徒然の抄
吉田兼好は、つれづれなるままに、と筆を起こし、種々の思索や随想や見聞を記した我が国随筆文学の白眉である。私はこのホームページで、色々な随想やら、経済、金融問題、政治等々を論じているが、
この徒然の抄昨年1月から始めた思いつくままの私日記的なもので、他愛無い思いを断片的に、月初めに書き連ねたものである。とうとう二年目となった。
平成16年元旦 
 

平成16年1月1日
新年おめでとうございます。月並みな言葉だが、矢張り新しい年のページを再びめくる事が出来た事を率直に慶びたい。御蔭様で、健康で不自由なく新しい年を迎えられた事は実にかたじけないことである。今年最初の日本海新聞の潮流コラム寄稿--多分1月4日付--は
「鎮守の森」である。その中に「忝い--かたじけない」という心情は日本民族の心だと記した。西行の「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」は天地自然、万物に神が宿るという日本人の素朴で大らかな宗教心で連綿と続いているとの認識を示しています。
この日本の神々がどうして他国に誤解されたままなのか、我々日本民族の怠慢としか思えない。
ラストサムライという映画を年末に鑑賞した。皮肉だがアメリカ人が日本の伝統・文化を守る事の大切さを訴えている。
今年こそ、更に一人でも多くの方々が日本文化の素晴らしさに目覚めて理解と実践に乗り出して欲しいと願うばかりである。元旦 徳永圀典

平成16年2月1日
1月は行く、2月は逃げる、と言うが2月は29日のみだから逃げるように過ぎて、3月となりその3月も去るように経てしまうのであろうか。こうして日々、年々歳々経過して、変わらぬようでありながら、頭脳も肉体も次第に変化している。勿論、山川草木、森羅万象、大宇宙とて同様である。まさに、悠々たるかな宇宙のことである。
国会が始まった。野党の連中は国会で激しく政府を罵倒するように攻撃する。倒閣するだけが狙いとしか見えない。攻撃の仕方が実に品位のないのが下っ端の議員だけでなく、党首があのように品位が欠けると却って値打ちを下げているのだと思う。具体的に、こうしたら現政権よりよくなるという青写真に欠けるように思う。攻撃の仕方が実に情けないと思うのは私だけであろうか。巨額の歳費を貰いながら、少しも生産的な仕事をしていないように見えて仕方のない野党の議員連中と田中真紀子みたいな議員である。議員は半分で十分である。野党はそこを突いたら票が格段に増えると思うのだが。その勇気がない癖に次元の低い神学的な議論ばかりの野党議員だ、議員を半減せよ。


平成16年3月1日
月並みだが、光陰矢の如し、痛切である。そして人生の一寸先は闇だというのも真実味がある。我々はこのような世界に生かされているんだと受け止め、この現実を深く認識しなくてはなるまい。だから一日、一瞬が大切なんだと思う。そして人との出会いの不可思議さ、縁尋の機妙、多逢聖因の不可思議さも実感が深い。


平成14年4月1日
月並みだが、桜花爛漫と言う言葉は実に日本の春を表現する歓喜の叫びのような響きを感じる。待ちに待った春が、桜前線の到来を先駆けとして、やっとやってきた陽春を現すようで、続く新緑への夢・希望・期待を示すし生理的にも薄着をしたいようなセンスがある。
三寒四温を経て、やっと春本番である。これから一日一日と確かに新芽から新緑へと、四季の青少年期を迎える。やはり、未来があると言うのは夢がある。

然し、日本国には、経済は別として、未来が閉塞されたように感じるのは私だけではない。テレビでは毎日お粗末で無責任なフザケタお笑いものが放映されている。平和そのものであるが、こんなことばかりして、いいのだろうかと思う。尖閣問題などマスメディアはもっと中国の非を叫んでいい筈である。声が小さいマスメディアだ。

