安岡正篤先生語録 7
お待たせしました。矢張り安岡正篤先生の言葉は「活学」でありとても的を得ています。色々なものから抜き出してご披露します。
平成17年10月

 1日

偉大な人物とは

真に人間の真価をあらわすものは、その人がどういう地位にあるとか、どれ程財産をもつているとか、どんな名誉職にあるとか、あるいは又かって国会議員をやったとか、大きな会社の重役であったとか、何か大きな事業をなしたと

か、というようなことではなくて、ただその人がどういう人間であるかということであります。偉人とか、英雄とかいわれるような異常の人ではなく、ただ誠の人であります。自然の権化と申しますか、自然が造った人物のことであって、真実の段階を踏んでおります。―先哲講座より

 2日 人材

今日ほど日本が人材を要求することの急なる時はないと言えるのです。そうして今日、日本が悩んでいるのは、経済でも物資でも、金融でも何でもない、実に人材である。人はあり余っておるのに、日本の一番の悩みであると言って少しも過言ではないと思います。考えようによつては、今

日ほど若い人々の感激ある時代はないのです。自分の修養、努力によつて、本当に生きがいのある、自分を作ることもできるのであります。色々の意味において、今後の若い諸君の修養と活動とは、本当に刮目して相待つべきものがあります。
―暁鐘より

 3日 公と私欲

ヨーロッパなどに行きますと、学者だとか、芸術家だとか言われる人の中に、とんでもない辺鄙な田舎にひつこんで、用事が無ければ都会に出てこない、というのが随分ある。みなこれ天道・地理・人紀、自然に復ろうというのであります。これは私生活。

それでは、公生活に持ってゆくにはどういうことになるのか。私欲を去る、ということである。ということは公に帰するということである。私心・私欲を去って、自己を空しうして、公のために、天下・国家のために尽くすということである。
ー天地にかなう人間の生き方より

 4日 危機脱出

現代の危機を克服する者は結局教育学問であります。徹底的に言えば、我々が今日誇っておる科学や技術や産業の発達と匹敵するような道徳的精神的、人格的発達が無ければ、この文明は救われないのであります。

教学の使命は厳として此処にあると信じます。即ち教育者は真の人間を作るように子弟を教え導かねばなりません。真の人間とは、いかなる地位に置いても信用せられ、又いかなることでも容易に習熟する用意のできて居る人々、苦悩して居る人類に敬愛と希望とを与える人間のことであります。
―日本の運命より

 5日 日本行き詰まりの原因

役所に、学校に、銀行に、会社に、人を採用するにも、その人間がどういう志気があり、節操があり、胆識があり、度量があり、またいかに安心立命し、いかなる風韻、温籍を持てる人であるかという人物の見方をしなかつた、そういう試験はしなかつた。

或いは何の学校を卒業して何の資格を持っておるか、誰某の推薦がある、せいぜい誰某とどんな因縁があるか、そういう人間の本質というものとははなはだ関係のない極めて形式的な標準で人を採ってきた。そして学問もこれに準じて空虚なものであった。これがある意味において日本のあらゆる方面の行き詰まりの最も深刻なる原因である。
 6日 男女の風紀

昔からの格言にも「華軒香車」―かけんこうしゃー、いい乗物は人間を足なえにする道具、「招蹶の機」−しょうけつのきーだ。自動車の普及なんていうものは、多分に文明人を足なえにしておる。美味、ご馳走は「爛腸の食」−らんちょうのしー、腸を爛−ただーらすものである。

或いは男女の放縦な色欲を欲しいままにすることは、「伐性の斧」−ばっせいのおのー、人間の精神生活を伐る。そういう意味において、男女の風紀が頽廃すると、民族の精神的・生命的頽廃を促進する。これ古今一轍―ここんいってつー、変わりないことである。
―三国志と人間学より

 7日 男女淫乱

礼義修まらず。礼義は礼と義にわけると、とは調和で、つまり社会生活、国家生活における組織・秩序であり、その中にあって人間がいかになすべきかという思想。
行動の原則がであります。従って礼義修まらずとは、私たちの国家生活、あるいは社会生活の組織・秩序とそれに即した思想・行動がおさまらないということです。

男女淫乱・男女関係が乱れるということは民族滅亡の一番の近道です。
処が昨今日本もこれが非常に乱れまして、週刊誌等はこぞってこの種の記事を面白くおかしく書いておりますが。大変なことになつたものであります。

―先哲講座より

 8日 公共精神に欠ける日本人

どうも日本人は概して公共精神、犠牲的精神、道徳的感激性の人材が少ない。頭が良いとか、才があるとか、世渡りが巧いとかいう個人主義に優秀な人物は多いのです。けれども己を抑え、そうして大義に生きる、公共に生きるというような感激的精神、そういう道義は衰えて居る。

