徳永圀典の徒然草口語訳12. 平成16年8月

 1日 壱百九拾四段

達人の人を見る眼は

達人が人を見る目は少しも誤るところが無い筈である。例えば、ある人が世間に嘘を作り騙そうとする時、素直にその嘘を真に受けて騙される人がいる。深く信じ込んで、更に煩わしく新しい嘘を追加する人もある。又、その嘘をなんとも思わず無関心の人もいる。いささか不審に思い半信半疑で考え込んでしまう人もいる。又、疑わしいが人のいうことなので、そうかも知れぬと思い、そのままにしてしまう人もある。又、その嘘をあれこれ考えて、分かったふりして頷き、微笑んでいるが実は何も分かっていない人もある。

 2日

また、自分なりに判断して「ああ、そうでもあろう」と思いながら、それでも誤りが含まれているのではないかと怪しむ人もある。また「なんだ、大したことはなかった」と後で手を打って笑う人もいる。又、嘘と見抜いているが、口に出さず自分が分かっていることをとやかく言う事もなく、知らない人と同様にしたままでいる人もある。この嘘の狙いを初めから見抜いていて、その意図を重んじ嘘をついた人と気脈を合わせて協力する人もある。

 3日 嘘という、愚者たちの間の戯れごとに置いてさえ、真相を知る人の前では、上述のような様々の反応を、人の言葉やら顔色からはっきりと知られてしまう筈である。まして、洞察力ある人が、道理に暗い我々を見るのは、手のひらの上の物を見るようなものである。ただし、このような判断により、虚構を方便とする仏法まで、世俗の嘘と同じように扱ってはならぬ。
 4日 壱百九拾五段

ある人、久我縄手を通り抜けるに

ある人が久我縄手を通ったら、小袖に大口を着た人が木造の地蔵を田の中の水に浸けて丹念に洗っていた。不審に思い見ているうちに、狩衣の男が二、三人現れて「ああ、ここにいらっしゃった」と言い、この人を連れて立ち去った。その人は久我内大臣殿であった。この大臣は正気の時は立派で気品ある方であった。
 5日 第壱百九拾六段

東大寺の神輿

東大寺の神輿が東寺の若宮からお帰りになる時、源氏の公卿が供奉の為に参集した処、この久我内大臣は、近衛の大将として行列の先払いをされた。それに対し、土御門相国が「神社の前で先払いするのはどんなものでしょうか」と言われると、大臣は「随身の行動の仕方は武官の家の者が承知していることだ」とだけ、答えられた。
 6日

そして後で、「この相国は「北山抄」は読んだが「西宮記」の説はご存知なかったのだ。神に従う悪鬼・悪神を恐れるので、神社では、特に先払いをしなければならない謂れがある」と仰った。

 7日 壱百九拾七段 諸寺の僧のみにもあらず

定額」とは、諸寺の僧についてのみ用いるのではなく、「定額の女孺」という用語が「延喜式」に見える。すべて、定員が決まっている下級役人に共通する称なのであろう。

 8日 第壱百九拾八段 揚名介に限らず 揚名とは「揚名介」とは限らない、「揚名目ーようめいのさかんー」というものもある。その称は、「政事要略」に記されている。
 9日 第壱百九拾九段 横川の行宣法印が申し侍りしは 横川の行宣法印が「中国は呂旋の国である。律の音がない。日本は、律旋のみの国で、呂の音がない」と言われた。
10日 第二百段 呉竹は葉ほそく

呉竹は葉が細く、河竹は葉が広い。宮中の御溝近くにあるのは河竹で、仁寿殿の近くに植えられているのは呉竹である。

11日 第弐百壱段 退凡・下衆の卒塔婆 退凡・下衆という二つの卒塔婆があるが、そのうち、外側にあったのが下衆で、内側にあったのが退凡である。
12日 第弐百弐段 十月を神無月と言ひて

十月を神無月と言い、神事を遠慮すべきだと記載しているものは無い。根拠となる文献も無い。ただし、この月は、諸社の祭りが行われないので、この名があるのかもしれない。この月はすべての神々が、大神宮にお集まりになるなどという説もあるが、その根拠となるべき説は無い。それが正しければ、伊勢では十月を特に祭りの月とすべきであるのに、その慣例も無い。十月には、諸社への行幸の例が多い。ただし、その多くは不吉な場合の例である

