徳永圀典の徒然草口語訳11. 平成16年7月

1日 壱百七拾六段 黒戸は、小松御門位につかせ

黒戸の御所は、小松の帝がご即位されて、昔臣下であった時に戯れごとをされたことをお忘れにならないで、いつも其処では以前と同様なことをされていた場所である。そこは薪の煙で煤けて黒ずんでいたので、黒戸というらしい。

2日 壱百七拾七段 鎌倉中書王にて

鎌倉中書王の御所で蹴鞠が行われた時、雨が降り庭が乾かなかったので、どうするか相談していると、佐々木隠岐入道がおがくずを車に積んで沢山献上した。それらを庭一面に敷いたので、泥濘に困らなかった。「入道は、あのおがくずを貯めておいたのだろうが、その用意は稀に見るものだ」と人々が感心し合った。

3日 この事を或る者が話題にした処、吉田中納言が「乾いた砂の用意は無かったのか」と言われたので成る程と感心させられた。みなが大したものだと思ったおがくずは、砂に比べると、庭に敷くものとしては下品で不似合いだ。庭のことを担当する人が乾いた砂を用意するのは、実は古くからしきたりになっているそうだ。
4日 壱百七拾八段 

ある所の侍ども、内侍所の

ある家の人たちが、内侍所の御神楽を見て、言うには、「宝剣をあの方が持たれた」と、これを聞いて、御簾の内にいた女房たちの一人が「別殿の行幸の折には宝剣でなく、昼御座の御剣なのに」と忍んで言ったのは奥床しかった。古参の典侍であったとか聞いた。

5日 壱百七拾九段 入宋の沙門、道眼上人

入宋した沙門の道眼上人が一切経を持ち帰り六波羅辺りのやけ野という所に安置して、特に「首楞厳経」を講しで那蘭陀寺と命名した。その上人が「那蘭陀寺は大門が北向きだと江帥の説として言い伝えているが、そんなことは「西域伝」や「法顕伝」などにはなく、文献にも全く所見がないと言われた。江帥はどのような学識によってそういわれたのか良く分からない。中国の西明寺が北向きなのは勿論だが」ということであった。

6日 壱百八拾段

さぎちやうは

さぎちやう-三毬杖-は、正月に打って遊んだ毬杖を、真言院から神泉苑に持ち出して、それで焼いて燃え上がらせる行事である。その時に「法成就の池にこそ」と歌い拍子を取るがその池は神泉苑の池を言う。
7日 壱百八拾壱段 ふれふれこゆき 「ふれふれこゆき、たんばのこゆき」と言う言葉は、米をついて、ふるいにかけた米の粉に似ているので、粉雪という。「たまれ粉雪」というべきを誤って「たんばの」と言うのである。この部分に続いて「垣や木のまたに」と歌うこととなっている」とある物知りが言った。昔からそういうのであろうか、鳥羽院ご幼少の頃、雪が降った折に、この言葉を口になさったということが、讃岐典侍の日記に書いてある。
8日 壱百八拾弐段

四条大納言隆親卿

四条大納言隆親卿が乾鮭というものを帝の御食事に差し上げたところ「このような卑しい物をさしあげるいわれはない」とある人が言ったのを聞いて大納言は「鮭という魚、差し上げないと決まっているのなら兎も角、鮭の白乾しに、なんの差し支えがあろうか。鮎の白乾しは差し上げないのか」といわれた。
9日 壱百八拾参段

人をつく牛の角を切る

人を突く牛は角を切り、噛み付く馬は耳を切ってその目印とする。目印をつけないで人に怪我をさせた場合は、その飼主の罪となる。人を噛み付く犬を飼育してはならぬ。以上はみな罪になる。「律」の禁ずるものだ。
10日 壱百八拾四段 相模守時頼の母は

相模守時頼の母は松下禅尼という人である。或る時、相模守を自邸に招いたことがある。その折、煤けた明かり障子の破れた所だけを、禅尼は自ら小刀であちこち切って張っていたので、その日の接待の手配をして傍に控えていた兄の城介良景が「それをお預かりして、なに某という男に張らせましょう。彼はそのような仕事にたけた者です」と言うと、禅尼は「その男は、この尼よりまさか上手ではありますまい」と言い、なおも一こまずつ張られるので、良景は「障子全体を張替えられれば、はるかに簡単でしょうに。所々を修理して、まだらになるのも見苦しくはございませんか」と重ねて言われると「尼も、いずれさっぱりと全部張替えようと思っていますが、今日だけは、わざとこうしておくべきなのです。物は傷んだ所だけを直して用いるべきだと、若い人に見習わせて注意を促すためです」と禅尼は言われるのであった。世にも稀な感動的な話である。

