徳永圀典の徒然草口語訳8. 平成16年4月

1日 壱百参拾壱段 貧しき者は財をもて礼とし 貧しい人は財貨を人に贈るのを礼儀と心得る、年寄りはその体力を貸すことを礼儀と心得るものだ。しかし、自分の身の程を知り力の及ばない時にはすぐやめるのが知恵というものだ。それを相手が許さないなら、その人は間違っている。分をわきまえずに無理するのは本人の誤りだ。貧しく、然も分をわきまえないと盗みを働くこととなり、力が衰えているのに分をわきまえないと病気にかかるのが落ちである。
2日 壱百参拾弐段 鳥羽の作道は

鳥羽の大路は、鳥羽殿が建てられた後についた名前ではなく昔からのものだ。元良親王、元旦の奏賀の声が素晴らしい人で大極殿から鳥羽の大路まで聞こえたという記事が李部王の日記にあるらしい。

3日 壱百参拾参段  夜の御殿は東御枕なり

夜の天皇の御寝所は東の方角に枕を置くのが慣習である。一般に、東枕が陽気を受けて良いので孔子もそのようにして頭を東にして寝た。寝所の内装は東枕或は南枕のどちらかが慣わしである。白河院は北枕でおやすみになつた。「北は不吉です。また、伊勢は南に当たる。大神宮の方角に足を向けるのは、いかがなものか」と或る人が申し上げた。ただし、大神宮を遥拝する時は東南にお向きになる。南にではない。

4日 壱百参拾四段 

高倉院の法華堂の三昧僧

高倉院の法華堂の三昧僧であった某律師がいた。或る時、鏡を手にして自分の顔をつくづくと見てその容貌が酷く余りに情けなく思いその鏡までうとましい気持ちになった。その後鏡を恐れて長い間手にしなかつた。人との交流も全くしなかつた。法華堂の勤行に参加するだけで、自室に籠り続けたそうだ。実に珍しい出来ごとだと思った。

5日

賢い人も他人の判断ばかり加えて自分の事を知らないものだ。自分自身を知らないで他を知る道理はない。だから自分を知る者を物の道理を知る者というべきである。容貌の醜さも、心の愚かさも、取るに足りない身分も、老齢も、病に蝕まれているのも、死の近いのも、修行の至らないのも知らない。自分の欠点を知らぬのだから自分に対する他人の批判も知らない。

6日

これらの中で容貌は鏡で分かる。年齢は数えればわかる。だから我が身のことを全く知らぬというわけではないが、知らぬも同然であろう。と言って、容貌を改め、年齢を若くせよというわけではない。自分が劣るのを知るなら、なぜすぐ身を引かないのかということだ。老いたと知るなら、なぜ閑居して身を安めないのか。修行が不十分だと思うなら、なぜ自分のこととして反省しようとしないのか。

7日

誰からも好意をもたれないで世間の人々と交わるのは恥ずかしい。容貌も悪く、才覚も無いのに出仕し、無知なくせに博学の方と交際、芸は下手なのに名人と同席、白髪の身で壮年と肩を並べる。そればかりか、及びもつかないことを望み、できもしないことを悩むは実現不可能を期待し、人を恐れたり媚びたりするのは人がかかせた恥ではない。欲望に引かれて自分で自分を辱しめているのだ。欲望が収まらないのは死という大事が眼前に迫ることを切実に自覚していないからである。

8日 壱百参拾五段 

資季大納言入道とかや

資季大納言入道と言うお方が、具氏宰相中将に「貴公が尋ねられるくらいの事であれば、どんなことでも、この私が答えられぬ筈はない」と言った。そこで入道は「それなら挑んでみなさい」と言った。具氏は「本格的習得は少しなのでお尋ねするまでもない。何ということもない。他愛無い話題から、気になっていることをお尋ねしたい」と言う。

9日

入道は「身近なことなら、なお更です、なんでも説明しましょう」と言うので近習の人々や女房なども「面白いやりとりだ、同じことなら、院の御前で挑むがいい。負けた人はご馳走を用意したらいい」と衆議一決して御前での対決となった。具氏は「幼い頃から良く耳にしながら、その意味が分からぬことがあります。「むまのきつりやうきつにのをかなかくれぼれいりくれんとう」と言うことは、どんな意味でしょうか、お尋ねします」と言う。入道ははたとつまって、「それは他愛ないことなので、ここで言うこともない」と言われた。具氏は「もともと、深遠な方面のことは分かりませんので、他愛無いことをお尋ねするとお約束したのです」と言ったので、入道は負けとなり罰としてみなにふるまったという。