13日 第弐百参段 勅勘の所に靫−ゆきーかくる作法 勅勘を蒙った家の門に靫をかける作法は今は絶えており知っている人はいない。帝のご病気とか、一般に世の中に流行病が流行る時には五条の天神に靫をおかけになる。鞍馬にある靫の明神は、靫をおかけになったことのある神である。看督長が背負う靫を、勅勘の家にかけると、誰も出入り出来ない慣わしであった。このことが絶えて以来、今の世では封印をつける慣わしとなってしまった。
14日 第弐百四段

犯人を笞−しもとーにて打つ時は

犯罪者を笞で打つ時は、拷問器にその者を寄せて縛りつける。その拷器も、引き寄せる作法も今は知っている人はいないらしい。
15日 第弐百五段  比叡山にも大師勧請の起請 比叡山で行われる大師勧請の起請という事は、慈慧僧正が最初に書かれたものだ。起請文と、法曹の世界ではなんの規定もない。古代の聖代には万事にわたり起請文により行われる政治は無かったのに近代になりこの形式が一般化したのである。また法令で、水と火について穢れを認めない。ただし容器には穢れがある筈だ。
16日 第二百六段 徳大寺右大臣殿

徳大寺右大臣が検非違使庁の長官の時、ある日、御邸宅の中門の廊下で検非違使庁の評議をされていた。その時、官人章兼の牛車の牛がつないであった場所から離れて庁舎の中に入り、長官の座る浜床の上にのぼり、反芻しながら横になった。重大な怪事としてその牛を陰陽師のもとへ遣わすべき由を、役人たちが口々に申し立てるのを、長官の父の太政大臣がお聞きになり「牛は無分別なものだ。足があるのだから、どこにだってのぼるだろう。しがない官人が、たまに出仕するのに用いるやせ牛を没収されるいわれはない」と言われて、牛は持ち主に返し、牛が横たわった敷物はお取替えになった。その後不吉なことは一つも起こらなかった。「奇怪なことを見て、それを怪しまない時は、それに伴う怪事をかえって成り立たなくさせる」といわれる。

17日 第弐百七段 亀山殿建てられんとて 亀山殿ご造営の際、地ならしされた処、大きな蛇が無数に密集している塚があった。この土地の神であるとして、その経緯を院に申し上げたら「どのようにすべきか」とご下問があつた。そこで「古くからこの地の主であったものだから、無闇に蛇を掘り出して捨てるのは難しい」と皆が申し上げた。だがこの大臣一人「帝の治める土地に住む虫が、皇居をお建てになるのに、なんで祟りをする筈があろう。鬼神は道に外れた事をしないものだ。気にする必要はない。すぐに、みな掘り捨てよ」と申されるので、塚を掘り崩し、蛇は大井川に流してしまった。その祟りは何も無かった。
18日 第弐百八段

経文などの紐を結ふに

経文などの紐を結ぶのに、上下より襷に交差させて、その交差する二本の紐の中から、紐の端の輪のようになったものを横向きに引き出す。それが普通のやり方である。然し、そのようにしたものを、華厳院の弘舜僧正が、紐を解き直させた。その時に「これは当世風の結び方である。実に見苦しい。正式には、ただ、くるくると巻いて、紐の先端を差し込むべきだ」と言われた。この方は、古老として、このような事によく通じた方であつた。
19日 第弐百九段

人の田を論ずる者

他人の田を自分のものだと言い争っていた者が、訴訟に負けて悔しさの余り「その田の稲を刈り取れ」と云い、人をやった。その者どもは、手始めに途中の田まで刈って行くので、これを見た人が「この田は貴方かだの主人が訴訟した所ではない。なぜそんなことをするのか」と云った。すると刈っていた連中は「我々が目指す田とて、刈り取ってよい道理はないが、どうせ我々は間違ったことをする為に出かけた者なので、どの田も区別なしに刈るのだ」と云った。
20日 第弐百壱拾段 喚子鳥は春のものなり

「喚子鳥は春のものである」といい伝えて、それがどんな鳥かともはっきり書いたものはない。ある真言書の中に、喚子鳥が鳴く時に招魂の法を行うとあり、その次第が書いてある。この場合の喚子鳥とは鵺のことである。とするならば、鵺は喚子鳥の様子と似通うように思われる。

