徳永圀典の徒然草口語訳7. 平成16年3月

1日 第壱百壱拾参段

四十路にも余りぬる人の

40歳を過ぎた人が異性と秘めやかな関係を持ったとしても、それをとがめだてするには当たるまい。然し、男女関係について言葉にだして自分の事ばかりでなく他人の事まで喋るのは、見苦しいものだ。見苦しく聞くに堪えないことは色々ある。老人が若い人の中で目立ちたがり座を引き立てようとする、また取るに足らない身分でありながら名士とさも親しいような口ぶりで話すさまとか、貧しいのに酒宴を好みお客の接待に無理して派手に振舞うなどである。

2日 第壱百壱拾四段 今出川のおほい殿

今出川の大臣が嵯峨に行かれたとき有栖川付近の水が流れている場所で、賽王丸が牛を急がせたら、牛の蹴上げた水しぶきが、車の前板に勢い良くかかった。御車の後部の席に座っていた為則が「とんでもない牛飼童だ。こんな所で牛を急がせてはならぬ」と言った。

3日

大臣は不機嫌になられて「お前が牛車の御し方を賽王丸より良く知っている筈はあるまい。お前こそ、とんでもない男だ」と言われて為則の頭を車に打ち当てられた。

4日

この有名な賽王丸は太秦殿に仕え、そり牛車の御用をつとめた牛飼いである。この太秦殿に侍っていた女房の名は、一人はひささち、一人はことつち、一人ははふはら、一人はとうしと付けられた。

5日 第壱百壱拾五段 

宿河原という所にて

宿河原という場所に大勢の遁世者が集まって九品念仏を唱えていた。他所から来た一人が言った。「もしかしたら、この中にいろおし房と言われる方がいませんか」と。すると中から或る人が、「いろおしはここにおります、そう言われるのは何方ですか」と答えた。相手は「しら梵字と言います。私の師匠の某が東国で、いろおしと言う者に殺されたと聞きましたのでその方に会い恨みを晴らしたいと思い尋ねた」と言った。
6日

いろおしは「よくも遙々とおいでなさったものだ。確かにそんな事がありました。ここで相手をすると道場を汚します。前にある河原でお手合わせ致します。お立会いの方々、決してどちらにも加担なされますな、大勢の人が関わると仏事の妨げとなります。」と話をつけて、二人で河原で決闘し存分に戦い、刺し違えて共に死んだ。

7日

ぼろぼろという遁世者は昔はいなかったと思われる。最近、ぼろんじ、梵字、漢字などいうものがその起源であるという。世捨て人のようでありながら我執が強く、仏道を願う様をして専ら争いを好む。実に勝手気ままな恥知らずな有様だが、死を恐れず、少しも未練がましくないのが潔いので、人が話した通りに記載したのである。

8日 壱百壱拾六段

寺院の号、さらぬよろづの物にも

寺院の名前を初めとして、それ以外の色々の物にも、名前をつけるに際して昔の人は、自然にだだありのままにあっさりと付けている。最近は才覚を示そうと深く考えているように見えるが煩わしい。人名も見慣れない文字を付けようとするのは無用である。何事も珍しいことを求め奇をてらうのは浅学の人がしがちなことである。

9日 壱百壱拾七段

友とするのに悪い人

友人にするのに不適当な者が七つある。一つは、高貴な人。二つ目は若い人。三つは病気がなく頑健な人。四つは酒好きな人。五つは勇ましい武人。六つは嘘つき。七つは欲の深い人。望ましい友人には三つある。一つは物呉れる人。二つは医者。三つは知恵ある人。
10日 壱百壱拾八段 鯉の羹を食べた日には 鯉の羹を食べた日は、鬢が乱れないという。鯉は膠を作るので粘り気があるのであろう。天皇の前で切られるのは鯉だけだから特別な魚である。鳥の中では雉がそうである。雉や松茸などは御湯殿の上の間に懸けてあっても差し支えないがそれ以外のものは心にかかる。中宮のお方の御湯殿の上の黒御棚に雁があったのを北山入道殿がご覧になり、帰えられてから直ぐ文を寄こされた。「あのような物を、其の侭の姿で御棚に置いてあるのは、見慣れない、見っともないことです。しっかりした人がお傍にいないからでしょうか。」などと言われたそうだ。
11日 壱百壱拾九段