11日

世を治める道は倹約が肝要である。この方は女性ではあるが、その心掛けは聖人の心に通じている。天下を治めるほどの人を子として持たれるのは、成る程、ただの人ではなかったのだと語りつがれている。

12日 壱百八拾五段

城陸奥守泰盛は

城陸奥守泰盛は並ぶ者のない乗馬の名手であった。厩から馬を引き出す時、馬が足を揃えて敷居を軽快に飛び越えるのを見ると「これは気が立っている馬だ、と言い別の馬に鞍を置き換えさせる。又、馬が足を伸ばしたまま敷居に躓くと、この馬は鈍くて怪我をしそうだ」と言って、その馬に乗らない。乗馬にうとい人はこれ程用心するであろうか。

13日 壱百八拾六段 吉田という馬乗りの

吉田という乗馬の名手が言うには、「馬はどの馬も手強いものだ。人の力で張り合えるものではないと知るべきだ。乗る馬をまずよく見て、強い所と弱い所を知る。次に轡・鞍などの馬具に危険な箇所がないかよく点検して気にかかることがあれば、その馬を走らせてはならない。この用意を忘れない者を馬乗りと呼ぶのだ。それが乗馬の秘訣である」と言うことであつた。

14日 壱百八拾七段 よろづの道の人

専門家というものはどの道であれ、たとえ下手でも上手な素人と比較しても、必ず勝っている。それは専門家が弛まず用心して軽率に事を行わないが素人はただ気ままに振舞うという点で差がつくのである。芸能や色んな生業だけでなく、一般の行為、心得でも不器用であって用心深いのは成功のもとである。器用で自己流に走るのは失敗のもとである。

15日 壱百八拾八段  ある者、子を僧侶になして ある人が自分の子を僧侶にして「学問をして因果の理を知り説教などをして生計を立てる手段としなさい」と言い聞かせた。子は教えのままに説教師になろうとして先ず乗馬を習った。輿や牛車も持たない身で導師として招かれるような時に馬などを迎えに寄こしたら腰が落ち着かず落馬して情けないだろうと思ったからである。
16日

次に、法事の後に酒などを勧められることがある時に、無芸な僧侶では檀那も興ざめだろうと思い早歌ということを習った。二つの芸が次第に身についてきたので、愈々上達したく思い励むうちに説教を習う暇が無いまま年を取ってしまった。

17日 この僧侶に限らず世間にはよくあることである。若い間はなにごとにつけても立身し、真理を会得し芸も身につけ、学問もしようと遠大な計画を持ちながら、人生を安易に思い、怠けつつ、先ず差し迫った用事にばかりかまけて月日を送ると、どれも無為のままで、身は老いてしまうものである。結局、一芸にも秀でることもなく、思っていた程の大成することもなく、と言って後悔し取り返しのきく年齢ではないから、下り坂を走る車輪のような速さで老衰していく。
18日 だから、一生のうちで特に望むことの中でどれが大切かと、よくよく思い比べて一番大切なことを思い決めて、それ以外は断念して一つの事に励むべきなのである。一日のうち、一時間のうちでも、多くの用事が生じるであろうが、その中でも少しでも有益なものに専念して、その他は捨て、大切なことを急がなくてはならぬ。どれも捨てまいと未練を残していては一事も成る筈はないのだ。
19日 例えば、碁を打つ人が一手も無駄にしないで相手の先を読み、局面に余り響かない石を捨て重要な石を取るようなものである。三つの石を捨ててこそ十の石を取るのはやさいしいが十を捨てて十一を取るのは難しい。一つでも利の多いほうを選ぶべきなのに、捨てるべき石が十にまでなると惜しく思い、大して得にならない石には替えにくいものである。これも捨てずあれも取ろうと思う心ゆえに、あれも得られず、これも失うのは当然の成り行きである。
20日 京に住む人は、東山に急用があり既に到着していても、西山に行けば、より有益だと思いついたなら、東山の門を出て西山に行くべきであろう。ここまで辿りついているのだから、この事を先ず言ってしまおう、期日は決めていないのだから、西山のことは帰ってから又改めて思い立とう、と思うからその一時の怠りが、そのまま一生の怠りとなるのだ。そのことを恐れなくてはならぬ。
21日 一つの事を必ずし遂げようと思うなら、他のことがダメになるのを残念がってはならぬ。人の侮りを気にしてもならぬ.万事を犠牲にせぬ限り一つの大事がなる筈はない。人が大勢いる席で、ある人が「ますほのすすき、まそほのすすきなどということばがある。渡辺の聖がその事に関して伝え聞いている」と話した。登蓮法師がその座にいて、これを聞き、たまたま雨が降っていたので、「蓑と笠がありますか、お貸し下さい。そのすすきのことを教わりに、渡辺の聖のもとに尋ねに行ってきます」といった。
22日 「余りに慌しい。雨が止んでからにしてはいかがですか」と人が言うと、登蓮は「とんでもないことを言われるものだ。人の寿命は雨の晴れ間を待ってくれるのでしょうか」雨が上がるまでに私も死に、聖も死ねば尋ね聞くことができるのか」と言い、走り出て聖のもとに行って,その事を習ってきたそうだと言い伝えている。稀に見る立派な話である。
23日

