安岡正篤先生語録 6
ホームページの多くの愛読者から、やはり安岡正篤先生の言葉、
即ち活学がとても日々の勉強になるとの指摘があった。
分かり易いし人間の心を捉えるものがあるからであろう。
今回で安岡正篤先生語録は第6回目となる。勿論、過去に引用
していないものばかりである。徳永圀典
 

平成17年1月

 1日 「真剣になれば」

昔から有名な武将はみな、戦乱の巷・陣営の中に在って、暇を見つけては真剣に読書しております。つまり人間は真剣になると、初めて本当のものが出てくる、厳粛なものが出てくる。太平無事になると、大事なものを失って、享楽的になり、ふざけた生活をするようになる。

そのために益々世の中がだめになる。そうして酷い目にあって、初めて今更のように本当のものを求めるようになる。人間は苦労しないと駄目だと言うことです。ぬくぬくと甘やかして育てられると、本当のことが分からない、また求めようとしないものであります。
(陰隲録を読むより)

 2日 「人間の本質とは」 「明朗・清潔・正直・同情・勇気・義侠・反省・忍耐という徳性、これが人間の本質」。能力のうち最も大切なものは知能でありますが、徳性に比べるとこれは枝葉のものであり、人間の脳細胞は体の外の部分と違いまして、生れた時既に一生に必要な全量を具備しております。

この脳髄は三才にして、既に大人の80l発達しています。理解力、推理力、記憶力、想像力、注意力等早くから発達いたしまして、修練しないと案外早く停頓します。それからは人生は習慣の織物とも称されています。躾というものの意義はこの良い習慣を養うことであります。徳性と知能、そして良い習慣を磨き、本当の自己を確立すれば、天命を知るようになります。(朝の論語より)

 3日

「敏とは」

自分をつくって行く上に皆さんが密かに心がけになって然るべきことは、絶えず「敏」に志して、心を働かせて、しかも謙虚に、できるだけ人に学べということです。人に学べというと少し窮屈になりますが、もっとやさしく言えば有益な交わりですね。

つきあい、交わりというものを、できるだけ広く持つということであります。また換言すれば、皆さんが早く職業化、専門化しないということです。職業人、専門家に早くなりきらないということです。決まりきった生活をして、決まりきった一日を送っていると、豊かな人生や社会はわからない。機械的な人間になってしまう。(暁鐘より)

 4日

「鍛錬陶冶」

植木を栽培しても咲くがままに花を咲かせ、なるがままに実らせたらだめです。適当な時期において剪定し、枝葉を払う。そうして花でも実でも間引かぬと、即ち果断・果決がないので良木にならぬ。従って躾け、慣習というものが大事なのです。

この徳性というものと、良い躾け、即ち良習慣というものが相待って一切の才能芸能をも発達させるのです。この徳性を働かす大事な潤滑油とも、体液ともいうべきものが、即ち美しい情緒であります。情緒が理性や良習を得て情操というものになります。(青年の大成より)

 5日

「人間はみな違う」

そもそも不思議な性質、性能をあらゆる物が持っている。いわんや万物の霊長たる人間においてをやで、人と生れた以上、本当に自分を究尽し、修練すれば、何十億も人間がいようが人相はみな違っているように、他人にない性質と能力を必ず持っている。

それをうまく開発すれば、誰でもそれを発揮することができる。これを「運命学」、「立命学」という。今日の言葉で言うならば「人間科学」というものだ。すべての生物はそれぞれ独特の内容、意義、価値効用を持っている。
(知命と立命より)

 6日 「念力岩を通す」

念とは、瞬時も忘れることなくという意味であります。終始念じていると、不思議な力が生じてきます。例えば熱心に何かを研究したり、調べたりしておって、その参考書を本屋に探しに行く。あの何千冊、何万冊とある本の中から

すぐ自分の欲しい本を見つけ出すことができる。本当に不思議なことです。これは単なる偶然ではありません。自分は意識しなくとも、実は念力が働いているのです。無意識の世界というものは色々な知慧が沈潜していて、それが念力によって表へ出てくるわけであります。
(人物を修めるより)

