国力、軍事そして対米物資問題と理性が働いていたと思われるが軍部の秘密主義と独断が更に対米敗戦への道に進ませる事となって行く。      

日独伊三国同盟                                                      昭和一五年七月、ドイツとの連携に消極的であったが松岡洋右外相は九月には日独伊三国と同盟を締結した。同時期、米英の中国支援ルート分断の為にドイツに降伏したフランスと協定を結び日本軍の一部をフランス領インドネシア北部に進駐させた。こうして軍事戦線は拡大して行く。物資の補給をどうするツモリなのであろう。

日本指導部の非現実性                             日本はオランダ領東インドに対してアメリカの禁輸による戦略物資輸入の交渉をしたが不成立。アメリカ、Bイギリス、Cチャイナ、Dオランダの諸国が共同して日本の南方、現在のアセアン諸国への進出を抑える形勢となる。ABCD包囲網である。時既に遅きに失しているが、これは明白に戦争の生命線である物資補強路のないことであり日本指導部の非現実性を糾弾したい。             

当時の国際情勢                               昭和一六年四月、外相松岡洋右は独ソの友好関係を信頼して日ソ中立条約を結んだ一九三九年ドイツはポーランドに侵攻、イギリス・フランスは直ちにドイツに宣戦布告、ここに第二次世界大戦が勃発した。ソ連もポーランドに侵入、ソ連は続いてバルト三国を併合フィンランドへも侵入したがイギリス。フランスはこれを黙認した。一九四〇年、ドイツはパリ―を陥落させた。遂にイタリアもドイツと提携参戦した。       昭和一四年の陸軍阿部信行内閣、一月の米内内閣、いずれも大戦不介入の方針をとりアメリカとの協調を求めて交渉した。然し、ドイツの電撃的な成功は軍部に強い成功感を与え東南アジアに進出せよとの主張が陸軍に起きた。アメリカは中国を支援し日本に強硬な姿勢であった。昭和一五年、対日輸出の全面停止をほのめかしつつ日本に大きな譲歩を要求してきた。昭和一六年七月御前会議では、軍部の強い要求により南方進出が決まり、情勢が有利に展開した場合にはソ連の攻撃へ移ることとした。           

一八 .日米開戦                                 第二次近衛内閣は中国大陸での事変解決に向けて日米交渉に取り組む。駐米大使野村吉三郎、日米交渉の障害は外相松岡洋右である。為にわざわざ内閣総辞職して松岡を排除した。第三次近衛内閣は日米交渉を本格化すると共に予定通り南部仏領インドシナに進駐した。アメリカはこれに対して在米日本人資産の凍結、石油などの主要物資の対日輸出禁止措置をとる。日本経済を圧迫し対外進出を抑制しようとしフィリピンには極東軍司令部を置きマッカーサーを総合司令長官とし対日対策をとる。             近衛総理はアメリカ大統領との直接会談で事態打開する事としこの旨をアメリカに伝達した。駐日大使グルーは近衛の熱意に打たれ、首脳会談の早期実現を本国政府に強く訴えたが会談は実現しなかった。アメリカは戦争開始を決断していたのである。この会談が実現しないのは巧妙でアメリカが戦争をする意思があったと判定する。戦争は一方だけの理由ではない。敗戦して絞首刑にしたり、無差別民間空襲は全国市町村四〇〇以上、被災者数九百万人、人道に反する広島・長崎への原爆投下等、民間人大量虐殺である。戦争犯罪は双方にあるのだ。戦争より原爆とか大空襲のほうが残酷で非人道的であろう。

首脳会談を拒否された日本                           これでは戦争以外の道はないこととなる。昭和一六年九月六日、御前会議で対米交渉がまとまらなければ一〇月下旬を目安として対米・英・オランダ戦の準備をする事が決定した。戦争以外の道は在り得ない。その後も交渉は進展せず、継続を主張した近衛と陸軍大臣東条英機が衝突し一六年一〇月近衛内閣は総辞職した。そして東条内閣が実現した。 

ハルノート                                 東条内閣は戦争準備を進めつつも外交交渉による対米戦回避の可能性を求めた。米国は一一月二六日、国務長官のハルが覚え書を示した。ハルノートである。それには日本が中国・仏領インドシナから一切の軍隊を引き揚げる。重慶政府のみ中国の正統政府と認める、三国同盟を破棄するなど、要するに日本が満州事変以前の状態に戻る事の要求であった。日本政府はこれが事実上の最後通告と認定した。日米両国の資源と生産力に巨大な格差があるのを承知して遂に開戦に踏み切った。ハルノートの通りに日本が受け容れることは生存上不可能である。米国はフィリピンの総司令官の戦争体制も完了しており決定的に日本を戦争に追い詰めた、これは日ロ戦争以降の米国のオレンジ計画通りであろう。

大東亜戦争                                 第二次世界大戦を現在は太平洋戦争と言う。これは敗戦後のアメリカの意思による命令的呼び方である事を先ず知らなくてはならない。日本は一二月八日を期してアメリカと英国に宣戦布告した。開戦直後、この戦争を大東亜戦争と決定した。戦争の目的は、自存自衛とアジア新秩序の建設である。要するに五〇〇年の白人のアジア支配を見直す為の戦争である。それがなぜ太平洋戦争というのかは後述する。        

大東亜共同宣言                                
ここにその宣言文を披露する。開戦直後である。
「大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放してその自存自衛を全うし左の綱領に基づき大東亜を建設して以って世界平和の確立に寄与せんことを期す。
.大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す。
.大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す。
.大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以って世界の進運に貢献す。「日本外交年表並びに主要文書」

大東亜戦争の目的が人種差別撤廃にあり中世以降の白人の侵略に対するアジア人の抗議であり崇高な日本の意思である事が明白である。対米敗戦したが日本の意思のほうがアジア人の平和と幸福に貢献するものである。無念ながら中国と他の諸国の後進性が日本のこの精神を助けるものとならなかったのはアジア人の不幸であった。歴史のチャンスが未到来であったと言える。                   

一九 戦争責任                                 司馬遼太郎氏は、日ロ戦争の原因は基本的には六対四でロシアに責任があり、その中八割はロシアのニコライ二世という皇帝の性格に起因すると言われた。西尾幹二氏は同様に日米戦争は六対四、または七対三の割合でアメリカに責任があるという。そしてその中三割が人種的偏見を抱いていたアメリカの元首、大統領たちの性格に原因があるという。全く同感である。戦争は独りでは出来ない、必ず相手がいる。相手に戦争する意思がなければ戦争はおきない。アメリカは着々と準備を重ねていて、徴発行為を仕掛け繰り返した事が事実として残っているのだ。そこを日本人はなぜキチント考えないのか実に疑問である。日本人の戦後の思考は正常でないと自覚すべきである。        

オレンジ計画
一九〇四年、明治三十七年、日本が日露戦争に勝利した年である、アメリカ陸海軍は統合会議で世界戦略研究に着手した。対世界戦略のシュミレーションである。戦争開始した時、夫々どの国とどのように戦うかの計画策定である。ドイツを仮想敵国としたのがブラックプラン、イギリスがレッドプラン、そして日本がオレンジプランである。南米はまとめてパープルプラン、カナダはクリムゾンプラン、メキシコにはグリーンプランという戦争予定準備計画図を作成していた。日本のオレンジ計画とドイツのブラックプランが仮想敵国意識の中に長く残っていくのである。内容は、日本が戦争開始したら、海軍はどう動き、動員計画の見通しからあらゆる戦略を詰めている。毎年改定していてそっくりそのまま実行されたのだ。大東亜戦争開始の四〇年前の日ロ戦争直後から準備が繰り返されていたのだ。人種差別のカリフォルニアの排日移民問題は、こうした戦略的意識の中で発生しているのを忘れてはならない。                  

セオドア・ルーズベルト大統領の人種差別感情
対米戦争勃発時の米国大統領である。彼の発言がある、「日米間の人種的相違は極めて根深いものがあるので、ヨーロッパ系の我々が日本人を理解し、また彼らが我々を理解するのは至難である。一世代の間に日本人がアメリカに同化することは到底望めないので、日本人の社会的接触はアメリカ国内の人種対立を益々悪化させ、惨憺たる結果をもたらす。その危険からアメリカ国民を守らねばならない」。彼はインディアンの絶滅を広言していた。自分の身辺に多数の日本人が住み着くことは絶対反対であった。国家元首がこのような態度と心では日米が戦争になる事は理の当然である。さて、このような背景で、果たして日本が戦争に負けてしかも戦争犯罪国といえるのか、絶対いえない、日本のみが一方的に悪くないない。然し中国に出向いて戦争した事は良くなかった。先の戦争は対米国、対中国と別々に見なくては正しく見えない。日本人は先の戦争について学ぶべき義務が国民としてある。                

