徳永圀典の徒然草口語訳14. 平成16年10月 最終月


 1日
第弐百参拾五段

ぬしある家には

主人のいる家には、無関係な人が自由に入ることはできない。主人のいない家には、行きずりの人がむやみと立ち入り狐や梟のように物も人の気配を感じないから我が物顔に入りこんで住み木の霊などという。奇怪な形のものも現れる。また、鏡には色や形がないので、あらゆるものの影がそこに現れて映るのである。鏡に色や形があれば、そのように物影は映るまい。虚空はその中に物を容れることができる。我々の心に様々な思いが気ままに現れて浮かぶのも、心という実体がないからであろうか。心に主人というものがあれば、胸のうちに、これ程多くの思いが入ってくるはずはない。
 2日 弐百参拾六段 丹波に出雲という所あり

丹波には出雲という所がある。そこに出雲大社を勧請して社殿が立派に造ってある。しだの某とか言うものが支配している。その関係で、ある時に、彼が聖海上人その他の人々を多数誘い「さあ参りましょう。出雲神社を拝みに。かいもちいをご馳走します」と言い一同を連れて赴いた処、各人は神社を拝んで深く信心を起こした。

 3日

社殿の午前に在る獅子・狛犬が背中合わせになり、後ろ向きに立っているので、上人は大変感動して「ああ素晴らしい。この獅子の立ち方の珍しさよ。深いいわれがあろう」と涙ぐんで、「なんと皆さん、こんな素晴らしいことにおきづきにならないのですか。あんまりです」などと言うと一同は吃驚して「ほんとうに、よそとは違っています。都へ土産話にしよう」などと言うと、上人はいよいよいわくを知りたくなって、相当の年配の分別ありそうな神官を呼び「このお宮の獅子の立てられ方は、きっと然るべき言い伝えがあるだろう。いささか承りたい」と言われると「はい、そのことです。徒な子供たちの仕業で実にけしからんことです。と言い、獅子・狛犬のそばに寄り押さえ直して立ち去ったので上人の感涙は無駄になってしまった。

 4日 第弐百参拾七段

柳筥に据ゆるものは

柳箱の上に乗せて置くものに関して、縦に置くか、横かは、その置くべき物によるのであろうか。「巻物などは、縦に置いて、木の間からこよりを通して結びつける。硯も縦に置いたほうが筆も転がらないので、よい」と三条右大臣が言われた。しかし勘解由小路家の人々は、かりそめにも縦には置かない。必ず横に置かれるのであった。