 7日

「人間は感動から始る」

感動が人間には一番尊いことである。無感動な人間ほどつまらぬものはない。よく世間で、あいつは熱がないとか、いっこうに張り合いがないと言うが、電気が伝わらないような人間は実際つまらない。よくある無内容な人間になると、折

角いい話をしてやってもキョトンとしている。話が通じない。これくらい情けないことはない。人間の進歩というものは、そういうインスピレーション、感動から始る。偉大な発明発見でも、あるいは悟りでもそうです。みんな感動がないといけない。(知命と立命より)

 8日 「夷狄に素しては夷狄に行う」

本当に自分が充実していたら、どこの国へ行っても、どんな境地に処しても悠然としておれるわけです。自分が出来ておらんというと、一寸所が変わるとじきに神経衰弱になる。いわんや文明生活から少し野蛮生活に入るとすぐに参ってしまう。これは自ら養うところがないものだ

から環境に負けるんだね。いかなる所へ行っても、牢獄へ入れられても、島流しにあっても、悠然としてふだんと変わらんようになるのには、よほど自分を作らんといかん。そういう意味では不遇・逆境というものは自己を練る最もいい場所だ。心掛けが良ければ牢獄の中でも随分学問もできる。(東洋哲学講座より)

 9日 「柔和とは」

人物・人間も、呼吸と同じ事であって人間もいろいろの人格内容・精神内容が深い統一・調和を保つようになるに従って、どこかしっとりしてくる。落ち着いてくる。柔和になる。あるいは静和になる。

そういう統一・調和が失われてくると鼻息が荒くなるように、人間そのものが荒くなる、即ち、荒んでくる。ガサガサしてくる。「君子の行は静以て身を修める」ガサガサしないように、荒まないように、落ち着いて自分の身を整える。
(知命と立命より)
10日

「人物たるには気力」

気力とは身心一貫した生命力であります。事に当たりますと、非常に粘り強い、忍耐力、実行力に富んだ人があります。こういうものは潜在エネルギーの問題でありまして、真の創造力です。この気力・生命力が養われておりませんと、事に耐えません。

いくら理想や教養がありましても、単なる観念や感傷・気分、そういったようなものになってしまいまして、とかく人生の傍観主義・逃避主義者・妥協主義者といったような意気地のないものになってしまう他ありません。そもそも気力というものは、その人の人生を実現しようとする絶対者の創造的活動であります。
(朝の論語より)

11日

「人間の真価は」

日本人の縁組を注意していると、可笑しいほど、本人の背景である父母親戚の地位身分資産や本人の学歴知識才能などに偏して、本人がどんな人物であるかということをほとんど顧慮しない。官庁や会社はもちろん教職に人を採る時でさえ、履歴書本位でこれま

た一向人物の真価に没交渉である。そして何か異常なものをもてはやす傾向が強い。ケインズの経済学を論ずることは流行っておるが、彼がhow to do good よりもhow to be goodの方が大切だと言っておるような事を注意する者は殆どいない。そんな経済学は畢竟不完全である。
(百朝集より)
12日 「学問とは人間を作ること」

人間というものは、どういう心がけならどういう結果になり、どういう原因を作ればどういう悪果・美果が生ずるのか、禍福終始ということは、少し勉強すればよくわかる。これが学問だというのです。禍に惑うたり、幸せに有頂天になったというようなことをしない。

禍福終始を知って惑わぬ、即ち人生というものを確立する。これが学問の本義だ。だからどうしても学問をしなければ自分もわからぬ、人もわからぬ、人生は、なおわからぬ。学問することは単なる「知識を獲得すること」だと思っては大間違いだ。「人間を作る」ということである。
(知命と立命より)