大東亜戦争異聞                               幕末の日本人は、五百年に渡る白人の世界支配を押し返すだけの精神と知識と力を保有していたからこそ、欧米諸国のわが国侵略を防ぎ得たのは明白である。これは日本人の子々孫々まで歴史教科書で語っていいと確信する。残念ながら戦後の米国占領により属国となり日本人は去勢されて真の国家とは如何なるものかイメージが掴めない国民が多すぎる。その理由だが、先ず、敗戦直後の支配層、戦地経験者の現在七十五歳以上の人達。この方たちは、自虐の心があり、戦争に参加したと言う小さい観点からの戦争忌避と米国の占領により骨抜きとなったと言える世代である。同時に日本人的奥ゆかしさをもつが故に戦前を慎ましく語らない世代である。宮沢元総理のように英語が喋れるだけで米国のいいなりの戦後政治をしてきた支配層がこの世代に多い。                次に敗戦直後に生まれた団塊の世代と言われる人達は日教組・社会党・社民党・共産党の戦後左翼の指導による国史喪失者である。この人達は歴史を歪んで把握している、正しい国史を学んでいない、学校から教わらない又個人的にも無知の人が多い。故に、大東亜戦争についての正しい理解は絶対必要である。日本人は先祖の遺志を体して太平洋戦争と言うべきではない。先の大戦の初志を冒涜してはならない。

次は先の大戦の米国首脳の会話であり日本が間違いなく日米開戦に誘導された事の明白な事実を証明するものである。日米開戦は昭和一六年一二月八日であるが下記は直前の一二月一日のアメリカ首脳の会話記録である。                   

スチムソンの日記             一九四一年一一月二五日 火曜日
大統領は、・・・・米国はたぶん次の月曜日に攻撃を受ける可能性があると注意を喚起し、我々はいかに対処すべきかを問題にした。問題は、我々自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾をうたせるような立場に、日本をいかにして誘導していくべきかということであつた。                               一九四一年一一月二七日 木曜日
ハルは「私はそれから手を引いた。今やそれは、君とノックスとの手中にある。」とつけ加えた。
大統領とはルーズベルト米国大統領。スチムソンとは陸軍長官。攻撃を受けるとは一二月一日の事。実際の開戦は一二月八日。ハルとは国務長官。手をひいたとは日米交渉の事。 ノックスとは海軍長官。   

二〇 .大東亜戦争に就いて                            第二次近衛内閣は大陸での事変解決に向けて日米交渉に取り組み駐米大使野村吉三郎は米国政府と交渉していた。日米交渉の障害であった外務大臣の松岡洋右を除くため内閣を総辞職し日米交渉を本格化させたが南部フランス領インドネシアには軍隊を進駐させた。これに対抗して米国は在米日本人の資産凍結、石油など主要物資の対日輸出禁止の措置を取り経済的に日本を圧迫し日本の対外進出を抑えようとした。同時にフィリピンにはマッカーサーを総司令官とする極東軍司令部を作り戦争体制に入った。開戦年の昭和一六年の事である。近衛総理は米国と直接会談で事態を打開することを決意していた。然し米国は日本と戦争を起こす意図を既に持っていた。米国の現地代表の日本駐在大使グルーは近衛総理の熱意に打たれ日米首脳会談の早期実現を本国に強く訴えた。然し米国は日本を叩きのめす計画実現の為に既に決意していた。戦争を欲していたのはアメリカである。それで戦争犯罪を日本だけに押し付けられている。主張も反論もしない不甲斐ない日本人と思わぬのか。昭和一六年九月六日御前会議では対米交渉がうまくまとまらぬ場合は一〇月下旬を目安として対米英オランダ戦の準備を完成する事が決められた。しかし、当然であるが交渉は進まない、妥結の見込みがないと主張する陸軍大臣東条英機が衝突し一〇月に近衛内閣は行き詰まり総辞職し東条内閣となる。            東条内閣は戦争の準備を進めつつも、外交交渉による米国との戦争回避の可能性を求めている。戦犯で絞首刑となった東条氏が戦争回避の可能性を求めていたのだ。戦争を求めたのはアメリカである。米国国務長官のハル一一月二六日、覚書ハルノートを日本に示した。それは「日本が中国・フランス領インドシナから一切の軍隊を引き揚げる、重慶にある中国政府のみ中国の正統政府と認める、日独伊三国同盟を廃棄する、日本が満州事変以前の状態に戻る事を要求する」というものである。これは日本の存在無視であり国家存続上到底飲めるものではなく事実上の最後通告である。米国は外交交渉の妥結する意思など毛頭ないのはスチムソンの日記に見るとおりである。         このハルノートは事実上の最後通告であると認めた日本は日米両国の資源と生産力に大差のある事を承知で開戦に踏み切ることとなる。日本は屈辱的な交渉をさせられたのはアメリカが戦争を希望し誘導していたからに他ならない。戦争は平和・平和と土井たか子や社会党のように叫ぶだけでは回避できないと知らなくてはならぬ。という事は戦争とは両者に責任があるという事である。一方だけが悪いし犯罪だという指摘は完全に間違いである。日本は自存自立のために生存をかけたので少しも謝る必要は少なくともアメリカに対しては全く無い。人類史上最悪の虐殺は原爆投下、東京大空襲である。内心は別として、正式に米国は今日に至るも全く謝罪していない。

二一 五百年の白人主義との対決であった                     要するにアジア諸国が中国も韓国も、日本の白人に対する世界史的理解を全く理解できない後進性があったのが最大の不幸である。人種差別もアジア諸国の植民地化も白人の強盗並みの領土侵略であり、それに対抗した唯一の国が日本であった。アジア諸国に感謝されていい筈であった、当時の無知な中国・韓国の愚かさを重ねて指摘したい。                日本は一二日を期してアメリカと英国に宣戦布告した。海軍はハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えた。またマレー沖の英国東洋艦隊を壊滅させた。日本はこの戦争を大東亜戦争と決定し戦争の目的として自存自衛と東亜新秩序の建設を掲げた。要するに白人支配のアジアから各国が独立し日本中心のアジア構想である。この日本の新体制を作らせまいとする白人との戦いである。しかも道義的に人種差別撤廃を掲げている。戦争の根幹的原因は白人優位の人種差別であった。この対米戦争に関して当時の日本の立場はキチント整理して記憶すべきであろう。           二二 戦争に思う   外務官僚                                  日本が対米宣戦布告する事によりドイツとイタリアも三国同盟によりアメリカに宣戦した。ここで忘れてならない事がある。アメリカの大統領は既に日本の攻撃を事前に知っていた。日本が戦争を仕掛けてくるように外交交渉を段階的に進めていた。真珠湾攻撃を日本が一方的に行い宣戦布告無しに闇討ちしたような認識がある。日本の指導部はアメリカに宣戦布告すべく駐米日本大使館に打電していた。処がである、今も猶変わらぬ腐ったような外務官僚の大使館は宴会の為にその打電を翌日に回していたのである。その為に闇討ちのような事を言われている。米国の陰謀にかかったのに「リメンバーパールハーバー」である。実に悔しいではないか、外務官僚の当事者はその後次官まで栄進した。この無責任な外務官僚は今日も続いている。真の国益を追求しない日本の外務官僚に強い憤りを持って監視しなくてはならない。対米戦争も初期の実に優位な段階で和平に持ち込めなかったのも軍事官僚であり遂に敗戦に導いてしまった。近年のマネー敗戦による国民資産の大喪失も大蔵官僚初め官僚が有責である。道路公団の藤井のように無責任な官僚の追放が日本に不可欠である。教育の崩壊も三流官庁の文部官僚行政にあるのと同様に日本国を何回も国家の指導官僚が滅ぼしている。

机上の秀才官僚の非現実性                           日本は対米開戦後、半年で東南アジアと西・南太平洋の広大な地域を占領下においた。ここで和平をしなくてはならなかった。これは痛恨の悲劇である。私はここに官僚指導の欠陥を感ずる。幕末の命を懸けた志士、明治の元勲なら和平をしたであろう。ここに官僚の現場と国家・国民を知らぬ机上の空論の跋扈を痛感する。