鎌倉の海に鰹という魚は

鎌倉の海でとれる鰹は上等な魚として最近地元では珍重している。鎌倉の古老は「我々の若い時はこの魚は、れつきとした人の食膳にだすものではなかった。頭は、地位の低い者も食べず切り取って捨てたものだ」と言っていた。このような下等な魚も世が末となると、上流社会にまで入り込むようになつた。

12日 壱百弐拾段

唐の物は、薬の外は

中国からの輸入品は薬以外は無くとも事欠かない。書物も多数存在しているし書写したらいい。中国の船が無用なものばかり積み込んで困難な航路を続々と渡来してくるのは実に愚かなことだ。「遠方の物を宝としない」とも「得がたい物を尊ばない」と古書にも書いてあるそうだ。
13日 壱百弐拾壱段

養い飼うものには、馬・牛

家畜として飼うものには馬・牛。これを繋いで苦しませるのはかわいそうだが、人間にとり必要不可欠なものだから致し方ない。犬は家を守り、賊を防ぐのは人間以上だから飼いたい。然しどの家にもあるのだからわざわざ探し求めることもあるまい。その他の鳥や獣は全て無用なものだ。

14日

走る獣は檻に入れられ、鎖に繋がれる。飛ぶ鳥は翼を切られて籠に入れられ、空を飛びたい、山野を走りたいと思う不満が常にあろう。その気持ちを自分の事として耐え難い心ある人ならそれを楽しめまい。生き物が苦しむのを見て喜ぶのは、桀や紂の心と同じだ。王子猷が鳥を愛したのは鳥が林の中で楽しく暮らすのを見てそれを散策の友としたのだ。鳥を捕らえ苦しめたのではない。「およそ、珍鳥や奇妙な獣はわが国では飼わない」と古書にある。

15日 壱百弐拾弐段 人の才能は 人間の才能の第一としては、古典に明るく聖人の教えを知っていることだ。次は字を書くこと、専門としなくても習わねばならない。学問するのに必須である。次は医術を学ぶべきだ。自分の健康の為、人を助けまた忠孝の為にも医術なしには無理だ。次が弓射、乗馬でこれらは六芸の中に入っている。これらは必ずたしなむべきだ。文・武・医の道はどれ一つ欠けてはならない。これを学ぶ人を無駄と言ってはならぬ。
16日

次に、食物は人間にとり命そのものである。調理の仕方を良く知っている人は重要な能力の保有者である。工芸は万事に有益である。その他のことについて言えば、多能は君子の恥である。詩歌や音楽の能力ある人は優雅で深遠な領域として君臣とも重んじているが、これを以って政治を行うなどは最早不可能である。金は値段が高いが、鉄の有益さには及ばないのと同様である。

17日 壱百弐拾参段

無益なことをして

無益な事をして過ごすのを、愚か、または間違った人というべきだ。国のため又君の為にやむを得ずすべきことが沢山ある。だから余暇は少ない。考えて見るがいい。人間としてどうしても努めなくてはならぬ事は第一に食物、第二に着る物、第三に住まいである。人間にとり大事なのはこの三つに過ぎない。飢えない、寒くない、風雨に遭わず静かに過ごせるのが幸せなのだ。

18日

然し誰でも病を持つ。病の苦痛は耐えがたい。だから医療は忘れるわけにはいかぬ。薬を加えて四つのものを求めて得られないのを貧しいというべきなのだ。この四つに不自由しなければ豊かなのである。これ以外を求め努めるのは贅沢というべきである。四つについて慎ましくすれば生活に不足を感ずる者がいるだろうか。

19日 壱百弐拾四段 

是法法師は、浄土宗に恥ぢず

是法法師は浄土宗の人として誰も引けを取らぬ学識者であったが、学者らしく振舞わず常に念仏し、安らかに日々を過ごす様子は実に好ましいものである。

20日 壱百弐拾五段 人におくれて四十九日の

人に先だたれて、その四十九日の法事の折、ある聖を導師としてお招きしたら説法が素晴らしいのでみんな涙を流した。その導師が帰ってから、聞いた人々が「いつもより特別に尊く感じた」と感嘆しあった。それに対してある人が「なんと言ってもあれ程唐の犬に似ているから尊いのも当然」と言ったので感動も冷めておかしかった。そんな誉め方があるのだろうか。