 5日 第弐百参拾八段 御随身近友が自賛とて 御随身の近友の自賛といい、七か条にわたる覚書を書き留めた故事がある。内容はすべて馬芸に関するもので大したものではない。その前例を思いつつ自賛した七つがある。
 6日 人が大勢連れ立って花見をして回っていた折に、景勝光院のあたりで、男が馬を走らせているのを見て「もう一度あの馬を走らせようものなら、馬は倒れて男は落馬するに違いない。暫く見ていなさい」と私が言って立ち去ると、その男はまた馬を走らせた。止まった所で馬を引き倒して乗り手は泥の中に転げ落ちた。その予言が外れなかった事を人はみな感心したものであった。
 7日 現代の帝がまだ皇太子であられた頃、万里小路殿が東宮御所であった。その御所の堀川大納言殿が出仕された時の控え室に、ある時用事があり参上したら、大納言殿は「論語」の第四・五・六の巻を広げておられて「たった今、東宮様は「紫の朱うばふことを悪む」という文句をご覧になる必要がありご本をお読みになられたが、見つけることがお出来にならない。「もっとよく探してみてくれ」との仰せであり今探しているのだ」と言われるので「第九巻のどこそこのあたりにあります」と申し上げると「ああ助かった」と言われて東宮様にそれを持参しお渡しになったとのことであった。
 8日 この程度のことは、少年たちにとってもありふれたことだが、昔の人は、ちょっとした事についても、ひどく自賛したものである。後鳥羽院が「御歌に袖と袂という二つの言葉を一首の中に詠み込んでかまわないか」と定家卿にお尋ねになった時、「古歌に「秋の野の草のたもとか花ずすき穂に出でて招く袖と見ゆらん」とありますから、問題はありません」と申し上げたが、その事も「ご下問に当たって本歌をよく承知していた。歌の道での神の加護でもあり素晴らしい幸運でもある」などと、ことごとしく記し置かれているのである。九条相国伊道公の款状にも、たいしたことのない主題まで書き載せて自賛なさっている。
 9日 常在光院の釣鐘の銘文は在兼卿が下書きを書いた。それを行房朝臣が清書して鋳型に取ろうとした時に、事を取り仕切る某入道が、下書きを取り出して私に見せた。「花の外に夕べを送れば、声百里に聞ゆ」という句がある。「陽唐の韻を踏んでいると思われるが、すると「百里」は誤りではなかろうか」と私が申すと「あなたにお見せしてよかった。私の手柄だ」とのことで、筆者のもとに言ってやると「誤りがありました。「百里」を「数行」と直して下さい」という返事があった。しかし、「数行」とはどんなものだろうか。或いは「数歩」のつもりか、どうもはっきりしない。
10日 人と大勢連れ立って三塔巡礼をしたことがある。その時に、横川の常行堂の中に、竜華院と書いた古い額があつた。「佐理・行成の二人のうちのどちらの筆かについて疑問があって、まだ決着がついていないと言い伝えています」と堂僧が勿体つけて申していたので「行成ならば、裏書があるはずだ、佐理ならば裏書が無いはずだ」と私が言った。処が、額の裏は塵が積もり虫の巣となってきたならしかったのをよく掃きぬぐって、皆で見ると、行成の位署・名字・年号がはっきり見えたので、一堂は大いに面白がった。
11日 那蘭陀寺で道眼上人が説法された時、「八災」ということを忘れて「八災とは何か覚えていらっしゃるか」と言ったのを、弟子達は誰も覚えていなかったが、私が聴聞の席の中から「これこれではないでしようか」と声を出した処、皆は大変感心したのであった
12日 賢助僧正のお供をして、加持香水を見た時に、まだ式が終わらぬ内に、僧正がその場から退出したが、僧正と同伴した僧都の姿が見えない。従者の法師たちを式場に帰して探させた所、「同じ姿の僧侶が多くて、とても探せない」と言い、かなり時間がたってから出てきた。そこで「ああ、弱った。あなたが探してきてください」と僧正が言われるので、私は式場に戻りすぐ僧都を連れだした来た。
13日 二月十五日の明月の夜、夜が更けてから、千本釈迦堂に参詣し、人々の集まる座の後ろから入り一人で顔を深く隠して説経ほ聴聞していた。すると姿や香りが素晴らしい優雅な女が人々の間をかき分けて入って来て私の膝に寄りかかると、その香りなどもわが身に移るほどであった。これは厄介だと思い膝をずらせて脇にどけると、なおも私ににじり寄り前と同じになるので、私はその場を去った。
14日 その後、或る御所方に仕える古参の女房が、とりとめもない話をされたついでに「ひどく野暮な方でいらっしゃたことと、あなたをお見下げしたことがあったのですよ。つれないと言って、あなたをお恨みする人がいるのです」と打ち明け話をされたが、私は「なんのことか、さっぱり分かりません」と言いそのままになってしまった。
15日 このことについて、後で聞いたところでは、あの聴聞の夜、ある高貴な方のお席の中から、その方が私をお見つけになり、お付きの女房を美しく化粧させて「うまくいったたらあの人に声をかけるのだぞ、その時の様子を帰ってから申せ。面白いだらう」と言われて仕組まれたことだったそうだ。
16日 第弐百弐拾五段 多久資が申しけるは 多久資が言うには、通憲入道が、舞の型の中で特に面白いものを選んで、磯の禅師という女に教えて舞わせた。白い水干姿で、鞘巻を腰に差させ、烏帽子をかぶっていたので、それを世間が男舞と呼んだ。この禅師の娘の静という者が、この芸を継いだ。これが白拍子の起源である。仏や神の由来や縁起を歌った。その後、源光行が多くの歌詞を作った。後鳥羽上皇の御作もある。院はそれを亀菊に教えになったという。
17日 第弐百四拾段 しのぶの浦のあまの見るめも 忍んで逢うのにも人の見る目が煩わしく、闇に紛れて逢おうとしても、女を見張る人が多いのに無理に女のもとに通う情熱があれば、心の底からしみどみと感動する折々の思い出も多いことであろう。しかし、親兄弟が認め、その時の思いにまかせて、女を妻の座に据えるといった関係は本人にとりひどく落ち着かないものであろう。
18日 からうじて生きているしがない女が、たとえ不似合いな老いた法師や、卑しい東国の男であれ、豊かさに心を引かれて「もし私に気があるなら」などと言うので仲人が男女双方について魅力的なように言い繕って、縁もゆかりもない女を男の家に迎えて連れてくるなどは、なんとくだらないことであろうか。
19日

そんな場合、本人達は、どんなことをきっかけにして言葉を交わすのであろう。長い年月の辛さについて「色々なことがあったね」などと語り合う時にこそ、話が尽きないものであろうに。