10日 壱百参拾六段 医師篤成、故法皇の御前に

医師の篤成が故法皇の御前に伺候している時、法皇の食膳がきたので「今お食事の品々について、その名前と効能をご下問になれば私は何も見ないでお答えします。その上で本草学の書物をご参照下さい。一つも誤り無くお答えできます」と申し上げた。その時にたまたま,今は亡き六条内府が参上されており「有房もこの機会に学問しましょう」と言われ、先ず「しおという文字は何偏なのか」とお尋ねになると、篤成は「土偏」ですと答えた。内府は「あなたの学識の程度は、それで良く分かりました。もうそれで結構です。これ以上お尋ねしたいことはありません」と言われたので一座は大笑いとなり、篤成は退出してしまった。

11日 壱百参拾七段

花はさかりに、月はくまなき

桜花は満開、月はかげりのないのを鑑賞するべきであろうか。見えない月に雨をみつめて月を恋したり、部屋にいて春が暮れてゆくのを知らないでしまうのも、じかに触れるより一段と感興と情趣のあるものだ。開花したばかりの梢、花びらが散った庭一面などにこそ見るべきものがある。和歌の詞書にも、「花見にでかけたが花は散ってしまっていたので」とか「所要があつて花見に行かず」などあるのは「花を見て」というのに情趣の点で劣るのであろうか。花が散り、月が西に傾くのを愛惜するのは自然な人情だが、とくに無風流な人に限り「この枝もあの枝も、花は散った。もはや見るべきところはない」などと言うようである。

12日

物事の初めも万事、初めと終わりに趣きがあるものだ。男と女の情事も、ただ逢って契りを交わすことのみに意味があるものではない。逢わないで終わった哀しさを思ったり、実を結ばなかった契りを嘆いたり、長い夜を独りで朝まで過ごしたり、遠い所に住む恋人を心の中に思い偲んだり、その昔、逢う瀬を楽しんだあばら家をしのぶような人こそが、色好みの名に値するのだ。

13日 満月の日に千里四方まで見渡すよりも、待つこと久しく暁になりようやく出る、有明の月を見るほうが情趣がある。特に青みを帯びて深山の杉の梢の立ち並ぶあたりに見える木の間越しの月影とか、俄かに時雨て雲の中に月が隠れたさまなどは、特別に深い哀れさを覚える。椎とか白樫など光沢のある葉の上に月光がきらめくさまなどは身にしみて、この感動を分かちあえる心の友を求めて胸が一杯になり都が恋しくなる。
14日

月とか花は目で見るときまったものであろうか。春は家を出ないでも月の夜の寝室で、それらを思い描くときにこそ尽きせぬ情趣が味わえるのだ。所謂、通の人は物事に没頭するようにも見えないし興ずるのも淡白のようだ。片田舎の人は万事にしつこく楽しみを求める。花の木のそばに、人を掻き分けて近寄ったり、脇見もしないで花を見つめるとか、酒を飲み,連歌をして興に乗ったあげく、大きな枝を無分別にも折ってしまう。納涼のときには泉水に手足をつけるし、雪見には雪の上に、わざわざ降りて足跡をつけるという具合に、何事につけても、距離をおいて見るということをしない。

15日 そのような人が賀茂の祭りを見物する模様は実に珍妙である。「行列が来るのがバカに遅い、それまでは桟敷にいても仕方がない」と言い奥にしつらえてある部屋にいり酒を飲み、物を食い、囲碁・双六などをして遊び、桟敷には見張りをおいておく。その人が「行列が通ります」という時に全員が慌てふためいて桟敷に上がり、下に落ちそうなほど簾から身を乗り出し、押し合いつつ、一つでも見落とすまいと目を皿のようにして「ああだ、こうだ」と何かを見るたびに言って、行列が去ると「次のが通るまでよかろう」と降りてしまうのである。彼らはただ行列のみを見物しようとしているのであろう。
16日

これに対して、都の人、とくにいかにもいわくありげなお方は、目を閉じて余り見ない。身分の低い若い人たちは主君への奉仕に忙しく、貴人の後ろに侍る者はぶざまに身を乗り出すわけにもいかないから強引に見ようとする人はいない。

17日

なににでも葵をかけ、優雅な雰囲気の漂う中に、夜も明けない頃、あちらこちらから忍んで集まる牛車の主が知りたく、あの方か、この方などと推察していると、顔見知りの牛飼いやら召使が目につく。趣の深い、或は華麗に色とりどりの姿で車が行き交う様子は、見ていて飽きない。

18日

夕暮れになると道路に添って立ち並んでいた車も、隙間がない程に立ち並んでいた人たちもどこに行ってしまったのか、まばらになる。車の混雑が解消する頃には、簾や畳も取り払い、見る見るうちに寂しげになるのは、この世の儚さを見るような心持がして、しみじみとした味わいがある。このような大路のさまを見るのが、祭りを見るということなのである。