朝日新聞の歴史的欺瞞                             昭和一七年戦争開始年後である。東条内閣の下で総選挙が実施された。それは政府への翼賛であり政府推薦の候補が絶対多数を獲得し結社、翼賛政治会を結成し政府政策に全面協力した。日本人は単一民族と言われる、農耕民族は日和見で狩猟民族のように一匹狼が少ない。この戦争中に翼賛的姿勢を示さなければ生きる上で困惑した。そのような風土が大和民族にはある。然し、国家が生死をかけて大戦争をしているのだから民族は一つとならねばならぬ。                           然し、今にして言える事は、朝日新聞という現在の反日新聞すら先頭に立って戦争翼賛した。先頭を切って国民を戦争に煽ったのである。ミッドウェー海戦の大敗北すら報道しなかった。日本のマスメディアがジャーナリズム精神が本物であれば、真実は真実として勇気ある報道をしておればレベルが高い冷静な国民の意識を目覚めさせたと云える。敗戦後の朝日新聞は、今日に至るまで、矢張り真実に目を塞いで戦前と全く逆に、国民が一つにならないよう、靡かないように仕向けた報道をしている。ジャーナリズムは真実と真理の追究こそ第一義でなくてはならぬが、今猶イデオロギー的であり真実から目を背けているのは戦前とは逆の意味で問題がある。日本に真のジャーナリズムの欠如が戦争の真実から目を逸らしたといえる。                   それどころか朝日新聞は慰安婦の欺瞞報道を世界的に垂れ流して日本は恐るべき現実になっている。朝日はそれに対して少しも誠意ある態度と解決策を取っておらぬ。朝日新聞は国家と国民の敵であると断定する。

昭和一七月、ミッドウェー海戦で航空母艦隻を失った。連戦連勝の一年とは程遠い戦況の逆転である。翌一八年には南太平洋ガダルカナル島から日本軍は撤退した。北太平洋ではアリューシャン列島のアッツ島守備隊が玉砕した。国民には大本営発表として真実の報道がなされなかった。軍事官僚の国民に対する欺瞞である。昭和一八年にはビルマが英国からの独立宣言をした。英領のインドでは自由インドの仮政府が樹立された。要するに白人支配からの脱出である。東条内閣は大アジアの新秩序建設の方針会議を東京で開催し大東亜共同宣言を採択した。                                昭和一九月、マリアナ群島沖海戦に日本に敗れた、月にはサイパン島守備隊が玉砕、日本は太平洋全域の制海権・制空権をアメリカに奪われた。戦況が不利になると和平交渉は無理である。国民に連戦連勝の報道をしマスコミも報道しないで国民は欺かれたままで、それは軍部だけではない、朝日新聞を初めとする報道機関からでもある。遂にサイパン諸島から米国の長距離重爆撃機B29が工業地帯の爆撃を始め四〇〇市町村への無差別爆撃を始めた、原爆の投下も決行し、勝敗は決定的なものとなった。

宮沢喜一総理・河野洋平官房長官                        戦局が悪化する中で国家の一大事であり当然だが、学徒が動員されたり、我々中学校の生徒も生産に動員された。女子は挺身隊と称して未婚女性が工場で生産活動に従事した。国家の為に身を挺して勤労奉仕する意である。戦後数十年経ち、挺身隊を性の問題と同一視するなど理解に苦しむ。何故断固として韓国に拒否しないのか。事実と異なるが、恫喝されると直ぐ引っ込むあの宮沢総理と、顔つきに似合わぬ腰抜けの河野洋平官房長官が政府としてそれを認めてしまったからである。この二人は未来永劫国賊として国民に泥を塗った政治家である事をこの際記憶を新たにしなくてはならない。

学徒・徴用・艇身の総動員                            当然、日本国民である朝鮮・台湾でも徴兵制が実施され戦闘に参加した。至極当然の国民としての義務である。又、当然彼等も日本人であるから徴用され日本各地に配置され炭鉱やら工場で働いた。強制というなら内地の日本人も強制的に挺身隊とか徴兵されたのと全く同じであり、現時点での物差しで見る考え方には組みしない。

無駄にすまい!                               戦争は遂に終局を迎える。昭和十九月にはサイパン島が陥落し東条内閣は倒れた。一〇月にマッカーサーを総司令官とするアメリカ軍はレイテ島に上陸。ここで日本軍は断末魔のような特別攻撃隊で若い一〇代の少年飛行兵が体当たりで敵艦に攻撃、人間魚雷がこれまた敵艦に体当たりした。あらた若い純心な青年をムザムザ死に至らしめ、国民をミスリードし大嘘をついた大本営の軍人官僚達に私は強い憤りをぶつけたい。天皇陛下も国民も欺いた中枢軍人官僚が結局は最も悪いと断ずる。大本営発表を信じてムザムザ死んだ若者。知覧や江田島の純情な青少年の遺書を読むがいい、現在の日本人の覚醒には絶対必要な民族の叫びである。彼等の死を忘れては日本民族の未来は絶対に無いであろう。

お粗末外交                                 小磯内閣はソ連を仲介として一一月にはアメリカと和平交渉を試みる、だが、一九四五年月にはアメリカ・イギリス・ソ連の三国がヤルタで会談し対日参戦を極秘決定していた。条件は南樺太・千島のソ連への割譲が条件である。この時期に和平など可能の筈はなかったのだ。千島の返還はアメリカと無関係でない、この黙約がある。

悲劇                                    昭和二〇一〇日夜間の東京無差別大空襲を初めとして日本の四〇〇余りの都市はアメリカの大型爆撃機による焼夷弾の集中攻撃を受けた。国際法無視の民間人大量攻撃である。東京大空襲は一夜にして一〇万人の死者である。これらは残酷極まりないやり方であり決して忘却してはならない。月硫黄島守備隊全滅、月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸、殆どすべての軍艦を失う。ここまで戦局が悪化すると敵は決して簡単に和平をしないものだ。鈴木貫太郎内閣も本土決戦を国民に訴えつつ密かに戦争終結を図っている。和平は戦局有利な時でなくてはならぬ。月ドイツが無条件降伏、アメリカ・英国・ソ連三国はポツダムで対日問題を協議し中華民国と共同で日本に降伏条件を示した。ポツダム宣言である。

秀才軍事官僚の結末                              軍事官僚の官僚的判断が国家国民を断末魔に落とした。天皇を利用し、統帥権を悪用し、国民を欺いていた。八月日アメリカ軍は世界で初めて原爆投下、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破り対日宣戦布告し満州・北朝鮮・南樺太に侵入、更に日本が連合軍に降伏した後の月末に千島列島を占領した。明白なソ連の無法、無頼のやり方であり日本人として断じては許すことはできない行為と認識しなくてはならぬ。

ポツダム宣言考                                この中の六条に、日本国民を欺瞞して之をして世界征服の挙に出るの過誤を犯さしめた・・がある。日本が世界征服などとは白人等は良く臆面も無く言うものかである。白人こそ、この五百年間世界征服侵略の悪逆の限りを尽くしているのは明白である。     

第十条に、戦争犯罪人云々とある。戦争は双方に原因があり一方だけを犯罪人とは盗人白々しいものである。更に、言論・宗教の自由・基本的人権の尊重を確立とあるが宗教の自由がない処か、民族伝統の神道・武士の精神伝統を実際は否定するように武力を持って威圧したのがアメリカ占領軍である。天皇陛下の威令が厳然としてあったし日本人の特性でもあろうがイラクのように対米抗議叛乱を起こす勇気もない農耕民族、日本国民でもあった。天皇さまがおられたから日本の占領政策は成功したのだ。

八月六日ポツダム宣言を受諾するか否かの御前会議があった。国体護持を巡り東郷茂徳外相は受諾、阿南惟幾陸相は本土決戦。昭和天皇は遂に立憲君主の掟を破り聖断され戦争終結。八月一四日、日本はここにポツダム宣言を受諾した。               有史以来初めての敗戦である。日本軍は一斉に戦争をやめ連合国に降伏した、無条件である。天皇の威令のもとに粛々と兵を収めた。天皇の御徳と威令のもと平和裏に終戦した。占領政策も天皇の隠然たる御徳のもとに平穏に進んだ。

陸軍の統帥権無視、横暴があり和平機会を逸し民族として悲惨な結果が到来した。今日に至るまで、その歴史の事実と反省が日本国民として全く無い騒々しい戦後左派のイデオロギー的主張とは全く違う意味での反省がなされていないから現代の国民的悲劇を招いていると思われる。

敗戦                                    敗戦に伴い内地の軍人は復員できたが中国大陸では、国民政府軍と中国共産軍との内戦、又ソ連の中立条約を破っての満州侵入で帰国が遅れた。ソ連が侵略した満州で日本人一六〇万人がソ連支配下となる。北朝鮮の二八万人も含めて内地引き揚げにあたり、実に多くの犠牲者が出た。無法・無頼ナラズモノ、極悪非道農奴の民族・スラブ人ソ連民族のなせる業である。日本人は決してこの無法な行為を忘れてはならない。特筆大書すべきは、ソ連が侵攻した満州・北朝鮮・南樺太・千島列島で武装を解除された日本軍人のうち実に五七万人をシベリアに連行し収容し長期間に亘り強制労働を強いられ極悪な環境下で約六万人が死亡した。ソ連が崩壊したとはいえ曖昧なままにされている。日本人はこれを決して許し忘れるわけにはいかない。戦争に負けるという実態を知らぬ日本人が大半を占めているのはおぞましい。