「素早く行えば成功する」と論語という書物にあるそうだ。登蓮がこのススキの事を知りたく思ったように、初めて触れた僧侶も、悟りを開く機縁に心を向けねばならなかったのである。

24日 壱百八拾九段

今日はその事をなさんと

今日こそは、このことをしようと思っても、すぐ別の用事ができて取り紛れているうちに日が暮れたり、待つ人が支障ができて来なかったり、予期しない人が来ると、いう風で、期待した方面の事は全く当て外れ、意外なことが巧く運ぶものだ。面倒だなと思っていたことが無事にすみ、簡単な筈のことが悩みの種となる。このように日々過ぎて行くさまは、かねて思っていたのと似ても似つかない。一年のうちにもこの通りだ。一生の間もまた同様であろう。
25日

かねて思っていたことは、では、みな外れるかと思うと、たまには外れないこともあるから愈々物事は当てにならない。すべては不確かだと心得ているだけが真実で、外れることはない。

26日 壱百九拾段

妻といふものこそ

男は、妻というものは持つまじきものだ。「何時も独り住みでして」などと言うのを聞くと奥ゆかしい。だが、「だれそれの婿となりました」とか、「これこれの女を迎え取り同居しています」などを聞いてしまうと、ひどくがっかりさせられる。たいしたことのない女に惚れて一緒にいるのだろうと、その人の日常が安っぽく思い描かれるし、仮にその妻が結構な女なら、この男を愛しく思って、まるで「あが仏よ」などと呼びかけて、じっと見つめたりすることだろう。言って見れば、せいぜいそんなものさ、と感じるに違いない。平凡な女もさることながら、それ以上に家の中を巧く切り盛りする女は,まことに興ざめである。

27日 子供が生まれて、大事に守り育てるなど厭わしい。男に先立たれて尼になって老いているさまは、男が死後まで続いている。どんな女でも、明け暮れ一緒に顔を見るならば、ひどくうとましく、嫌になるであろう。女にとっても不安な状態であろう。よそに住んで、時々通い来て暫く滞在することにすれば、歳月がたっても縁が切れない仲になるであろう。男が不意にやって来て宿泊などすれば、お互いに新鮮な感じがするであろう。
28日 壱百九拾壱段 夜に入り物の映えるなし 「夜には物の見栄えがない」という人にはとても失望する。何につけ、美しさも、装飾のさまや晴れの場面も、夜には実に素晴らしく見えるのだ。だから、昼は質素で地味な姿をしていてもよい。夜は、派手で華麗な装束が最適である。人の容姿も夜の灯火により美しい人はいよいよ美しく、物を言う声も、暗い中で聞く、たしなみのある言い方は、奥ゆかしい。匂いも、楽器の音も夜は一段とすぐれて感じられる。
29日 格別のこともない夜、遅くなってから貴人のもとに参上する人が、典雅なさまをしているのは、実に素晴らしい。若いもの同士で、互いに関心を持って見る人は、特別の区別などしないものだから、特に気を許してしまいがちの時こそ、平常と晴れとの区別なく身だしなみをよくしたいものだ。立派な男が、日が暮れてから洗髪をし、女も夜がふける頃に席を外しては鏡を手にして顔などを化粧し、また元の席に出るのは感じがよい。
30日 壱百九拾弐段

神・仏にも、人の詣でぬ日

神仏にも、人が参詣しない日に、夜参るのが最上である。
31日 壱百九拾参段

くらき人の、人をはかりて

愚かな人が他人を見てその知恵の程が分かったと思っても、決して当たる筈がない。凡庸な人で碁を打つことばかり頭が働いて巧みなのが、賢い人が碁に下手なのを見て、自分の知恵に及ばないと決めたり、色んな分野の職人が自分の専門分野を人が知らないのを見て、自分は人より優れていると思うのは大変な誤りである。学問一本槍の僧侶と、行ばかりの、教理に暗い僧侶が、お互い相手の程度を推し量って自分に及ばないと思っているのは、双方とも間違っている。自分の領域でないものについて張り合ったり、あげつらったりしてはならぬ。