徳永圀典の徒然草口語訳13. 平成16年9月

1日 第弐百壱拾七段  ある大福長者の言わく ある大金持ちが「人は万事さしおいて、ひたすら富を持つべきだ。貧しくては生きている甲斐がない。富める者だけが人の名に値する。富を得たいなら、先ず精神を修養しなくてはならぬ。その精神とは、他のことではない。この世は永遠に不変だという思いに徹して、かりそめにも無常を観じてはならぬ。これが第一の心がけである。
2日 次に、万事、必要を満たしてはならぬ。人がこの世にいる限り、自分に対しても他人に対しても、願う所は無限である。欲望の赴くままに望みを果たそうと思うなら、百万の銭があっても、それは直ぐに手元から離れるであろう。人間の願望はやむときがない。財宝はいずれ尽きてしまう。限り在る財産で無限の願望を満たすのは不可能である。欲望が心に起こることがあれば、自分を滅ぼす悪心が生まれたのだと、堅く慎み恐れて、僅かな必要も満たしてはならない。
3日

つぎに、銭の下僕のように自由に使用する物と思うなら、長く貧苦を免れることはできまい。銭を、主君のように畏敬すべきであって、これを思いのままに用いてはならない。次に、銭の為に恥をかいても、怒ったり恨んだりしてはならぬ。つぎに、正直を心がけ、約束を厳守せよ。以上の道理を守って利益を求める人は、富の集まる早やさと確かさにおいて、火が乾いた物に移ったり、水が低いほうに流れるようなものである。銭が限りなく貯まる時は、酒宴や音曲・女色などをせずに、住居を飾り立てず、願望が満たされなくても、心は常に安らかで充実しているものだ」と言った。

4日

元来、人は願望を満たすために財宝を求めるものだ人間は元々願望を満たすために財宝を得ようとする。銭を宝とするのは願いが叶うからである。願望があっても満たさないで、銭があっても使わないなら全く貧者と同じである。それで何を楽しみとしたらよいか。彼の戒めは、世間的な欲望を断ち切り、貧しさを苦にしてはいけないという意味に聞こえる。欲望を満たして、楽しみとするよりか、宝のないほうがましであろう。癰や疽を病む者かせ、患部を水で洗い気持ちよく思うよりも、その病にかからぬほうがましである。この長者のような生き方に至っては、貧富の区別はない。仏教で言う最高の悟りの境地と、最低の迷いの境地とは同一である。それと同様、大欲は無欲に似ているものだ。

5日 第弐百壱拾八段 狐は人に食ひつくものなり 狐は人に食いつくものだ。堀川殿で、舎人が寝ていて足を狐に食われた。仁和寺では、夜、本堂の前を通りかかった下法師に、狐が三匹飛びかかって食いついたので、刀を抜いてこれを防ぐ間に狐二匹を突き殺した。残る二匹は逃げた。法師は何ヶ所も噛みつかれたが無事であった。
6日 第弐百壱拾九段 四条黄門命ぜられて言はく 四条中納言が言われるには「竜秋は音楽の道では大した男だ。先日、私の処に来て、「浅はかの至りで、甚だ僭越ではありますが。横笛の五つの穴について、いささか不審な点があるのではないかと密かに思っています。なぜかと言えば、干の穴は平調で、五の穴は下無調です。その中間に勝絶調を置いています。上の穴は双調、その次に鳧鐘調を置き、夕の穴は黄識調です。次に鸞鏡調を置き中の穴は盤渉調、中と六の間に神仙調がある。
7日 このように穴と穴との間にみな一律を持たず、しかも穴と穴との間隔が他と同じなので、その音が不快に聞こえます。だから、この穴を吹く時には、必ず、吹口から口を離すのです。うまく離さない時には、他の楽器と調和せず、満足に吹ける人は滅多にありません」と申していた。これは至言であり、実に興味深かった。先輩が後進の可能性を畏敬するのは、まさにこのようなことだ」ということであった。
8日

後日、景茂が言うには「笙は調律をきちんとして持っておれば、あとはただ吹くだけのことだ。口伝に加えて、吹く者の天分により心をこめて吹かねばならないのは、五の穴ばかりではない。ただ、口から離して吹けばよいというものではない。下手に吹くなら、どの穴の場合も変な音がでるのだ。名手は、どの穴でも、調子を合わせて吹く。旋律が楽器に合わないのは、吹く人に責任がある。楽器が悪いのではない」と申していた。