統治指導性                                    さて、戦争は終結した。思考の柔軟性の欠けた戦争であった。負けるべくして負けた。負けたのは単に物資の不足だけではなく情報とか科学に完敗している。この反省が戦後の経済発展に寄与するのだが、戦後六〇年依然として情報と柔軟性に欠けたままでマネーやら外交で負けている。国民は優秀なのに政府が負けている。政府を構成する政治家と官僚に起因する。私はこれは軍事官僚という公務員の思考の柔軟性の欠けた存在と共通項で、政治家や官僚に問題があると確信する。要するに指導者に統治指導性の欠如がある。

白人主義崩壊  人類史的日本の貢献                              然しながら、この戦争を契機に長い間アジアを侵略し抑圧していた欧米各国の支配は急速に崩壊して行く。そしてアジア諸民族は様々な推移はあるが独立を実現する。これは実に人類史的な日本の貢献であり特筆大書すべきことではないか。近隣国など、巨視的歴史観の欠けた諸国は盲目であるが、百年単位の物差しでみれば、近隣国の民度の向上と安定と共に日本の結果としてなし遂げた歴史的偉業に感謝する日が必ず到来するであろう。彼等はまだ精神的に幼稚で未熟であるに過ぎない。問題は日本人そのものに在ると断ぜざるを得ない。

日本人自身の問題                               敗戦後早や六〇年にならんとしている。たかが一度戦争に負けたくらいで、民族の魂までかくも見事に捨てた国民であったとは、二千年の悠久の歴史ある民族として情けない。この原因は勿論日本人自身にある。戦後、教育問題を真剣に考えないで、即ち子弟の教育を放棄して経済オンリーで過ごした報いである。いち早くやればいいのに、時既に遅し。戦後のアメリカの換骨奪胎の教育で伝統を根こそぎ忘れてしまった。それなのに今尚国民レベルでの意思統一が出来ないという現実がある。和魂の復活こそ大事なのに和魂すら概念として分からない日本人となっている。伝統を守れと言っても感覚的に分からない世代となった。なぜ、そうなったのかは、次に占領軍の日本統治を具に見ることで解明をして行きたい。敗戦直後の事を忘却しすぎているのが現代日本人であり、我々がその体験を知る最後の年代として子孫に伝えなくてはならぬ責任があると信じている。

二三 失われた日本                               育勅語の口語訳.                                    教育勅語のどこが悪いのか、これは人類社会の普遍的な原理だと言えるのではないか。そこで口語訳を披露する。
教育勅語の口語訳.
「私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は、教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合いそして、自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としてのつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることであります。このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。                      

戦後の経済                                 これは大変優秀な成績を残したので詳しくは語らない。                      一 .大変優秀な人材が軍隊消滅により民間に集中復帰したこと、                     二 .国民一人残らず、食うために命懸けであったこと。                 三 .公職追放により三井・三菱・住友・安田の四大財閥を初め財界首脳が追放により一掃され、人事の大幅の若返りがあった、即ち今日に見られる老害が抜本的に除去された事が発展の背景にある。現在のように豊かで小成に安んじたものでなく、意気盛んな人材が多かったのだ。                    

農地解放                                  二月から第一次農地改革が開始。改革不十分と命令されて自作農創設法を制定。二二年から第二次農地大改革が始まり二五年まで続いた。不在地主は平均一町歩を超える部分を政府が強制買い上げ、廉価で小作農に売却となる。これは国民にとり有益であり敗戦しなくては不可能であっただろう。

公職追放令                                 マッカーサーにより戦前の公職者一〇万人、吉田茂以下を公職から追放した。私の父は私の生まれた昭和六年には町の助役、昭和七年からは用瀬町長として一〇年間在職した。それにより父は公職追放で失職した。私もその被害者である。                                            

食糧危機                                  敗戦前後、これは食い盛りの青少年にとって実に大変な経験であった。米が無く、芋・南瓜・薩摩芋の蔓などを食べた経験を忘れない。農家に勤労動員で稲刈りに行きお昼に実に美味しい御握りの感動が忘れられない。特に空襲により焼け野原の東京・大阪など戦後の都市部の国民生活は壊滅的であった。闇市が公然とあった。鉱工業生産は三分の一以下、米の生産地の台湾・朝鮮を失い戦争末期から続いていた食糧不足は戦後に爆発的となった。失業者は街に溢れ物不足から悪性インフレへと進んだ。今から思えば、これらの経験は生きる上でどれ程の強さを身につけたかもしれない。現在の飽食と肥満は精神力の弱い人間を増やしている。                       ハイパーインフレ                               忘れ難いのは、昭和二一年二月突如として金融緊急措置令が発布され、新紙幣を発行し一週間を限り手持ち紙幣と交換させ旧円の流通を禁止したことだ。一定額以上の預金を封鎖した。両親がシールを旧円に貼り使用した記憶が鮮明である。国民の生活は当然窮迫し、モラルの低下、秩序の崩壊が見られた。現在、一部経済学者・評論家で現金・預金の金融資産に数パーセントの課税で国家の財政危機を救済するというが、国家とは国民で成り立つ、究極のツケは国民に来ることは当然である。                  

二四 冷戦と国際連合                              昭和二〇年、一九四五年第二次世界大戦の戦勝国である五一ヶ国が加盟国となり国際連合が発足した。米ソは戦後の国際秩序で対立した。米国は自由主義陣営の中核である。ソ連は一九四七年国際共産主義のコミンフォルムを結成し一部の欧州諸国と共産主義陣営として対立する。これが冷戦の端緒である。ここで忘れてはならないのは、この国連の拒否権を持つ米国、ロシア、中国、英国、フランスの五ヶ国が二一世紀の今日まで依然として世界を支配している事である。日本は米国に次いで国連拠出金は二番目であり、ロシア、中国は一パーセント台、英国、フランスは五-六パーセントという事実である。この摩訶不思議なことが六〇年間も支配し続けているのは絶対容認できない。       

中国の国内事情                               日本は米国の支援を受けた中華民国の蒋介石と戦争して敗北した。蒋介石は現中国共産党に敗北し台湾に撤退し中華民国として存続した。中国共産党はソ連と手を結び毛沢東は日本敗戦後一九四九年中華人民共和国を建国した。                  ここに対中国問題の、ややこしさが根在する。二つの中国が厳然としてあった訳で、又その背後の米国が恰も侵略を受けた被害者のような顔をしてきている。日本は中国に進出したのは良くない、然し欧米はアジア太平洋を侵略してきたのは歴史的事実でもあるのだ。ここに先の大戦の問題の複雑さがある。日本は勇気を持って、きちんとした歴史的立場に復元した態度を政府として対外的に示さなくてはいけないと信じる。あの毛沢東は日中国交回復時、時の総理田中角栄に対し、日本は謝る必要はない、日本のお蔭で建国できたと言ったではないか。子々孫々まで覇権を求めぬと周恩来首相は発言して国交回復した。シナとはそういう国である。                    

朝鮮戦争                                  三八度線を越えて韓国に侵攻して朝鮮戦争が始まる。北朝鮮が先に侵攻したもので日本は全く関係がない。            

二五. 米国の目覚め-半島情勢の理解                        在日米国占領軍総司令部は、朝鮮戦争の勃発で初めて日本が明治維新前後に安全保障問題で半島に進出せざるを得なかった事情を肌で知った。米軍が半島に出動する為、日本に軍事的空白が生まれ、治安上、遂に日本に警察予備隊(現自衛隊)の設置を命令した。これは占領方針の大転換である。当然の事に遅まきながら米国は気づいたのだ。              

共産主義者追放                               朝鮮戦争勃発の直前、総司令部命令で、日本共産党幹部全員が公職から追放され、官公庁などで所謂、レッドパージで共産主義者を追放した。一方戦犯容疑者の釈放や公職追放者の解除を進めた。これは国際共産主義の脅威が現実のものとなり日本への政策を大転換したものだ。米国は実に現実的に対処するし間違えたら方向転換も早いが、やり方に粗雑なものがある。転換も早い、中国とか共産主義国はこうはいかない。それは共産党、元首の独裁に起因する。          