これが現代に人なしと謂われる真因であります。知識や技術、個人的な生活能力という点に於いては決して衰えて居るのではない。
人生とか国家とかの大義にー大事に感激する、それに身を挺して当たるというような道義になって来ると、確かに衰えて居る。

―日本の運命より

 9日 心の汚染

我々が予期しなければならないことは、あらゆる意味における汚染、いわゆる公害がはなはだしくなるということです。これをどうするか。差し当たって最も身近に考えなければならぬ問題です。汚染を受けるのは身体ばかりではない。心が受ける汚染をできるだけ慎むようにする。

そのためには、つまらぬ小説や愚論に類するものはなるべく読まぬようにすると共に、心が浄化されるような立派な書を読むべきである。特に朝、30分でよい。こういうふうに公私生活において、何事によらず身心の汚染をできるだけ去るように努力する。それには良き師、良き友を心がけることが大事であります。
―干支の活学より

10日 世界の危機

日本の今日の政治や経済の窮迫・困難を救うのにも、如何にも内面的・精神的な問題を同時に解決して行かないと、到底救われないということをつくづく感じたのであります。各国とも最も悩んでおりますのは、なるほど、政治・経済・思想、色々あれますけれども、これは要するに精神の

問題であり、人間の問題である。物の欠乏、金の欠乏よりも何よりも、根本において精神の欠乏に悩んでおる。何が貧困といっても人物の貧困くらい始末に悪いものはない。経済や政治の貧困はまだ救える、思想の貧困も何とかできる、しかし精神の貧困、人物の貧困にいたってはどうにも困る。
―暁鐘より
11日 頽廃

今や荒涼たる廃墟に立って、恐るべき不安に慄へながら、現代人は生活の改造を絶叫し、精神の安立を渇求している。もはやすべての人が真面目に返らねばならない。真面目になって、真実なる人として、新に人生を邁進なければならない。一切の狐疑―怠惰―欺瞞はつひにかの世紀末の習

気のうちに人間を腐敗し絶望せしめるであろう。しかるに、翻って我らの社会を見るに、私はこれを包む空気の依然として余りに退廃的なるに驚かざるを得ない。私はこの退廃的空気が一刻も早く我らの社会を去らんことを熱望する。
―東洋思想と人物より

12日 経済

今日ほど経済いとう問題が、人間の生活を支配した時代はかってなかたであろう。いかなる人も食うとか、食えるとか、食えぬとすいうことを苦にしている。食うことに心配のない人々も、たえず経済を心配している。政治も経済問題・財政問題が主である。

学問も経済学・歴史も唯物史観が圧倒的に流行し、世の中の変化も究境物質的生産力の変化、経済機構の問題に帰せられる。まことに経済主義・経済至上主義である。こういう集団的、機械的、動物的、非精神的な時代に、これとは逆な人間の精神、個々人の霊魂の問題である宗教が閑却され、詩が生まれないのは当然である。
―漢詩読本より

13日 都会

俺たちは都会人だという一つの虚栄心、これが実に危ういということを指摘しておきます。そういう都会が非常に発達する。腫れ物がどんどん大きく化膿して行って、農村がどんどん荒廃していく。この現象、最初はそれが当たり前と思っていた。

所が何ぞ知らん、都会が発展するように見えるが、都会というもの自体は元来少しも発展するものではない。寧ろ都会というものは驚くべき勢いで没落して行くものであるということが段々分かってきた。都会が発達するように見えるのは絶えず周囲の農村から人間がその新鮮な生命力を注ぎ込むから始終発達するように見えるにすぎない。―経世瑣言より

14日 都会

近代文明、今日の特に都市生活は、余りに刺激が強い。あまりに雑駁である。そこで近代文明人、殊に都市人というものは、その刺激に負けて、神経がくたびれている。心身共に雑駁になつて、純粋な生命を失っている。

疲れ、とげとげしく、脆い。何とかもう少しこの文明人・都市人を雑駁な刺激から救って、純真なそして弾力的な、いい意味の柔軟な生命・肉体・精神・人格を回復しなければならなぬ、これが何より一番大切な、現代の革新原理であり、文化の復活であります。
―東洋学発掘より

15日 田舎

近代文明国においてはあるものはただ都人と田舎者だ。この区別だけだと、そこだ、今まさにそうなっておる。この中にあって、田舎がなんで陋か。田舎の方が質が文に勝っておつても、質は質だ。教えればいい。

この何陋精神が盛んになって優れた人々、進んでは達人に至るまでが農村に多くなるとき、その国は永遠に繁栄する。そうしてその力に依って都会もその過ちを少なくし、健全に発達して農村の根幹より開く葉となり花となり実となる。すなわち都市を都市たらしめる。この何陋精神は多いに振興したいものである。―陽明学十講より