13日

「日本劣島」

世界に類のない価値ある日本人の精神生活、特に風俗・習慣・国語を今日のように滅茶苦茶に荒らしてしまっているということは、まことに情けない限りであります。従って、何よりも我々はまず日本人と精神生活、特に思想、道徳、教育を改革・改造すべきで

ありまして、これをやらなければ、日本の将来は長持ちどころか非常に危ないと思うのであります。日本は戦後、大日本帝国の大と帝がなくなって日本国になったが、最近は国まで無くなって日本列島になってしまった。これでは列島どころか劣島である。
(人物を修めるより)

14日

「大衆社会は頽廃と堕落」

レジャーやバカンスが手を変え品を変えて我々に迫ってきた時、一体、大衆はどうなるのか。精神が向上するのか、堕落して頽廃するのか、その結果は「憂患に生きて安楽に死す」という古来の常則が明瞭に示しております。

生活が享楽、安易になれば人間は次第に頽廃し堕落してゆくのであります。多くの人間は次第にものを考えなくなってきている。ただ目先の利便、安易さを追うために、例えば日常生活でも段冷房器の発達による後先のことをも考えずにそれを利用しようとしている。(東洋人物学より)

15日

「沈みゆく黄昏の国」

内的危険の深淵より眼を挙げて周囲を眺むれば、世間はさらに荒涼である。強烈な色彩、喧騒な雑音、たえざる機械的労役と虐使、それらがすべて人間の神経に刺刺しい刺激を与え暗い疲労に沈んだ人々

はみな鉛のごとき心を抱いて、せめてその暗い疲労を一時的にでも紛らすべく、さらに飽くなき官能的刺激を求めて蹌踉―よろめーいている。ああ死の曠野―こうやーにさまよう行屍走肉の群。何人かこれを想うて戦慄しないものがあろうか。(東洋の心より)

16日

「世紀末」

エロ・グロ・ナンセンスという言葉があるが、世紀末時代、文明爛熟の後には必ずある。大抵一つの創業時代を過ぎると、守成の時代に這入り、それが生命を失うと、機械的生活時代に入り、反理想主義的思想感情が蔓延して、唯物

主義、享楽主義となって堕落する。そうすると活力気迫は衰えて益々肉欲的になる。その一番流行的なものはエロチシズムである。生活が緩んでくると、良心の呵責がきざす。それで変態現象が起こって、しきりに何がなしに刺激を要求する。そして淫祠邪教奇跡の流行が始る。
(経世瑣言より)

17日

「近代文明は」

近代文明は想像力や知識や勇気に満ちた人物を造ることは出来ないようです。あらゆる国に於いて、知識と道徳心が政治・経済・社会の指導階級の間に著しく衰えてゆくのを見られます。あらゆる国々で社会の改造は大きな速度で行

われています。人間が近代文明にかけた大きな期待は空しくなりました。この文明が歩んだ危険な道は、人間を賢く、又勇敢にすることは出来なかったのです。人間はその頭から作り出した新しい機構と同時に進歩することが出来なかったのです。
(日本の父母により)
18日

「利己的生活」

互いの間に暖かい情けなどもはや通わなくなった都会的群集、新聞雑誌の浮薄な読者、映画、ラジオ、スポーツ、マージャンの耽溺者、茶話的観劇的社会改造論者、相場師的、野次馬的、火事場泥棒的革命運動者ではないか。いずれも渾厚−こんこうーな人格統一は

破れて支離滅裂である。知識は開けた。聞見は広い。論理は細い。感情も鋭い。技術も発達した。けれどもそれらを生かす最も大切な、根本的な、尊いものが足らぬ。現代人のような概念的論理的頭脳が果たして人間の喜びに値するものであろうか。
(政治と改革より)
19日

「繁栄の中の没落」

日本は、経済繁栄とか、世紀の奇跡とか、日本が21世紀の支配的国家なるように言われていたが、いつの間にかはなはだ危なくなってきた。そもそもこれはいつの歴史も同じく物語っているのであるが、この経済的繁栄というのがすこぶる曲者である。精神、道徳というものの伴わない経