占領政策転換                                朝鮮半島情勢の変化により、日本を共産主義陣営に対峙させ自由陣営の一翼とし、強化させる方針に転換した。日本弱体化の方針を変えたのである。日本の指導者はこの絶好の機を逸してしまった。

経済安定九原則                               経済の自律を求めた米国は、インフレ抑制の為に、経済安定九原則を指示した。税制の大改革が断行されインフレは沈静化した。倒産や失業者が増加し労働争議が激化した。官公庁は公務員法改正により争議権を失い内部分裂もあるがこれも次第に沈静化した。わが国は、このように外圧がなくては断固とした政策が打てないという欠陥がある。戦後から累積した諸問題は分かっておりながら抜本的改革が今日まで出来ないでいる。                     

占領政策の功罪                               このように敗戦後は占領当局の指示により改革が急激に進められた。従来の価値観が覆され、日本の伝統文化や国民道徳を否定する社会風潮が発生し今日まで尾をひいている。これは日本人の自覚の欠如、講和以降の日本人自身の問題である。然し、経済は東西冷戦という環境が日本に大きく幸いして大成功を収めることとなる。だが、これが伝統文化を見直す機会を失う基となる。                     

二六 講和条約-日本の独立                            講和条約が成立したのは昭和二七年で、ここに日本は占領から開放されて一応独立を果たした。独立が名目的であるのは日本人の精神的独立が欠けるからだ。然し東西冷戦中であり、自由陣営に属する日本は共産国ソ連・中国・北朝鮮の脅威に自力で対抗不能であり日米安全保障条約を米国と締結しアメリカの核の傘で経済繁栄のみ追及することとなった。日米安保によりアメリカ軍に基地を提供する事を約束した。この頃朝鮮戦争があり日本は米軍の特需景気で経済は急速に上向いていた。昭和二六年から三〇年にかけて国民総生産や個人消費が戦前の最高水準に達し神武景気と云われた。食料は戦後アメリカのガリオア資金で確保されていたが、昭和三〇年以降米の豊作が続き食糧難も克服した。昭和三一年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。         冷戦の最中であり国家の安全保障は米国に依存した。ここで、日本の指導者は、この講和締結を機に、敗戦により打ちのめされていた日本人の独立心を刺激すべきであった。敗戦を終戦と言うような曖昧な捉え方が象徴するように、又経済繁栄に現を抜かしていた為に国家・民族の未来に対する精神的な施策をすべきであったがしなかった。これは実に重大な禍根と言える。ここで伝来のものの復活を堂々としなくてはならなかった。大いに悔やまれる。           

講和後の国内情勢                               講和条約はソ連とは結ばなかった。勢力の強い労働組合は全面講和を求めた。昭和二七年講和条約発効直後のメーデーで警察と衝突した。目に余る労働組合に政府は、破壊活動をした団体を公安調査庁に取り締まらせる破壊活動防止法を制定した。同年、教育二法を公布し公職者が政治活動へ偏向した政治教育を不可能にした。然し、わが国は実に原理原則を確立しない国である。社会党・日教組など平気で教員を公務中に活動させてきた。それを見ぬ振りして今日までに至りその弊害は巨大なものとなっている。これは体を張って阻止しなかった校長やら、教育長、教育委員会など司、司の有責である。                

五五年体制なるもの                               昭和二九年、鳩山一郎内閣が誕生した。吉田茂内閣の経済第一主義に代わり、自主憲法制定、自主外交による領土回復、自衛軍の創設など自主路線を基本とした政策を掲げた。然し、翌年の総選挙で、革新勢力が三分の一の議席を占めた。為に憲法改正は事実上不可能となる。憲法擁護、再軍備反対を唱えた左右社会党が統一し絶対多数を占める自民党と対立する構図が出来た。政権党は今日まで憲法の枠内で経済発展に専念する事となる。国民の意識が成熟していなかったとは言え、ここで突き進んで行くべき保守であったと悔やまれる。社会党などは裏で金銭の授受を政権党とやっていた事を考えると実に腹が立つ思いである。   

岸信介                                   昭和三二年、岸内閣は第一次防衛力整備計画を策定し自衛力強化に努めた。その上で日米安保条約の改定をはかった。自主国家として正しい方向を希求した。当時警察官職務執行妨害の強化、学校教員の勤務評定という当然の問題に世論、特に社会党・日教組が反発していた。同時の安保改定であった為に、国会の批准で与野党が激突し、政府は野党欠席のまま強行採決をした。その為,議院外の安保改定反対の闘争となり、全学連を中心として国会議事堂を囲むデモ隊が警官と衝突した。新安保条約は参議院で承認のないまま自然成立した。直後岸内閣は総辞職した。所信を貫いた岸氏に全面的敬意を表する。この安保改定が冷戦から今日まで実に国益に貢献している。当時反対した社会党・共産党・日教組の連中はどんな思いであるのか実に腹立たしい彼らの戦後の日本破壊的活動である。 

北方領土                                  この領土がソ連に略奪された経緯は述べた。国後、択捉、歯舞、色丹の島々である。返還要求に応じない為にソ連とは現在でも平和条約は締結されていない。国後、択捉は安政元年、一八五四 年の日ロ和親条約で日本領土と確認され、昭和二〇年一九四五年ソ連に占領されるまで他国の領土になったことはない。まさに道義もない無頼的なソ連である。沖縄はアメリカから返還されている。韓国は竹島を自国領とするなど、黙って道義を求めても日本的道義心の無い近隣諸国であることを自覚しておく必要がある。韓国は竹島を自国の切手としようとしている。断固とした抗議を一切しないとは不思議な国である。国民も声をあげないから彼等が頭に乗るのだ。声をあげなくてはならない黙っていては認めたこととなる。これが国際社会である。   

高度成長                                  昭和三〇年代から日本は凄まじい高度成長を遂げて世界第二の経済大国となる。バングラデシュの大統領は日本をこの世の極楽とまで言った。国民の生活を強烈に変貌させた。工業国家として進んだため、地方農村の次男、三男のみならず一家あげて都市に進出した。このため地方の過疎化が今や深刻化してきた。地方でも現在六五歳以上の農家の子供たちはサラリーマンとして生活し農業の跡継ぎが無くなろうとしている。 

高度成長の後遺症                               農業のみならず、林業も後継者は更になくなりつつある。後一〇年数年もすれば森林業は壊滅してしまうと思われる。人口の減少は二〇〇四年をピークとして減少する。日本は衰退期に入る。一方都市では、人口の集中により騒音、大気汚染、交通渋滞、住宅不足と極めてアンバランスなものが深刻化しつつある。世界は高度成長の歪みは海水、河川水の汚染、大気汚染の公害として深刻である。山紫水明の日本は、米国の自動車販売用に道路建設を唆されて、国土はズタズタとなってしまった。欧米の原理はこうして日本を伝統的にも自然的風景をも激変させるものとなった。      

二七 日本株式会社の倒産                            それでも、経済は製造業の飛躍を通じて世界第二の先進大国となったが、政治的に冷戦後の世界的大変化への対応に遅れた。冷戦終結により、アメリカと欧州は、先ず日本の金融資本に目をつけて日本弱体化の方法を考案していた。それは、冷戦前に支配していた経済尺度の変更である。これがこのバブル崩壊前後に物の見事に日本を弱体化させてしまった。寄ってたかって冷戦受益者の日本弱体化の策謀は成功した。その過程で、日本株式会社は壊滅させられた。そして、今や、アメリカ株式会社の社是グローバリズムは着々と成果をあげつつある。日本は倒産したまま、経世済民の思想を放棄しアメリカの弱肉強食経済に転換させられた。アメリカ式経済へのシフトは日本人をして米国のような貧富の差のある社会へと進ませるであろう。            

激動する世界情勢ーー冷戦の終結                              一九八〇年代半ばから米ソ間の緊張は緩和を始めた。東欧諸国も民主化と非共産化を掲げて立ち上がった。一九八九年ベルリンの壁が取り払われ東西ドイツが統一した。一九九一年ソビエト共産党が解体しソ連邦は消滅した。七〇年のソ連共産党の社会主義大実験は破綻したのだ。これはソ連国民初め国際共産主義そのものの破綻であり、壮大なる社会主義実験も人間を幸福にしなかった事を意味する。思想的には共産主義は破綻した。これは極めて重大な事実である。この時に、為政者の確りした歴史洞察があれば、日本国のその後の舵取りは、この歴史的大変化にマッチしたものとなり、その後の一〇年も失われたものとならなかったのではないか。                    残念ながら、日本国は史上最高の経済的繁栄に浮かされており、世界情勢に対応する見識もなく、成り行きまかせで、気がついたら欧米諸国の冷厳な歴史修正の大波にもまれて経済的主導権を奪われ、政治経済的に巨大な国益を喪失したと言えるのではないか。世界金融資産の三分の一を保有し、円中心の世界を作れる実力を持ちながら成しえなかったのは、一にして国民あげての対米依存、独立心の欠如が根底にある。それは敗戦後の占領教育の結果であり、米国の日本弱体化占領政策の成功を意味する。これが原点である。一日も早い自尊独立精神の復元が日本人には絶対必要である。                   