16日

敏という一字をよく注意しましょう。何事によらず問題をいい加減にしない。キビキビ処理することであります。分からぬ文字がある。すぐ辞典を引く。人に聞く。途中で本屋にとび込む。間抜けない。頭をフルに働かせる。これが敏であります。

感情を美しくし、理想・情熱に燃えるようであれば、頭は使えば使うほどよくなります。そういう風に、我々の心がけで頭脳を働かせることを「事に敏」と申します。そして、物事に真剣に頭を働かせますと、だんだん本当のことが分かって参ります。
―朝の論語より

17日 理想精神

理想精神が旺盛であれば、人は進取に急であって、区々たる唯物的享楽に拘泥する暇がないのみならず、そんな享楽を潔しとしない。故にその社会も民衆の日常生活は必ず簡素であり、剛健であって、その上創造的生活の必然的理法で民衆相互義理人情を弁え、信念あり、節操がある。

平素の生活が簡素剛健のところへ、互いに義理人情を尽くして、創業に邁進すれば、自然に秩序は整い、産業興り、各人に経済的余裕も生じ、社会全般に美しい道徳的雰囲気と活気が漲ってくる、これが真の礼楽である。
ー政治と改革より

18日

気力、志気とはすなわち熱烈な理想をもって事に当たるというものであります。それが一時的なものでは駄目で、いつも変らないものでなくてはならない。

一貫性、永久性、そして、これが色々な問題にぶつかり、その時折れたり挫けたりしてはならない。人間は、常に志を持ち、理想を持ち、そして常に生活を創造していく。それには一貫性をもって、いかなる障害があっても乱れない締めくくりを持つことが大切であります。―運命を創るより

19日 逆境

逆境に立つと苦労するからどうやら人間になる、楽したらとてもろくなものにはなれない。少し好景気になると病院がすぐ満員になる。世の中が好景気になると飲めや歌えで自堕落な生活をするから、すぐに身体を悪くして病気になって冥土旅行が多くなるのである。

処が世の中が不景気になると飲み食いも碌にできないものであるから、自然に胃の腑も丈夫になり腸も快くなるる。ときどき不景気が襲来して人間を戒めてやらなければいかん。豊かな家に生れて乳母日笠で育ったらろくなものにはならない。―陽明学十講より

20日 苦悩と成功

ちょっと成功したからと言って、軽々しく得意になるような人間は、たいてい軽薄で、経験に乏しく、深く反省することをしないものです。人間は苦悩によって練られてゆくのでありまして、肉体的にも精神的にも人間が成長してゆくために苦悩は欠くことのできない条件であります。

そこで苦悩に敗れたらおしまいですから、過失や失敗のために取り乱さないように心がける必要がある。
自分の過失を知るということは、自己教育の最も重要な方法の一つであるとともに、人を教育する者の常に注意すべきことであります。
―先哲講座より

21日

独という文字は絶対を意味する、何ら他に俟たざることを独という。自分が徹底して自分に依って生きる、これを独という。人間と言うものは案外自己によらずして他物によつて生きておる。

たいていの人間は金を頼りにして生きておる、妻子を頼りにして生きておる、世間の聞こえを苦にして生きておる。そこで地位をなくした、首になつたというと、もうペチャンコになる、神経衰弱になる。とにかく何かそういう他によって生きておる。これを相対的生活という。―陽明学十講より

22日 一生

われわれの考えていること、行うことのすべてが雲散霧消することなく、深層意識の中に沈殿してゆくわけでありまして、しかもそれは悠久の祖先の生命につながるものである。だから遺伝くらい恐ろしいものはないわけで、その遺伝を我々は日々夜々行住坐臥つくつておるのであります。

自分自身というものは決して断片的に存在するものではなくて、この今日の自分自身は生は悠久の生命の流れの中に位置しておるのである。従って何が生じてくるかわからぬし、また自分の影響がいつどこへとどういうふうに伝わってゆくかわからない。だから「日々是れ好日」に生きるのが一番であります。
23日 若朽―じゃっきゅう

若朽を防止するには、我々は注意して絶えず何らかの新しい刺激と、それに基づいての精神的肉体的に活発な活動をしなければならない。この宇宙は大なる創造であり、変化であります。いはゆる造化です。絶えず何ものかを生み、そして千変万化してゆくのが宇宙の本然の姿であります。

従って我々の精神も生命もこの宇宙の本体に即して、絶えず何かを生み、絶えず何らか変化してゆかねばならない。これが我々の生命・精神の本能であります。そこで私共は生きる限り活発に常に創造的であり、常に微妙な変化が必要で、固定したり進歩が止まっては何にもならない。―祖国と青年より