19日

祭りの桟敷の前を往来する大勢の人の中に、見知った顔が多いことから世の中の人数もそれ程多くないと分かる。これらの人々がみな死んでから自分が死ぬことになっているとしても、その時はすぐにやってくる。大きい器に水を入れて細い穴をあけるとしたら、その穴から水がしたたり落ちる量は僅かにしても、絶えず漏れていたらまもなく水はなくなる。

20日

都にいる多くの人の誰かが死なない日はない。しかも死ぬ人の数は、一日に一人や二人ではあるまい。鳥部野・舟岡、その他の野山にも、死者を多数送る日はあっても、送らない日はない。だから棺を売る者は、作ってもそのままにしておく余裕がない。若さとか強さにも関係なく、予測できないのが死期である。今日まで生きて来られたのは、有り得ないような奇跡だ。そのように思えば、しばらくでものんびり生きることはできないであろう。

21日

継子立というものを双六の石で作り、石を並べた時には、取られるのがどの石かは分らないが、数えて当たった石を一つ取り去ると、そのほかの石は、取られるのを免れたように見える。しかし、次々に数えて一つづつ間引いていくうちに、どの石もすべて取られてしまう。人の世もこれに似ている。

22日

武士が戦いに赴くときは死が近いことを知り、家のことも我が身のことも忘れる。俗世間を離れて住む草庵で世捨て人が静かに水や石の佇まいに心をひかれて死の近さをひとごとのように思っているのは全くはかないことである。静かな山の奥にも、死という敵が激しく迫って来ないはずはない。その身が死に直面している点で彼は戦場に臨む武士と同じなのである。

23日 壱百参拾八段  祭過ぎぬれば、後の葵不用

「葵祭が終われば、使ってしまった葵などは必要ない」と言って或る人が御簾にかけてあった葵をすべて取らせてしまった。風流のないことと感じたが立派な人のなさることだから、そうするものだと思った。

24日

しかし、周防内侍の
かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり
という歌も、母屋の御簾にかけてある葵の枯葉を詠んだものだということが、彼女の家集に書いてある。古い歌の詞書にも「枯れた葵にさしはさんでつかわした歌」とある。

25日 枕草子にも、「過ぎ去りし日々が懐かしまれるものは枯れた葵である」と書いてあるのは実に懐かしく思う。鴨長明が四季物語にも「玉だれに後の葵は留りけり」とある。自然に枯れるのさえ名残惜しいのに、どうしてさっぱりと取り捨てていいのだろうか。
26日 御帳にかけてある五月五日の薬玉も、九月九日に菊と交換されるものだから、薬玉に使う菖蒲は菊の季節まであるのが本当だろう。枇杷皇太后宮がお隠れになって後、古い御帳の内に菖蒲や薬玉などの枯れたのがあったのを見て「折ならぬ音をなほぞかけつる」と、弁の乳母が歌ったのに対する返事に「あやめの草はありながら」と、江侍従が詠んだものだ。
27日 壱百参拾九段 家にありたき木は 自宅に植えたい木は、松と桜である。松は五葉もよい。桜の花は一重がよい。八重桜は奈良の都にだけあったものだが、この頃はあちこちに広がっているらしい。吉野の桜、右近の桜はみな一重である。八重桜は異様なものである。とてもぎょうさんで、ひねくれている。植えなくていいと思う。遅桜はまたすさまじい、毛虫がついているのも不愉快である。
28日 梅は白いのがいい。薄紅梅もよい。一重の梅がいち早く咲いているのも花弁の重なった紅梅の匂いが素晴らしいのもみな魅力がある。遅咲の梅は、桜とともに咲き、人の関心を余り引かず、桜に圧倒されて、枝に萎んだ花がついているのが情けない。「一重の梅がまず咲いて、まもなく散るのは気が利いていて宜しい」として京極入道中納言は、その言葉のように一重の梅を軒近くに植えたという。京極邸の南面に今でも二本ある。
29日 柳もまた、情趣がある。四月頃の若楓もいい。これらはすべて、花・紅葉に勝ってよいものだ。橘や桂は、どれも古びた大木がよい。
30日

草でいいのは、山吹・藤・杜若・撫子である。池の草は蓮、秋草としては、萩・ススキ・桔梗・おみなえし・藤袴・しおん・われもこう・刈萱・竜胆・菊がよい。黄菊もよい。つた・くず・朝顔はどれもあまり丈が高くならず、こじんまりした垣根に生い茂っていないのがいい。この外の、珍しいものや、中国風のわかりにくい名前で、花も見なれない品種は、それ程心がひかれない。
だいたい、何でもそうだが、珍しく滅多に無いものは、品の下がる人がもてはやすものだ。そんなものはないほうが良かろう。