9日 第弐百弐拾段 何事も辺土は賤しく 「何事も地方は下品で粗野であるが、天王寺の舞楽ばかりは都に劣らない」と私が言うと、天王寺のある素人が言うに「この寺の音楽は、標準律によく合わせてあり、楽器の音が見事に整っている点が他より勝っている。理由は、聖徳太子の御時に標準としたものが現存してそれを基準としているからだ。例の六時堂の前にある鐘がそれです。その音は、黄鐘調と一致している。寒暑により音の高低が生ずる筈であり、二月の涅槃会から聖霊会までの期間の音を標準とする。これは寺の秘伝です。この標準となる一つの調子により、どの楽器の音も調律する」と言うことであった。
10日 一般に、鐘の音は黄鐘調であるはずだ。これは無常を感じさせる調べで、祇園精舎の無常院の鐘の音である。西園寺の鐘を黄鐘調に鋳造すべきだとして、何度も鋳なおされたが、うまくいかなかったので、黄鐘調の鐘を遠国から探し出されたという。浄金剛院の鐘の音も、黄鐘調である。
11日 第弐百弐拾壱段

健治・弘安の頃は

「健治・弘安の頃は、加茂祭の日の放免たちの衣装の飾りに風変わりな紺の布四・五反で馬をかたどつて、その尾とたてがみには燈芯を使い、蜘蛛の巣を描いてある水干に馬をつけ、古歌の趣旨などを言い立てながら大路を通る慣わしであった。そんな姿をよく見かけたことなども実に面白く、見事だと見物したものです」と、老いた道志たちは今でも語っている。
12日 この頃は、加茂祭の飾りは、年々ひどく贅沢になり、様々の重苦しいものを沢山つけて、左右の袖を人に持たせ、自分は鉾さえ持たないのに荒い息づかいで苦しむ様子で、実に見苦しい。
13日 第弐百弐拾弐段

竹谷乗願房、東二条院へ

竹谷に住む乗願房が東二条院のもとに参上されたところ、「故人の追善の為には、何をすればご利益が多いか」とご下問があったので「光明真言・宝篋印陀羅尼です」と申し上げた。それについて弟子たちが、「なぜそのように申し上げたのですか。念仏に勝ることはありますまいと、なぜもうしあげられなかったのですか」というと「念仏は自分の宗旨だから、そのようにもうしあげたかったのだが、称名を故人の追善の為にして大きなご利益があるはずだと、確かに説いてある経文を見たことがないので、もし念仏をお勧めして、それはどの経典にあるかと女院が重ねてお聞きになれば、どう申し上げればいいのかと思って、確かな根拠となる経文によりこの真言と陀羅尼を申したのだ」といわれた。

14日 第弐百弐拾参段

鶴の大臣殿は

―たずーの大臣―おおいー殿は、幼名が「たづ君」なのである。鶴をお飼いになったことによる通称というのは誤りである。

15日 第弐百弐拾四段

陰陽師有宗入道

陰陽師の有宗入道が、鎌倉から上京して、私を訪ねてきた。その時、家の中に入り先ず「この庭がむやみに広いのはみっともない、宜しくない。物の道理を知る者は、物を植えることに努めるものだ。細い道一つの分を残して、すべて畠にしてしまいなさい」と忠告してくれた。なるほど、僅かな土地でも、無駄にしておくのは無益である。食用となる植物や薬草など植えておくべきだ。
16日 第弐百弐拾五段

多久資が申しけるは

多久資が言うには、通憲入道が、舞の型の中で特に面白いものを選んで、磯の禅師という女に教えて舞わせた。白い水干姿で、鞘巻を腰に差させ、烏帽子をかぶっていたので、それを世間が男舞と呼んだ。この禅師の娘の静という者が、この芸を継いだ。これが白拍子の起源である。仏や神の由来や縁起を歌った。その後、源光行が多くの歌詞を作った。後鳥羽上皇の御作もある。院はそれを亀菊に教えになったという
17日 第弐百弐拾六段

後鳥羽院の御時

後鳥羽院の御時のことである。信濃前司行長は博学の誉れが高い人であつたが、楽府の御論議に召されて、その席で「七徳の舞」のうち二つを忘れたので「五徳と冠者」という渾名が付いたのをなさけないと思い学問を捨てて遁世した。慈鎮和尚が一芸ある者を下僕に至るまで召抱えかわいがっていたので、この信濃入道となった行長も保護しておやりになった。
18日 この行長入道は「平家物語」を作って、生仏という盲人にそれを教えて語らせた。その場所が比叡山であったので延暦寺のことを特に事々しく書いたのである。九郎判官のことは詳しく知っていたので物語に書いている。然し、蒲冠者のことはよく知らなかったのか多くのことを書き漏らした。武士のこと、武芸に関する点は、生仏が東国者なので彼が武士の尋ね、聞いたことを行長入道に書かせた。その生仏の生来り発音を、今の琵琶法師はまねて語っているのだ。
19日 第弐百弐拾七段