済の繁栄は、必ず大きな失敗堕落を招くものである。盛んに経済大国を自慢にした日本人が、いつの頃からかエコノミック・アニマルなどという軽蔑を招くようになり、やがてエロチック・アニマルなどという醜名を貰うようになり、この頃では更に進んで、世界で最も愚劣な議会政治だというような批評も噂されるようになってきた。(陽明学十講より)
20日 「危機克服の方法」

日本の危局を乗り切る為には、どうすればよいか。これの方法は幾らでもあるが、ただ一つのことが脱けていては何にもならない。そのただ一つのことは何だといえば、それは良心というものであり、正義というものである。

日本人が日本人として、民族としての良心を持つ、正義を持つ。こういう精神的奮起がなければ、これは到底失敗を免れない運命である。いま日本人は良心的に非常に頽廃して,従って正義に感激がない。今の日本はデモクラシーではなくてデモクレージーである。(陽明学十講より)
21日 「物事は盛んな時に衰えの兆し」

例えば我々の生命力が伸びて成長するということは、同時にこれは老衰するという事に通じる。だから盛んになつたからと言って有頂天になることを、教えは最も愚としておるのであります。然し、反対に衰えるということは、

やがて又盛んになるという生の未来を含んでおるのであるから、衰えたからと言って落胆するのは道を知らざる者のことである。人間、老いるということを多く嘆くのであるが、決してそうではない。老いたら老いたで楽しみもあれば、また力もある。(干支新話より)

22日

「未来は創造」

日本の明日はいかにも重苦しい。内に現代文明特有の中毒症を抱き、暗澹たる雰囲気がたちこめております。然しながら未来は我々が創造するのです。空疎で煩瑣な政治を革新して、国民の何人も嬉しく思うような親しい現実を造ってゆかねばなりません。

善く植林せられた山々、治水のゆきとどいた河川、立派な道路や橋梁、進歩したしかも純朴さを失わぬ農村、上品で若さの溌剌たる学校、ゆかしい伝統を語る神社や寺院、高尚な文化を蔵する博物館、健全で洗練された都市、尊敬と親愛とに溢れる政府等、こういう創造こそ新日本の政治です。(日本の運命より)
23日 「日本の都市は妖怪」

文明は深く省察すればする程、その中に大きな不覚・錯誤のあることがわかりますが、そういうことを蔽い隠して、とにかく文明の華やかな発展は、日に日に人間の魂を魅してゆきます。山野も次第に容−かたちーを改め、田園林野はどんどん新市街に編入され

そこでは道路は固く舗装され、高層建築は林立し、美しく快適な乗り物は街路を疾走し、官能を刺激する美味美音等あらゆる享楽主義の前に、最早宗教的敬虔さや、道徳の抑制は段々省みられなくなって、市人は只もうその享楽と、その為の金銭と、それを得る為の仕事に遂はれて余念がありません。(日本の父母により)

24日

「改革成功の共通項目」

立派な人物が大号令をかけて、先ず官紀の粛正をやり、次に思い切った財政整理・予算の緊縮を断行しております。特に注目すべきは、これから一緒に苦労して難局にあたらなければならぬのであるから、一人と雖も首を切らぬ、又月給もなるべく減らさぬとい

う約束をしておる。非常の改革をやるのだから、人員を何割減らす、月給も何割減らす、というようんことをやって成功した例はない。つまるところは人であります。上に立つ者が本当に私心を去って、実施に行じてゆけば、国民は必ずついてくるものです。
(運命と立命より)
25日

「立正と安国・安民」

核兵器さえ無くなれば直ちに世界に平和がくるんだと言った考え方は、なんにも知らない母親大会のお母さんぐらいなものである。問題はいかにして人間精神を正しくするかということ、つまり「立正」以外に何もないのである。

立正があってはじめて安民、安国ができる。民を安んじ国を安んずることができる。人心、風俗を正しうするということをおいて何をしても駄目である。それには人間尊重から始めなければなりません。お互いに人間を尊重する。尊重される人間になる、それにはまず自分から始めなければなりません。(東洋人物学より)
26日