21日 第弐百壱拾壱段

よろづの事は頼むべからず

何事も頼ってはならぬ。愚かな人は何かに深く依存するから、恨んだり怒ったりするのだ。例え権力があっても、それに頼ってはならぬ。強い者が先ず滅ぶものだ。財産が多いからと云ってそれに頼ってはならぬ。財産など忽ちに消えてしまう。学才があっても頼ってはならぬ。あの孔子も世に用いられることはなかった。
22日 徳があってもそれに頼ってはならない。顔回も不幸であった。主君の寵愛も頼ってはならぬ。突然、罪を負って殺されることがある。下僕が従順であってもそれに頼ってはならぬ。主人に背いて逃げてしまうことがある。人の好意も頼ってはならぬ。人の気持ちは必ず変わるものだ。人の約束も頼りにしてはならぬ。信義が守られることは少ないのである。
23日 自分も他人も頼りにしなければ、順調な時は喜び、逆境にある時は恨むことがない。身体を動かす時も、左右が広ければ物にさえぎられない。前後が離れていれば身を置く余裕がある。逆に、周りが狭いと身体が押しつぶされる。そのように、心の用い方に余裕と柔軟さが無い時は、人と摩擦を起こして身を損なう。ゆったりとしておおらかに生きるときは、毛一筋ほども損なうことがないのだ。
24日 人は天地の間に存在するもっとも霊妙なものである。その天地には限界というものはない。人の本性もそれと同様な筈である。心が寛大で限りなく広い時は、喜怒の情も心を損なうことがなく、他人のために煩わされることもない。
25日 第弐百壱拾弐段 

秋の月は、限りなくめでたき

秋の月は、この上なく良いものだ。いつでも月はこのようなものだと思い、他の季節の月との違いが分からない人がいれば、それは実に情けない人というべきである。

26日 第弐百壱拾参段

午前の火炉に火をおく時は

天皇・上皇の午前に火種を入れる時は、火箸で挟まない。土器から直接に移さねばならない。従って、火種がころがり落ちないように用心して炭をうまく盛っておく必要がある。石清水八幡宮への御幸の際に、お供したある人が、浄衣を着た姿で。手で炭をおつぎになった処、ある識者が「白い衣服を着た日は、火箸を用いても差し支えない」といわれた。

27日 第弐百壱拾四段 想夫恋といふ楽は 想夫恋―そうふれんーという曲は、妻が夫を恋い慕うことからつけられた名ではない。元々は「相府蓮」というのであり、字音が似通うのでこう書いたものだ。晋の王侯が大臣であった頃、家に蓮を植えて愛していた時に作られたものである。これに因んで大臣を「蓮府」と称する。
28日 「廻忽」という曲も、実は「廻鶻」と書く。「廻鶻国」と云い、強力な夷国があった。その蛮人が中国に降伏してから中国の都に来て、自分の国の音楽を奏して伝えたのである
29日 第弐百壱拾五段

平宣時朝臣、老いののち

平宣時朝臣が、老後に昔を話して「最明寺入道が、ある宵、私を招かれた。「すぐ参ります」とご返事したものの、しかるべき直垂が無くてぐずぐずしていたら、又使いが来て「直垂などがないのですか。夜だから、どんな身なりでも構わないから直ぐ来て下さい」と伝えられたので、よれよれの直垂で普段着のままで参上したら、銚子と素焼きの杯とを出してきて」この酒を独りで飲むのが物足りないので、お呼びしたのです。酒の肴がないが、みな寝静まったことだろう。適当なものがあるかどうか、自由に探して欲しい」と言われたので、紙燭に火をともして、隅々まで探した。台所の棚に、小さい素焼きの皿に味噌が少しついたのを見つけて「これをやっと探し当てました」と申し上げると「それで十分だ」と仰って、気持ちよく数献を重ねて大層ご機嫌になられた。あの時代は、こんなふうだった」と言われた。
30日 第弐百壱拾六段

最明寺入道

最明寺入道が、鶴岡八幡宮に参詣したついでに、足利左馬入道の屋敷に、あらかじめ使者を遣わした上で立ち寄られたことがあった。その時に、左馬入道が接待されたが、献立は最初のお膳には、干した鮑、二番目の膳には海老、三番目にはかいもちいを出して終わった。その座には屋敷の夫婦と、降弁僧正とが主人側の人として座っていた。
31日 一段落して、最明寺入道が「毎年頂いている足利の染物が待ち遠しいことです」と言われると「用意してございます」と言い、様々の色に染めた反物三十疋を御前で女房どもに小袖を仕立てさせて、後でお届けなさった。その時に一部始終を見ていた一人で、最近まだ存命だった某氏が私にその由を語ったのである。