五五年体制の崩壊                               東西冷戦の終結は国内的にも所謂五五年体制の崩壊を招いた。自民党は分裂し野党に転落した。細川内閣は自民党を除く八党派の連立内閣を作ったが、いかんせん付け刃の政権であり短命に終わる。その後実にレベルの低い総理の連続で日本は世界的な大変革期の舵取りに遅れてしまった。又、細川、村山は日本国として踏み込んではならぬ問題で近隣諸国へ妥協してしまい今日的問題として尾を引いてしまった。失われた十年は経済だけではない、根本には総理となってはならぬ人物が日本国のリーダーとなった事に全て起因する。

第二の敗戦 マネー敗戦                            冷戦終結直後から、日本の金融資産の巨大さに脅威を感じた欧米資本の秘密結託があったのであろう。日本の大銀行は薄資でありそのバックに日本銀行の融資があると喝破した彼等は、世界の資本市場の再構築を始めた。BIS基準による邦銀の締め出しであり、それは大成功であった。製造業で世界を制覇し蓄積した日本の金は吸血魔に吸い取られてしまう。それはマネーという虚業に長けたアングロサクソンである。マネーという虚業は欧米資本の情報操作もあり完膚無きまでに日本はやられて巨大な国民資産を喪失した。赤子の手を捻るように日本株式会社は倒産し、日本のマネーは廻り回って外資となり日本の企業は買収され倒産して今日に至る。              

アメリカの大衆                                米国は元来、難民から成立している。階層の二分化が激しい、大衆はレベルが低い、WASP、ワスプと呼ばれる支配層は知的レベルが高い、彼等は巨大資本を操縦し富を欲しい儘にしている。日本人のレベルは大変高く均一である。力を結集すればアメリカなど外国に負けないと国民の一人一人の自負が必要だ。それなのに敗戦による日本のアイデンティティ喪失で自負まで失っている処に大きい問題がある。二千年の国史と伝統文化の矜持こそこれからの日本人に必要な原点である

国民生活の変貌                               戦後の高度成長は日本人を物質的に大変幸福にした。占領軍アメリカの陰謀というか戦略もあり、日本人はパン食というアメリカ産小麦の大輸入国となる。日本国の道路網拡大も元々はアメリカによる自動車販売戦略であった。あらゆるものが、知らぬ間に、巧みに日本にはめ込まれていた。そのため工業化が急速に進み、地方の次男三男は大都会に集中し今日の地方過疎の遠因となった。余りにも都市へ集中し農業・林業の壊滅が予想される事態となり国土の均衡が消滅しつつある。                    

二八 日本外交  日本の油断                           現在のアメリカを見ると完全にアメリカ株式会社である。この失われた一二年間で、アメリカの日本経済攻撃の策謀というか、日本の薄ボンヤリの戦略の無いままに徒に時を過ごしアメリカにいいようにされてしまった感じがする。経済大成功による金融資産が十分あるから、破綻しないままであるが、この間に国債の累増が出来上がった。保有するアメリカ国債の有効利用もさせて貰えない。バブルに浮かれている間に経済敗戦に至り経済構造の根底が激変してしまい、その間世界情勢も二十一世紀型となり日本は取り残された。これは一にリーダー不在と指導者の洞察力の欠如だと思われる、否日本人の救いがたい欠陥かもしれない。

憲法改正                                  敗戦直後、占領軍に指示されて作った憲法を議論するのさえ憚られた、今漸く改正議論が具体化しつつある。このような国は世界には無いであろう。実に摩訶不思議な日本である。一日も早い改正により真の独立国、伝統を十分加味した二一世紀の新しい日本国憲法を一日も早く作り上げなくてはならない。       

国防省の設置                                実質的に自衛隊は国軍である。国家の安全の為に一日も早い国防省の設置をしなくてはならぬ。近隣に脅威が存在するのは明白である。備えはキチンとしなくてはならぬ。反対するとはナンセンスで世界の摩訶不思議な国、日本である。侵略に使わない事に監視の目を注ぐのが王道であり民主主義であり良識であろう。それは戦後日本には可能な筈である。        

エリート育成と武士道                             この一二年間を見ても、優れたリーダーの不在がどれだけ国益を損じたか明白である。エリート教育がないために益々他国に比して見劣りする構図が教育に見える。武士道の真の価値は武力に非ずエリートの心構えである。伝統の見直しによる日本式エリートの育成が緊急課題である。               

教育問題                                  戦後六〇年、現今の社会情勢、学校、壮青少年の驚くべき現実は、いかに戦後の教育が間違っていたかの証左である。否定する人はおるまい。その元凶は社会党の系譜を引く政治であり、日教組である。伝統的日本の良さを否定した結果である。その伝統への回帰が教育を改善する近道と信ずる。           

日本のリーダー不在                              結果平等の戦後教育の結果がリーダー消滅の原因である。日本のリーダーは武士道の心が基本でよいと思われる。その上に英国のナイトの精神を加味して二一世紀の民主主義の理念に沿うようなリーダー育成策を本気で作りたい。東京都が新しい学校を新設するが希望者が殺到している。全国各地でこのような学校が続出して欲しい、与論の待望がある。       

日本の民主主義                                  日本の民主主義は、本物ではない、二大政党政治も妙なものである。多数決は絶対真理である。原理原則に忠実でないから日本は可笑しくなった。それには先ず民主主義の原点である多数決の原理を絶対服従することから始めなくてはなるまい。         

日本の野党                                 国会の野党の非生産的な活動は実に馬鹿馬鹿しい。非難に値いする。生産的な、国益的な、具体的なものが提示されていない。万年野党でいるのが日本国のためであろう。それは民主党のみではない、共産党とか社民党など、ゴースト党ではないか。こんな野党は不要である。        

日本の国家中枢官僚                              世界的に見ても優秀であろう、国民が優秀なのだから特別に誉める必要は更々ない。以前では大蔵省、現在では外務官僚が亡国的である。政治がしっかり牽制しないからである。官僚は国民の下僕である、使っているとの認識が国民に欠けている。民間が官に対して卑しいからいけないのだ。(岡山木鶏会・安東壮文氏提言--自衛官また現場の警察官には頭が下がります。現代の武士だと思います。ただ今更に思うのは、民の為に官が働くのが本来の姿ですが現状を見ると官の為に民が働いているのではないかと思う事が多々有ります。)    

日本の外交                                 国益なるものを命懸けでやっていないと言いたくなる。お金バラマキの社交外交である。国民に対して誠実でない。外務官僚を洗脳し名外相、陸奥宗光をモデルに命懸けの外交をさせて真に国益に沿うようにしなくてはならぬ。それには矢張り政治家を洗脳し命懸けにさせなくてはなるまい。国民も大いに外交に関心を持ち声を大にしてマスメディアの非常識に口ばしをいれねばならぬ。               

二九 日本人よ国史を学べ                            韓国                                     救いがたい気質の友好国である。大人になりきれない独りよがりの気質には辟易している人が多いように思う。韓国とは戦争していない。欧米の植民地流植民地ではない。賠償しているが韓国独立時の無償で残した日本資産のほうが遥かに多い事実。賠償など例え植民地でも欧米諸国などしていない。李朝鮮の不毛から救いだした日本が残した資産や工業で朝鮮半島は近代化、工業化が急速に進んだと欧米歴史家も言っている。韓国も大人になり素直に認めなくていけない。韓国は日本の九州程度の総生産である。いつまでもちやほやする必要はない、竹島など、韓国のしている事は友好的でない。もう断固とした態度で是々非々であたるべきだ。在日韓国人に地方参政権などとんでもない話である。日本がそんなに嫌なら帰国して頂いていい話である。儒教の害毒にやられていたまま、世界に通用する普遍性を国民的に培養しなくては韓国の未来はないのではないか。

中国                                    この国はやはり常に共産主義国家であると警戒しつつ交際しなくてはなるまい。既にマスメディアも中国に篭絡されている感がある。それは政治もそうだ、もはや野党だけでなく自民党の橋本派などは中国シンパといえるから手遅れかもしれない。議員連中が大挙して訪問し接待を受け恰も朝貢するような様子は対米国同様、これが主権国家かと嘆かわしい。だから中国は、日本政府と政治家が日本の原理を守らないからつけ上がって靖国・教科書と口を挟むのだと見てよい。日本を敗戦直後のまま置いておくのが好都合なのである。経済も怒涛のように進出したが、何れ中国もバブルの崩壊で手痛い目にあうのは必定であろう。潜水艦が日本の津軽海峡、薩摩沖を出没しているのに政治家も政府も反撃しないのは、実に情けない日本に成り下がったと言える。常に要警戒の国である。       