「偉大なる創造」

宇宙というものは大なる創造であり変化である。我々の精神も生命もこの宇宙に即して、絶えず何かを生み絶えず何らか変化してゆかなければならない。人間幾つになっても、またどんなに立身出世しても、あるいはどんな失意に沈淪しても、生きる限りは固まらない、海老の如くよく殻を脱する生き生きとしておる、

つまり新鮮である。常に柔軟である。若々しい。しかるに、我々は常に容易に殻を固くしてしまう。型にはまって、因循姑息に陥り、枯死、その前に若朽してしまう。老朽の前に若朽してしまうということになり易いので、いかに殻を脱いで常に新鮮になるかということこそ、我々が社会的に生きてゆく秘訣です。

27日 「大御所」

人生は悪夢の如く疲れやすい。せめて閑を楽しみ、真に生きるため、隠居入道をすすめる。世にときめく人々ほど実は荒びがちである。人間せめて老来多少とも閑を楽しみ、真に生きねばならぬ。隠居とは即ち現在の苦役を去って閑地に就くことであって、それは同時に入道即ち真に生きることでなければならぬ。

何も「老いぼれる」ことではない。実はかくして事業を大局から観察指導することも出来る。その意味から言って、隠居に語弊を覚えるならば「大御所」と尊称してよい。老成大人は宜しくその関係する事業や地位にどしどし後進の人材を鑑識登用して、自ら大御所たるべきである。
(経世瑣言より)
28日

「歴史と人物」

歴史と人物に学んで、人間というものはいかなるものであるか、かくすればかくなるという、古今の栄枯盛衰の理法に通ずることなくしては、本当に生きる、せっかくの人生を全うすることはできない。いわんや民族史なり、国家となった場合に、これを担当し

これに過ちなからしめるように治めて行くということになると,よほど人間学というか、治乱興亡の理法というものに通じなければ国を誤る。民を謝る。これ、学道の大切な所以です。ところがたいてい学問というものを自分の欲望・才能の武器に使う。これがいわゆる俗学となる所以です。(三国志と人間学より)
29日

「入道」

富貴の地位、つまり支配的・指導的地位にいつまでもしがみついているということは芳しからぬことである。いい年になったら早く後継者にその地位・財産を譲って真実の生活に入るべきものである。これを入道という。入道というものは坊主だけと思っているのが多いが、そうではない。

「道にいる」のが入道である。昔は四十になると、若い者に後を譲って、さっさと現実の支配的地位から隠居入道した。この頃はいくつになっても隠居入道しない。この隠居入道思想が今日普及したら若い者はまた元気を出して、世の中は活発になると思う。
(知命と立命より)
30日

「言葉・言霊」

我々の文字とか文学とか言葉というものは、決して単なる符号とか、単に意思を疎通する手段にすぎないものでなく、もっと生命もあり、精神のこもったもので、昔から言霊と呼んで、霊という字を当てはめるほどの生きものです。

それですから、世界のどこを見ても、優秀な民族は必ずその民族の言葉、文字を非常に大切にしております。その国民の使っている言葉、文字、従って文章、詩歌を見れば、大体その民族の値打ちがわかると言われるくらいのものです。
(運命を開くより)
31日

「死」

死とはなんぞや。これほど人間に真剣な問題はない。その一結論として「未だ生を知らず、なんぞ死を知らん」という孔子の子路に対する答えに私はおのづから襟を端−ただーすものである。そうして、「死とは何ぞや」の問題を「いかに死すべきか」の行動をもって解決した古人特に我々の

祖先に無限の敬意を覚える。西洋の詩人・哲学者などが詳しく日本人の死の研究を行ったならば、彼等はいかに驚嘆することであろう。武士道にかぎらず、およそ日本の国体・歴史・一切の文化は「死の覚悟」の上に成立っていると言っても過言ではない。
(東洋の心より)