尖閣列島に関して中国から干渉されるのに、国民は怒りを示さない。憤激しない。政府も腰が引けている。北朝鮮からは日本人を拉致される。韓国は竹島を占拠して切手さえ発行する。数百年の世界的言葉「日本海」を東海にと広めようとしている。なにが、韓国が友好国なものか。中国と友好的にできる気分にならない。それなのに日本人は平然としているようにさえ思う。声すらあげない程、精神が去勢されている。台湾や韓国や中国は国家が青年期だから、暴動さえ起こす覇気がある。日本など、大学生は暴動一つ起こす気概が失せてしまった。これは亡国現象である。これから教育基本法など、作らぬよりましたが、日本は数十年は駄目であろう。最早や日本は外国の議員が言うように日本はなくなるのではないかとさえ思う。

私は、それでも、一人でも真に平和ボケから覚醒させたいと、今月も精一杯頑張る、どうしてこの世界的にも素晴らしい道義国家を創った日本人が気がつかない筈はないと信じて今日も憂国を吼える。


平成16年5月1日
この1年は、例年に増して登山回数が大幅増加した、通算53日登山している。関東以西、西は九州から四国、東は関東、伊豆半島、信州にまで及んだ。紀伊半島などは毎月のように二、三泊の登山をしていたこととなる。以前は3月など、漸く春を迎えたなあと思ってきていたが、頻繁に冬山とか極早春の登山をしていると、山々には2月にその兆しがあると思うようになつた。3月などはもう陽光は春本番のように思う。特に紀伊半島の登山では、3月など春そのもののように思えた。私の季節感が変化したのは事実である。
山に登ると不思議と安堵感がある。大自然の中にいるからであろう。それは、取りも直さず人間が自然の産物であることの証左である。5月の日本海新聞の潮流コラムは時節柄、「砂漠の神」と題した思考をものした。尊敬する哲学者、和辻哲郎の名作「風土」を思い出して少し引用した。あのイラク砂漠の風土が、中東の人々にもたらす「風土的悲劇」は、緑の国で育った日本人には到底理解できないものがあると思える。人間は、所詮は風土の産物に過ぎない。


平成16年6月1日
それにしても、政治の不毛というのか、政党も議員も党利党略、自己利益ばかりで、議員の本分である、国家国益のことなど毛頭考えていないようにさえ思える。野党は総理を口汚く批判するだけの党首ばかりになってしまった。自分達が政権を取りたいために総理を悪し様に罵る。世界中にこれが報道される。お粗末な政治家、嘆かわしいと思う一般国民の気持ちが連中には理解できないのか。政治屋連中は、少しも恥ずかしいとかの無い鉄面皮な人間ばかりである。驚くべき日本の政党・政治家の低レベルはまさに亡国的である。


平成16年7月1日
今年も完全に半分を終えた。そして、現在不毛の政争が行われている。政治が安定しなくては国民の幸福は無い。参議院という建前の良識の府も地に落ちてしまって絶望的である。年金問題などは、政治家も政党も馬鹿なマスメディアも少しも本質を論じない。世論を反政府に誘導するだけのマスメディアの術策に嵌まっている。どうして、日本の政治は、マスメディアは問題の本質に迫ろうとしないのか、私には匙を投げ捨てたい気持ちが溢れている。この日本の亡国的政党・政治家連中に対して、憤りの焦点を間違えてしまった国民に対してもだ。ホームページでの憂国法論もやめてしまいたい気持ちである。山にでも登って自然に触れて余生を過ごしたほうが遥かにましだと痛切に思う昨今である。

平成16年8月1日
もう。世界的異常気象が本格化したと、多くの人々は確信を持ったであろう。ドイツでは積雪、スイスでは雹が降った。アメリカのカリフォルニアの異常乾燥による大森林火災、中国上海とか、新潟県の大洪水!これは、間違いなく地球の悲鳴であろう。人間という愚か極まりない集団の勝手放題の地球消耗に起因する。
今、猛烈に経済成長を続ける中国は人口と国土が巨大なだけに、地球の生態系に与える影響は、多分地球の破滅的要素を招来するものと思われる。
最近は、熊も猟銃で襲われないし、保護されたので、第二世代らしく、人間を恐れない熊となり、村々や人間に頻繁に接近するようだ。大自然に対する畏敬と、他種との共存を原理とする、日本の原理、即ち、日本の神様の原理こそ、地球を、人類を救済するものだと、益々信念を深めている昨今である。