公明党・創価学会                               自民党もだらしない政党になったものだ。この公明党が創価学会を背景にして隠然たる力を必要以上に保有するのは大反対である。あらゆる政府部門にシンパが入り込み細胞のように同会に寄与貢献しているとすれば、国家として実に恐るべきことである。日蓮正宗に破門されたと聞いているが、そうだとすれば信者団体に過ぎない同会は宗教法人を解散する必要があるのではないか。日本はあらゆる事に原理原則をいい加減にするから問題が膠着して二進も三進も行かなくなる。保守勢力が大同団結して衆参両院で絶対多数を占めるように政界再編成こそ望まれる。     

朝日新聞                                  朝日新聞の縮小版に、いつの間にか訂正がされていた。これがこの新聞社の頭脳的狡さと信用できない事実である。沖縄のサンゴ礁にカメラマンが落書きした事、色々と事件を起こしているだけではない。やはり反日的でイデオロギーを持ち読者をリードし世論構成に努めているように思う。テレビ朝日でも故鮎川欣也初め、実に強引に自己主張するし世論誘導する。政治家も朝日を読まねば、という思いがあるが、どうかしている。経済人の中にもそれが一部ある。然しこの二十年でかなり部数を減らしている。なぜなら、漸く国民も、この新聞を読むと不愉快だと思う人が確実に増加したからだ。そして国益を求めない、中国の出先のような印象すら持つ。この新聞を読む時は、眉唾して読むことだ。「ニュースとは真実を報道するものではない。」                     

日本のジャーナリズム                              戦前は戦争賛美を朝日新聞も徹底した。真のジャーナリズム精神があれば、朝日とてあのように戦争賛美しなかったであろう。日本のメディアは記者クラブとかで官庁情報の独占的体質があり、民間のような公開競争社会でない最も遅れた分野である。それが電波とかの国民財産で、つまらぬ番組を流し、国民を誘導し従業員は最高のサラリーを得て批判だけで権力的なのは頂けない。襟を正さなくてはならないのは大マスメディアであろう。                

日本の政治家                                政治家は国民が選出したものだから自らの批判となるが、それにしても国会議論を聞いて腹立たしい思いが起きる。勿論真面目なよく勉強されている方もあるが、国会議論を聞いている限りウンザリしてしまう。テレビなどは更に不毛の論議で悲劇的である。特に野党の諸君の国家観の欠如は亡国的である。国内問題は喧々諤々の議論でいいが対外的な国益に関わる問題に政党や政治家の見識が欠如している。彼ら議員数の半減と年金などの厚遇廃止を要求する。     

三一 現代日本の課題                             憲法の即時改正が先ず第一

その他
.教育問題の改革。伝統教育への部分的復帰。
.エリート教育――リーダー育成教育――公私の特別学校設置。
.国会議員の半減、公務員の大幅削減。
.「東京裁判の政府新認識」の世界への発表。
.竹島、尖閣、の明快な国土宣言。
国軍に変更と防衛省設置。

目覚めつつある日本                              私はここ二五年間、日本回帰へと悲痛な叫び声をあげてきた。然し、ここ数年、特に北朝鮮問題以降確実に日本人の意識に変化の予兆を覚える。遅きに失したが団塊の世代以降の世代に眼を見張るような国家意識が見られる。私のこの悲痛な叫びが徒労に帰す日を一日千秋の思いで待つ。                  

日米同盟の必要性                               私はアメリカのやり方、えげつなさを攻撃している。特に経済問題である。然しアングロサクソンを敵に回す事には絶対反対である。要は、外交で、言うべき事を堂々と発言し論理的に負けないで欲しいということである。恫喝に近いものが隠れて存在していると私は洞察する。これの対処と、これこそマスメディアを巧みに利用してアメリカの言いなりにならない方法を編み出して欲しいのだ。それには日本株式会社の強力な復活が必要である。               

アメリカの恫喝                                私はしばしば、アメリカの恫喝と発言している。それは、アメリカのジャーナリストの話として、宮沢大蔵大臣が、一喝したら態度を変更したと嘲られているとの報道を読んだのがヒントであり、一挙に謎が解けた思いであった。そしてここに隠れた日米交渉の、表面に出ないものがあると睨んでいる。成文化される前の部分である。それは敗戦し、安全保障を米国に依存し、最大の輸出相手国の米国、最大債務国、日本は最大債権国。それを当然考えて惻隠の情で腰が引ける政治家、政府官僚の心情があろう。彼らの公と私の間に国益がかかっているのだ。               

原理原則を守らない悲劇                            わが国は、あらゆる分野で、司司の責任者が、法律でも組織内ルールでも、キチンと原理原則を守らないで情緒的に処理してしまうから、今日のように構造的な大問題に到ったと思える。例えば、公務員の政治的中立、教員の政治活動の時間内活動は不能なのに日教組はやるし管理者の校長も文部省も見てみぬ振りしてきた。あらゆる分野にこれが蔓延ってきた。原則を忠実に守る事と人情との使い分けが下手である。    

昭和天皇                                  陛下は人徳を窮め尽くされたお方であった。昭和天皇は人間に対しても天地自然、山川草木一つ一つに対しても誠を以て接していられた感じがする。苦悩に満ちた敗戦直後昭和二十一年の歌がある。     
ふりつもるみ雪にたえていろかえぬ松ぞおおし き人もかくあれ」       
昭和天皇が全徳を極められた背景には帝王学があったとは申せご在世六十年の孤独と苦難と波乱を乗り越えられ凡てを胆に蔵された自己克服があるのだと思う。だから万物を化育する天地自然の天徳に達せられたのだと思う。陛下の六十の賀の御製に私は人間として感動する。

ゆかりよりむそじの祝いうけたれど  われかえりみて恥多きかな」

この謙虚なるお心、かくあらばこそ天徳に達せられたのであろう。陛下には我(が)というものが無かった。私(し)が無かった。あらゆる存在に敬を置き受容され凡てに真摯に無為自然なお方であった。このようなお方は世界の王室の歴史の中では珍しい。昭和天皇、日本の進路をお守りあれ。            

何も知らない日本人                              日本人は、やはり島国の閉鎖的な国際感覚の欠如した国だと思わざるを得ない。だから国益を大きく損じた。それは敗戦のみでなく、マネー、技術等あらゆる面に及んでいる。東京裁判はその最たるものだが、いまだにその敗戦自虐史観からぬけ切れないでいるのはオゾマシイ。隣国は着々とこの日本の目覚めない間に優位を占めつつある。               

国史を学べ                                 やはり国史、特に近代史を学べと叫びたい。歴史の勉強が若い世代ほど低い。更に他国に遠慮する一部マスメディアやイデオローグが騒々しく、教科書では真実に迫れない。我々には戦後の歴史教科書による自虐史観に鬱憤が溜まっている。だからこのような物を書きたい衝動が湧いてくる。          

日本のことをもっと知ろう                           日本人は外国が認めてからその価値を認めるような処がある。自分の国の先祖や歴史や文化の価値を知らなさ過ぎる。西洋カブレの脱却が望ましい。どうして二千年の文化伝統の価値を自ら気付かないのであろうか。                      

三〇 日本の保守よ しっかりせい                        以前、社会党などを「革新」と叫んでいたマスメディアが近年言わなくなった。それは社会党とか所謂「革新」連中が頭脳硬直で最高に時代遅れであったからであろう。「保守」とは「伝統を守りつつ改革」の意であり、日本はそれで成功してきた。「保守」とは封建ではないのだ。その保守大多数は日本のサイレントなマジョリティの物言わずである。保守の大多数を代表する自民党などの保守政治家がしっかりしていないから、現代のような危機的情勢を迎えたといえる。 私は、政治理念で一大集合しなくては日本は救えないと叫びたい。                   

四一 現代日本の課題                                            安倍幹事長等をみていると、漸く日本の自虐世代が終わりつつあるのかと嬉しくなってくる。また知人・友人からも、そのような意味のコメントをよく耳にするようになった。北朝鮮の拉致問題以降であろう。民主党などにもそのような人物が存在する。某民間企業の四〇代の部長が、いみじくも発言した言葉に、五〇代の管理者は結論を出せないと、亦学校の校長の世代も駄目らしいと。どうやら団塊の世代に属する人が問題管理者である。残念だが、彼らが支配層であることだ。明白に自虐歴史観の日教組の悪影響世代と思われる。全ての人がそうではないのだが、概してそういえる。然し安倍幹事長世代の出現で漸く日本の長いトンネルの先に薄明りで見えて来たようなのは喜ばしい。                