24日 殻を脱ぐ

決まりきった生活をしておると、だんだん精神まで麻痺して来るのです。処が宇宙の本質はというと、無限の創造であり変化でありまして、人生や歴史というものは、やはり無限の宇宙と同じ無限の造化でなければならない。だから我々の生活にも絶えず創造力というものと、変化性がなければならない。

固まってしまったら駄目なのです。だから我々は絶えず伸びていこうと思うと、自己というものを豊かにどこまでも発達させていこうと思うと、絶えざる創造力変化力を持たなければならない。それには因襲的になってしまい、型に嵌ってしまわないように、注意する必要があります。―暁鐘より

25日

思考の三原則

ものを考えるに当たっての三つの原則

その一つは、目先にとらわれないで、できるだけ長い目で観察するということであります。
第二は、一面にとらわれないで、できるだけ多面的、できるならば全面的にも考察するということであります。
第三が、枝葉末節にとらわれないで、できるだけ根本的に観察するということであります。

物事を、目先で考える、一面的にとらえて観察する、あるいは枝葉末節をとらえて考えると、決して正しい考察は成り立たんと信ずるのであります。
―運命を創るより

26日 愛惜

人間は、常にいつくしみの心、慈心・仁心を養わねばならぬということです。キリスト教でいえば愛であり、仏教で言えば慈悲である。慈悲とは本当によくできた語ですね。悲の字が特に良い。人間は、物の命が無視され犠牲にされるのを悲しく思う。その物を愛すれば愛するほど悲しい。

だから愛という字を、かなしむ、と読む。愛することがなくては、悲しむことがなくては儒教も仏教もないのです。だから平生において絶えず物の命をいとおしんで、慈悲行を積んでおけば、やがて天地・人間を通ずる法にかなう。これが立命の大事な条件であります。―陰しつ録より

27日 自分に反―かえー

つまり人間というものは、何事によらず、先ず自分に反って、自分の道、自分の理、自分の法則に反って、良心・理性に反って、そこから考えて行動するのが一番だということであります。

それが反対に、己に反らないで、他に求める。それも自分の信ずる人、尊敬する人に求めるのであれば、まだ良いが、そうではなくて、とんでもない遠いところへ、地位があるとか、財産があるとか、というようなおおよそ内面性や公というものから遠いところー求める。これほど危ういことはない。―天地にかなう人間の生き方より

28日 悔改

一息でもこの世に存する限り、天にみなぎる悪をも悔い改めることができる。古人の中には一生悪いことをしながら、死ぬ際に臨んで悔悟し、一善念を発起して、遂に終わりを善くし得た者もある。これは一善念を発起して猛く励めば、それだけで百年もの長い

間の悪も洗い清めることができる、ということを言っておるのである。暗黒が深ければ、深いほど、一灯の値打ちが尊い。極悪人が一念発起懺悔すると、人一倍立派な人間になるのも道理であります。だから過は旧いも新しいもない、ただ改むることが貴いのである。運命と立命より

29日 忘の徳

一体人間に忘れるということのあるのは、いかにも困ったことでもあるが、また実に有り難いことでもある。造化の妙は我儘勝手な人間の到底窺知することのできないものがある。老荘者流は頻に「忘」の徳を説いているが、肩の凝

りを解くものがある。是非を忘れ、恩讐を忘れ、生老病死を忘れる、これ実に衆生の救いでもある。どうにもならぬことを忘れるのは幸福だとドイツの諺にも言っているが、東西情理に変りは無い。忘却ある処に記憶がある。それでまた妙である。―経世瑣言より

30日 知命・立命

人間は機械的になればなるほど自主性・変化性のないものになる。そこで自然界の物質と同じように、その法則を掴むと、それに支配されないようになるのだが、自主性をだんだん深めていったならば創造性に到着する。

つまりクリエーティブになる。自分で自分の命を生む。運んでゆくことが出来るようになる。つまり宿命というものにならなくなる。人間は学問修養をしないと、宿命的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問修養すると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。いわゆる知命、立命することができる。ー東洋哲学講座より

31日 人生は夢

おそらくすべての人が,或る年齢ある地位になって反省してみる時、自分がかくあるということは本当に夢である。人生は夢だと思う。本当にそうなのです。人間の因果律的な考え方から言うと、本当に人生は世界は夢なのです。

だから、人生社会の複雑な問題、微妙な問題ほど、非常に謙虚に、慎重に取り扱うべきであって、自分のいい加減な頭をいいものだと心得て、簡単に割り切って行くということは、これくらい危険なことはない。それでいつでも、いわゆる頭のいい者が揃ってこの世の中を乱すのです。とかく、秀才事を誤るというのはこれなのです。―暁鐘より