徳永の語る安岡正篤先生 その一 

令和59月4日  徳永圀典 92

昭和の碩学、安岡先生には、色々な書物がある、我が会も輪読した、私の主義で今日まで私の言葉で解説したことは殆ど意図的にしなかった。現代では、素養の欠如した人間ばかりとなり、更に難解で先生のイメージが分からぬようになっている。

碩学とは、学問が深く立派で広い方、大学者。それだけでは先生を表現したことにならない。漢学も国学も西洋学も網羅したお方と言われ最早や安岡先生のようなお方は現れぬと言われる。

亡くなられた渡部昇一先生と、日本会議発足大会の時、東京品川プリンスホテルで私は、渡部先生は安岡先生の衣鉢を継がれるお方と言ったら後でお礼と感激のお手紙貰いましたよ。余談でした。

平成の年号を考案された方と言うと直ぐわかる。

先生は、東京帝国大学法学部政治学科卒、王陽明研究を著し陽明学者として高名である。東大卒後、一、二年文部省に在籍されたが

終生、無位無官のお方でした。

戦前戦後を通じて安岡先生は、歴代総理大臣の陰の指南役であり、

また財界人の心の拠り所であり、各界のトップが安岡先生の教えを受けたのでした。

言うならば、日本のリーダーの指導者が安岡先生でありました。

総理大臣、政治家とか、住友銀行など大企業トップクラスが指導を求めていたのです。

どんなに凄いのか私は目撃しました。支店長時代、個人的に東京工業倶楽部というのが東京駅ちかく工業会館にあり、安岡先生の講話があり私は参加した、時の総理、福田赳夫が安岡先生に最敬礼したのを目撃したのです、ショックでしたね。

安岡先生26才の時、時の荒木陸軍大将と夕食で激論となる。一晩明かしたが結論でない、改めて議論する事となる。負けたら勝った方の弟子となる約束する。一晩、斗酒辞せず、明け方、遂に荒木大将が降参した。荒木陸軍大将に遂に負けた。荒木大将は26才の安岡先生に終生、老師とお呼びし「師の礼」を取られた。師と言うものは、そういうもい聞かせえるのなのですね。

帝王学なのですね、指導者連中が教えを乞うたのは、帝王学でした。リーダーとして「人の上に立つ在り方」を求めたでした。

平和の連続80年、混迷の時代、強いリーダーが必要な時代、現代です。かかる時、安岡哲学は甦る。時代を超えた真理であろう。