20日 一体、第三者が取り計らうような結婚は、なんと不愉快なことが多いのであろう。妻とした女が立派な場合についても、身分が低く、醜く、年もとった男は、こんな卑しい自分の為に、むざむざ身を犠牲にする筈があるものかと、相手の女もくだらなく思われ、自分自身については、立派な女と向かい合っているのにつけて、わが姿に引け目を感ずるであろう。実につまらないことである。
21日

梅の花の芳香の漂う夜のおぼろ月の下に佇んだり、恋人の住む屋敷の庭の露を分けて帰る有明の空の情景を、わが身のこととして思い出すことができない人は、色恋沙汰などにかかわらないほうがよいのである。

22日 第弐百四拾壱段

望月のまどかなることは

満月の丸さは、僅かの間もそのままで存在しないで直ぐに欠けてしまう。気をつけて見ない人には、一夜の内にそれ程変化するさまは見えないのではないか。病が重くなるのも、一つの症状でいる期間は僅かであって死期が速やかに近づく。しかし、まだ病勢が進まないで死に直面していない内は、この世は不変でいつまでも平穏に生きられるという思いに慣れて、生きている間に多くの事をなしてから落ち着いて仏道修行をしようと思っているので病により死を目の前にした時に、願い事は何一つ出来ていなかったことになる。
23日

どうしようもなく、日頃の怠慢を後悔して、今回もし回復して生きながらえたら、昼夜の別なく励み、このこともあのことも、怠らずに成し遂げようと願いを起こすようだが、そのまま病が重くなってしまうと、正気を失い、との乱してしまう。世の中にはこの類の人が多い。この事はまず、誰もが特に心に留めなくてはならない。

24日

願いごとが成ってから、暇を持った上で仏道に向うのなら、願い事は尽きるはずはない。幻のような儚い人生の中で何事ができようか。すべて、願望は例外なく妄想に過ぎない。願望が心に兆したら自分の汚れた心に迷い乱れていると自覚して何事もしてはならぬ。ただちに万事を投げ捨てて仏道に向うなら、なんの障害も用事もなく、心身とも長く安静でいられるのである。

25日 第弐百四拾弐段

とこしなへに違順に

人間が常に逆境と順境に左右されるのは、ひとえに苦と楽に囚われているからである。その楽とは物事を好み愛することである。人間は、楽を求めるのをやめるときがない。人間が願い求めるのは、第一に名声である。その名声には二種類ある。行状による名声と学問・芸能による名声である。
26日

人間が願い求める第二は、色欲であり、第三には貪欲である。どんな願望もこの三つほど切実なものはない。この願望は誤った思いから生まれるもので、多くの苦悩を伴う。だから、これを持たないほうが良い。

27日 第弐百四拾参段

八つになりし年

八つになった年に私は父に尋ねて「仏とは、どんなものでしょうか」と言った。父が言うのには「仏とは人間がなったものだ」とのことであった。私はまた「人はどのようにして仏になったのですか」と尋ねた。父は、また「仏の教えに導かれて仏となったのだ」と答えた。また、私は「その教えなさったという仏を、なにが教えたのでしょう」と尋ねた。父はまた「それもまた、先立つ仏の教えによって、仏となられた」と答えた。また、私は「その教えを始めた最初の仏は、どんな仏だったのですか」と言うと、父は「空から降ったのか、それとも土の中から湧いたのか」と言って笑った。そして「息子に問い詰められて、とうとう答えられませんでした」と、人々に愉快そうに語るのであった。
(徒然草 完)
28日 兼好総括

兼好の歌から1.

世をそむかんと思ひ立ちし頃、秋の夕暮れに
ーそむきなばいかなる方にながめまし秋のゆふべもうき世にぞうき

世の中思ひあくがるる頃、山里に稲刈るを見て
―世の中の秋田刈るまでなりぬれば露もわが身も置きどころなし

29日 兼好の歌から2.

人に知られじと思ふころ、ふるさと人の横川まで尋ね来て、世の中のことどもいふ、いとうるさし

年ふればとひ来ぬ人もなかりけり世のかくれがと思ふ山路を。
されど、帰りぬるあといとさうざうし

―山里はとはれぬよりもとふ人の帰りてのちぞさびしかりける

30日 兼好概略

正式には吉田兼好ではなく、卜部兼好で神職の家庭。六位の蔵人で当時の天皇、後二条天皇の母后、基子はの外戚筋となる。

没は享年68歳。28日の歌は32才頃。29日のは30代後半である。
31日

総括

隠遁志向と世の中への恋しさとの葛藤を感じた。旺盛な好奇心と博学、歌人としての活躍、当時としては長命。

「長くとも四十路にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」と説いた兼好が言葉と裏腹に長命なのは皮肉である。それが人生というものなのであろう。

長期間に亘るご閲覧ありがとうございました。