21日 又、同じ人が、「人に酒を勧めるのに自分が先ず頂いて、それから人に無理にお勧めするのは、剣で人を斬ろうとするのに似ている。剣は両側に刃がついているから、持ち上げる時に先ず自分の頸切るので人を斬ることができない。自分が先に酔って寝てしまえば、相手はまさか酒を飲むまい」と言った。この人は実際に剣で斬ってみたことがあるのだろうか。実におかしかった。
22日 壱百弐拾六段 博打の負け極まりて

「博打の負けで、残ったもの全部を賭けて最後の大勝負に出ようとする博打打ちには相手になってはならぬ。今度は逆に彼が連勝するチャンスだと知るべきであろう。その潮時を知る人を上手な博打打ちと言う」とある人が言った。

23日 壱百弐拾七段

改めて益なきことは

改めても無益なことは改める必要はない。
24日 壱百弐拾八段 雅房大納言は、才賢く

雅房大納言は学識もあり立派な人なので院は大将にしたいと思っておられた。その頃、院の側近の人が「ただ今、酷いことを見た」と申し上げたので「何事か」とお聞きになる。「雅房卿が鷹に餌をやろうとして生きた犬の足を斬っているのを垣の穴から見た」と申し上げた。院は雅房卿を疎ましく憎く思われ機嫌を損なわれその為に大納言は昇進されなかった。

25日

あれ程の方が鷹を飼われるのは意外な事実だが犬の事は無実であった。嘘はいけないことだが、こんな事を聞かれて彼を憎まれた院の御心は実に尊いことである。

26日 大体、生物を殺したり傷つけたり、互いに闘わせたり、それで遊び楽しむ人は互いに傷つけあう畜生と同類である。全ての鳥や獣から小さい虫にいたるまで心をとめてその様子を見ると、子を思い、親を思い、夫婦が連れ添って、妬み、怒り、欲望を強く持ち、我が身を愛し、命を惜しむ様子は彼らが愚かなだけに人間よりも一層甚だしいのだ。その彼らに苦痛を与え命を奪うことが、不憫で無い筈があろうか。すべて、あらゆる生物を見て、哀れみの心を持たない者は、人間とは言えない。
27日 壱百弐拾九段 

顔回は、志、人に労を施さず

顔回は他人に迷惑をかけない事を信条としていたという。人を苦しめたり、虐げたりしてどんな下級庶民でもその意思を奪ってはならない。又幼い子供を騙し、脅し、からかって面白がることが多い。大人は本気にしないから大したことと思わぬが、幼い子供の心にし大変、身にしみて恐ろしく、恥ずかしく、情けない思いは痛切である。子供を悩まして面白がるのは慈悲の心ではない。

28日

大人の喜怒哀楽は、みんな迷いの幻想である。だが、誰もがそれを実在の事としてこだわるものだ。身を傷つけるより心を悩ますほうが人を大変損なうものだ。病気になるのは多くは心に原因がある。外からやって来る病気は少ない。薬を飲み汗を出そうとする時に効果が無いことがあるが、一旦恥じたり恐れたりすれば、必ず汗が出る。それは心のしわざだということを知るべきた。凌雲観の額を書き恐怖の余り白髪となったような例もあるのだ。

29日 壱百参拾段

物に争わず

物事を人と争わないで自分を抑制し、自分の事は後回しにして他人に譲るのがいいだろう。どのような遊び事でも、勝負事の好きな人は勝つことに喜びを見出している。自分の技術が勝っているのを喜ぶのだ。だから負けると不愉快になるのは尤もだ。自分が負けて人を喜ばそうとすれば遊びの興味は全く無い。人を無念に思わせて自分の心の慰めにするのは背徳的である。

30日

親しい者同士が陽気に遊ぶのにも、人を騙して我が知恵の勝っているのを楽しむこととなる。これも又失礼なことであろう。だから楽しい宴会が原因で積年の恨みを抱く例が多い。

31日

これらはすべて争いを好むことによる弊害だ。人に勝さろうとするなら、ただ学問して、その知識が人に勝さろうと思うべきだ。道を学べば自分の長所を誇らず、仲間と争うべきでないと悟る。重職を辞任したり、利益を捨てる時の決断はただ学問の力によるものだ。