六時礼賛は

六時礼賛は法然上人の弟子の安楽という僧が経典から集めて作りもそれを勤行に使用した。その後、太秦の善観房という僧がその墨譜を定めて、声明にした。「一念の念仏」の起こりである。後嵯峨院の御世に始ったものだ。法事賛も同様に善観房が始めたものである。
20日 第弐百弐拾八段 千本の釈迦念仏は

千本の釈迦念仏は、文永の頃に、如輪上人がお始めになったものである。

21日 第弐百弐拾九段

よき細工は

優れた細工師は、少し鈍い刀を使用するという。妙観の刀は余り切れない。

22日 第弐百参拾段 五条内裏には 五条内裏には化け物が住んでいた。藤大納言が語られたことには、伝上人たちが黒戸の御所で碁を打っていたところ、御簾を持ち上げる者がいた。「だれだ」とそちらを見ると、狐が人のように膝まずいて覗いていた。しかし、「あっ、狐だ」大声で騒がれて、あわてて逃げてしまった。未熟な狐が化けそこなったのであろう。
23日 弐百参拾壱段

園の別当入道は

園の別当入道は並ぶ者のない料理名人であつた。或る人の所で、見事な鯉を披露したことがあった。一座の人々はすべて、別当入道の料理ぶりを見たいと思ったが、軽々にそれを口にするのもどうかと躊躇っていると、別当入道は気の利く人で「最近、百日間鯉を切ることを日課としていますが、今日もそれを欠かすわけには参りません。ぜひ、その鯉を頂戴したいものです」と言って切られた。
24日 実にその場にふさわしい事で、人々が興あることに思ったが、某氏が、それを北山太政入道殿にお話すると「そのような行為を自分は実に煩わしく思う。「適当な料理人がいなければ、私に下さい、切りましょう」と言ったら、なおよかろう。なぜ、百日の鯉を切るなどという必要があるのか」と言われた。その意見を面白く感じたと、ある人が言ったというが、私も実に同感である。
25日

大体、作為を施して面白いものより面白くはないが素直なほうが勝っている。客の饗応なども時宜に適うようにして興趣を作るのも結構だが、ただ、なにげなくご馳走を持ち出すのが最もよいのだ。人に物をあげるのも、これと言ったきっかけもなくて「これを差し上げよう」と言うのが本当の好意である。わざと大切にしている風をして相手に懇望されようと思ったり、勝負事で負けた時の罰にかこつけて物を贈ったりするのは、いやみなものである。

26日 第弐百参拾弐段

すべて人は、無知無能

一般的には、人々は自分が無知で無能のように振舞うがよい。ある人の子で、容姿などは悪くはない者がいた。その子が父の前で人と会話をするのに、歴史書の文を引用したのは賢そうに思われたが、目上の人の前では、そのようにしないほうが良いと思ったものである。
27日

また、ある人のもとで、琵琶法師の語る物語を聞こうとして琵琶を取り寄せた処、柱が一つ落ちてしまったので、「柱を作って付けよ」と主人が言うと、そこにいた男の中で人品の悪くなさそうに見えた男が「使い古しの柄杓の柄がないだろうか」などというので、見ると、彼は爪をのばしているのであった。琵琶などを弾く男なのであろう。たかが「めくら法師」の琵琶には、そんな処置をする必要がないのだ。その道に通じているつもりなのかと、苦々しく思った。「柄杓の柄は、檜物木といい、琵琶の柱にはよくないものだ」とある人は言われた。若い人は、僅かなことで、立派に見えたり、みっともなく見えたりするものである

28日 第弐百参拾参段

よろづのとがあらじと思はば

何事も欠点のないようにと心掛けるなら、何をするにも誠実で、誰に対しても礼儀正しく、口数が少ないのが一番である。男女・老少の別なく、そういう人は素晴らしい。特に、言葉遣いのきちんとしている人は忘れがたく心を引かれるものがある。すべての欠点は、ものなれたさまをして巧者ぶり、得意そうなさまをして人を軽んじるところにある。
29日 第弐百参拾四段

人の物を問ひたるに

人が何か尋ねた時「そんなことを知らないはずはあるまい。ありのままに答えるのは馬鹿げて見える」と思うからか、相手の心を迷わすように、曖昧に返事することがあるが、それは良くないことだ。知っていることでも、なお正確に知りたいと思って問うのかもしれない。又本当に知らない人も、いないとも限るまい。気持ちよく、ありのままに答えてやれば、そのほうが分別があるように思われるに違いない。
30日

他人がまだ聞き及ばないことを、自分が知っているのにまかせて、「それにしても、あの人のあのことには驚き入ったことです」などとだけ告げてやると「一体、何があったのですか」と折り返し尋ねるために人をやることになる。実に不快なことである。誰でも知っていることを、たまたま聞き漏ら人もいるのだから、相手に不審を抱かせないように告げてやればよいのである。それになんの不都合があろうか。このようなことは未熟な人にありがちなことである。