アングロアメリカン                              明治以来の日本を振り返ってみて,やはり英米両国と巧くいい関係にあつた時に安定と繁栄が認められる。それは確かにアングロサクソンがこの五百年間の勝者であったという理由もあるが、矢張り世界の屋台骨を支えてきた人種であり世界戦略に長けていると認めざるを得ない。やはり、嫌な奴だが、我々の足りない狩猟民族的発想と行動力と戦略には脱帽する。矢張り五百年間の世界の支配者としての実績は認めざるを得ない。敵とはいわないがアングロサクソンを深く知る事は国民、国家としても極めて重要だと言うのが「徳永圀典の近現代史」の結論かも知れない。これを以って、「徳永圀典の日本歴史の近・現代史」を完結する。    

 平成一五年八月                   完

       

 

 

 

あとがき                                   本著は一五年前の作だが史観の本質は不変であり、昨年鳥取木鶏会でゲラ刷りを輪読し会員からも認めて頂いたので出版することとした。                        私は還暦の頃から地元新聞に頼まれ各月一六〇〇字コラム「潮流」の寄稿を始めた。半年契約であったが一〇年続いた。憂国的あるいは日本文化再認識の論調が主流であった。私にとりごくごく当たり前であったが反響は極めて多く延べ一〇〇〇通に達した。神道関係者からは徳永さんの神様の寄稿のおかげで物が云い易くなったとか、薬草園事業経営者からは鳥取にもどえらい人がいるものだという感じの手紙が沢山到着して寧ろ私が驚いていた。                                 平成二三年、東京の出版社の依頼により商業出版で「日本人の誇りと自信を取り戻す三三話」の出版記念講演をした時、県内外から三〇〇人の聴講があった。私の潮流寄稿の愛読者の植木屋さんが聴講に見えていた、そして「徳永先生、預言が当たりましたね、日本は徳永先生の言われた通りとなってきました」と。当時の私の主張は現在では国民のごく当然の感覚となっているが、日本を取り巻く周辺事態は益々深刻でさらに進んで崖っ淵に到達している。リベラル、即ち「冷戦後の新左翼」がフェイクメディアをバックに依然として跋扈している。国の安保に関して国論が統一されてなく残念のままである。一刻の猶予もない現実だがそれを無視し見て見ぬふりをして依然として平和ボケである。                                    祖先の嘆きの声が聞こえる                          幕末の日本が欧・米・ロの世界植民地化の修羅場を見て、国防を危惧し明治維新を断行、国家近代化に邁進した。百五十年後の今日、再び国家の安保に関わる地政学的危機が形を変えて現実化している。                           日本の現況と未来を危惧する。幕末の先祖が最大に恐れたことを別の表現で言えば、中国が北朝鮮の民主化を忌避するのと同様である、自国の体制に大きく影響するからだ。明治、弱体化した清国領土・満州(現中国東北部)にロシアが侵入し簒奪、更に南下して半島の軟弱腐敗李王朝につけ入る、更に対馬に無断強行停泊し上陸した。幕府は武力対抗の実力なく当時の超大国・英国軍艦の対馬寄港によりロシア軍艦を強制排除したことがあった。                                  日本は「空気と水と安全はタダ」、それは中国大陸と九百キロ、朝鮮半島二百キロの玄界灘を介して大陸の政変と無関係に二千年間平穏に過ごせたからだ。その後、明治維新成功により力をつけた日本は日清戦争、日露戦争で勝利し影響力を行使したが遂に先の大戦で敗れた。以後七十年、米国の傘に依拠した日本の平和である。だが、アメリカも力が失せつつあり中国は途方もない危険な台頭をしており超軍事大国化、北朝鮮は遂に核を保有、韓国現政権は強い北朝鮮シンパ。北朝鮮と韓国は同一民族、彼らが核保有の上民族統一すれば世界歴史的一大事件となる。核保有の朝鮮半島は、かっての宗主国・中国や世界最強国・米国、ロシアと対等的位置になり得る。そうなると日本は自国の安全保障を米国の傘下と雖も、国民の安全保障に歴史的、画期的重大脅威が危機的に増幅する。自国の運命は自国で握るという過去七十年忘れ去っていたごく当然の事が否応なく最大級の迫真の威力で迫っている。世界は大きな歴史的変化へと策動含みである。現在の日本を概観すれば、国会議員、メディアを始め国民は全く危機意識無きに見える。自分の国は自分で守るのは当然なのだが、憲法がその足かせとなっている。泥棒を見て縄をなう議論さえままならぬ日本、幕末・明治の祖先の嘆きの声が聞こえる。

明治の政治家は、与野党が喧々諤々の闘争をやっていても国家の安全保障では直ちに一致団結した。私の主張は、与野党で国の安全保障を確立し、国防の安心さえあれば、他の国内問題は大いに論争したら良いという立場である。それを渇望している。我が国は平和ボケのままだ。武力を背景に、占領軍の強圧により作られた憲法を固守するという異常なまま七〇年、「国家の安全」の自覚がない現実を心底から憂えている。中国と韓国の歴史観は「政治そのもの」である、万世一系の日本と異なり彼らの国は革命で交代するから「国の徳」が失われて政府に信用が欠けている。彼らの国は歴史改竄そのものの歴史である。彼らの国家断絶の歴史からくる歴史観であり、歴史の真実を探求する日本の歴史観と異なり彼らの歴史は政治そのものなのである、ここを確りと見極めて欲しい。                                         平成三〇年四月八日                 米寿記念   徳永圀典  

徳永圀典 昭和六年 鳥取県用瀬町生

本人 講演風景本宅書斎

現在 鳥取木鶏会会長(創立32年)、徳永日本学研究所代表、新しい歴史教科書をつくる会鳥取県支部顧問、教育を考える鳥取県民の会顧問、日本語の誕生歌詞普及会長(創立27年)、登山家。               

職歴 住友銀行本店外国部、本店営業部外国為替課、29才神戸支店外国副課長等外資系・外国関係10年、神戸支店取引先課長、大阪で支店長を歴任、本店人事部審議役。住銀傘下ふそう銀行取締役・本店営業部長を経て代表取締役常務。還暦で現役完全引退。鳥取県自治研修所講師四年。総理府鳥取地区講師。                 

文筆活動   日本海新聞・潮流に各月寄稿二〇年。山陰政経研究所寄稿中。     ネット活動25年 徳永日本学研究所、鳥取木鶏会。 

著書 (商業出版)人類最高の良いこと。(米子・山陰ランドドットコム)        日本人の誇りと自信を取り戻す33話。(東京・コスモ21)

(自費出版)平成の大乱。私の憂国放論。日本の神様は大自然そのまま。    母「静心院妙唱日琴大姉を偲ぶ」。用瀬アルプス物語。      岫雲塾講義録。「手」の日本文化論。これぞ「声無き民の声」。    

(総合監修) 鳥取木鶏会・活学三〇年史

(その他)  金鶏神社を鳥取県山中に勧請実現。             講演活動 全国神社庁青年神職研修会。中国地方中堅神職研修会。八頭郡敬神婦人会。総理府鳥取地区研修。鳥取県自治研修所、県民文化会館、鳥取市文化ホール、米子市、倉吉市、鳥取市、大山町、智頭町、琴浦町、東伯町、郡家町、兵庫県香美町教育委員会関係、島根県松江市県民会館等々で講演、出版記念講演。住銀時代には甲子園研修所、関西財界企業三〇〇〇社に中ノ島フエスティバルホールで人権講話。鳥取市用瀬町他にて登山講演「山を思えば人恋し」。「鳥取県職OB会、登山と健康」等。

木鶏活動 創立三十二年の鳥取木鶏会から派生して、米子市に米子木鶏会(伊達知賀恵会長)、倉吉市に倉吉木鶏会(松田従郎会長)、そして鳥取国語木鶏会(三谷裕児会長)も創立され、全県下で四つの木鶏会例会が各月催されている。   

登山関係 元住友銀行山岳会長。全国200名山中150名山登山。大峰奥駆道等熊野古道6ルート完全踏破、紀伊半島はほぼ完全踏破。関西百名山、宍粟50名山完全踏破。日本百名山は70才以後で60山踏破。用瀬アルプスを鳥取市に提案し実現。用瀬アルプス六郎木小屋とおおなる小屋看板揮毫。用瀬アルプス・おおなる山に山頂標識を米寿記念に寄贈。

米寿記念縦走写真