平成16年9月1日
激烈な猛暑もお盆が過ぎて台風がやって来る頃になると、少しは和らぎ日中も凌ぎやすくなってくるものだ。特に「立秋」を迎えると敏感に朝晩の涼しさを感じる。「処暑」ともなると、もう秋だなと痛感する。時々刻々と季節は変化する。人間の肉体も、大自然のものであり、同じように変化を続けていることだろう。
この間、オリンピックでは、特に女性陣の猛烈な頑張りは脅威的である。つくづく日本の女性は性能がいいのだなと思う。マラソンの野口はなんと150センチ41キロと言う。柔道の谷口でも阿武でも、レスリングでもよくやるものだ。日本人は大いに誇りを抱いて自信に結び付けられないものだろうか。海外が、内弁慶の筈の日本人の若者に驚いている。日本人は本質的に優秀なのだ。白人や西洋文明に対する、この五百年のトラウマを捨てて、白人や中国とか韓国のように自己主張の強い民族には、やはり強烈に対抗する習性を身につけよう。

平成10年10月1日
9月下旬、私が鳥取県で最も尊敬する、某病院理事長夫妻に久方ぶりに街頭で突然逢った。私の顔を見るなり「おっ、痩せたぞー」で聊か驚いた。体重は異動ないし、1ヶ月前も3ヶ月前の血液検査も異常ない。元気モリモリである。ははーん、と自覚した。丁度、3日前に6日間の後立山連峰縦走から帰宅した後であった。登山初日は午前5時40分から登山開始し山小屋に午後5時前到着するハードなもので、日中は暑く日焼けして顔は黒くなり顔の皮が剥けていた。これが原因であろう。
考えて見ればこの一年間、北は岩手山から南は阿蘇の高岳、丸一年で80日近い県外各地の登山をしている。理事長、曰く「そんなに登山しているとは体力があるんだなあ」。私は幼少期から青年期は腺病質で、およそ運動には縁の無い男であった。そして、身長160センチ、体重48キロの齢70有余才にして、これである。そして私は、今、山々にとり付かれてしまっている。あの山々の素晴らしい大自然、感動の連続の風景は、思いもかけない友人のお陰でもある。私は、更に山に魅せられて、命のある限り登山を続ける。

平成16年11月1日
今年も、あと二ヶ月となった。毎日、毎朝、ホームページの日々の格言やら色々とアップロードし始めてから、テーマによると2年半以上継続しているのもある。この11月から日々、5科目の更新をする事となる。新しい挑戦である。これは自分の為にやっているのが主眼である。それが、偶々多くの方々の眼にして頂き関心を抱いて貰えば望外の喜びと思う者であります。自分の勉強が第一義であるが、それなりに研究もしなくてはならないし、手先も使う、パソコン技術にも関係あり、私はとても心身も頭脳もフル回転しているように思える。
おまけに、私は、この一年間、年間約3月にナンナンとするくらい県外の山々に挑戦している。やや高所に弱い私に、友は「事前恐怖症」とヒヤカスが、それでも、春は岩手山・八甲田山から南アルプス、後立山連峰、八ヶ岳、紀伊半島、兵庫、京都、中国地方の山々を何とか登山している。結構身体も動かしていて、健康でありとても感謝である。これも偏に親友の強いバックアップがあってこそで、実に友とは有り難いものである。これからも大いに色々と励み諸事に挑戦したいと思っている。

平成16年12月1日 
遂に師走の月とはなりぬ。光陰はまさに矢の如し、このように毎年の暮れを嘆じつつ迎える。そして間違いなく新しい年を迎えて又、一つ年を取る。将に冥土の旅への一里塚と昔人が云った通りである。これだけは誰にも平等であり一切の差別はない。然し、健康だけは千差万別、自らの心がけの要素もあろうが先天的遺伝も有る。決して自分だけの努力で得られるものではないが、人生何十年の心がけも巨大な要素と成っていることは確信できる。善因善果、原因ありて結果が生ずるのは命とて同じであろう。それが中々思うように出来ないのが人間である。今年もなんとか健康に恵まれて好きな登山に明け暮れた。本当に感謝以外のなにものでもない。忝さに手をあわせている。