安西 果歩
あなたは、今居る自分のすぐそばに、悪魔がそ知らぬ顔をして立っているのが分かりますか?
悪魔はあなたのまわりにすっかり馴染んでいます。大きな悪魔でなければそうであるほど、小悪魔を確認することは難しいでしょう
悪魔は人を惑わせ、人生を狂わせ、ときにはその人の命を絶つこともあります。
私は、そんな小悪魔が近づいていることを
見抜くことができず、虜にされてしまいました。
その疑惑は一本の電話から生まれた。
夫と二人の子供達がそれぞれの勤めに家を出て、私はやっと至福のときを得る。
レモネードか時にはアールグレイの紅茶を入れて、チョコレートかクッキーを食べるというのが私の朝食である。
若い頃はトーストとコーヒーというのが常食であったが、最近はトーストの大きさが煩わしい。
今朝は、常に不機嫌な夫がいつもに増して無愛想な顔で出勤していった。
昨日からの長男のトラブルにいまだに拘っているのである。
「あれは、まさにムーンフェイスという病気顔だ。あいつは、おまえの言う通り鬱病に違いない。仕事などできる筈はないのだ」
と、昨夜私にあたりつけるように言った。
昨日、仕事から戻った長男が仕事を辞めたいと言い出したのだ。人間関係がうまくいっていないというのがその理由だった。
長男は三十一歳になる。これから結婚もしなければならないし、いちばん大切なときに躓くとは、と私もがっかりした。
しかし、今の時代ではよく聞くことである
ただ、うちの子もそうなのかと少し口惜しい思いをしたが、今朝も夫より早く起きて食卓に向かっていたし、まだどうなるものかわからない。それなのに、夫はもうそのことに拘り始めていた。逆境に慣れていないのだ。
ものごとを極端に結論づけ、驚くような表現をするのはいつもの癖ではあるが、私はそんな夫にうんざりする。男として夫としての魅力がなくなってしまうのだ。
そんな夫の不機嫌顔を思い、それでもアールグレイの紅茶に似合ったチョコレートを口にほおばると、何事もどうでもいいような気持になってぼんやりテレビを見ていた。
そのとき、中川千代の電話がかかったのだった。
「夫が死にました。ガンだったのです。私、これから四国の祖母の所へいきますから。しばらくは連絡できませんが」
千代はいきなりそんなふうに話し始めた。
「まあ、ご主人が亡くなったの。どうして」
一月ほど前に千代は自分の夫が変態なのだということを訴え、泣きながら私にどうにかしてくれと言ってきたばかりである。
「癌だったの?そうだったの。そんな重病だったので、無茶な要求をあなたにしていたのねえ。あなたご主人の病気を知っていたの」
と訊ねながら私の胸の中で何かが騒いでいた。
しかし、話しかける私の言葉を彼女は迷惑そうにさえぎって言った。
「私、四国に行って落ち着いたら必ず連絡しますから。住所はそのときに」
あきらかに私と話すことを避けていた。千代はそういうと電話を切ってしまった。
千代は私に詮索をして欲しくなかったのだ
それでいて連絡をしてくる。黙って私の前から消えてしまえばよいのに。
そのとき私の心のひと隅に小さな疑惑が生まれたのだった。
前回の電話では、千代の夫がサディストで最近はその程度がひどくなり、このままではいつ自分が死に至ってもおかしくないほどなのだと、つぶさに生々しく訴えていたのだ。彼女の声は震え、ときにはヒステリックに高く、また話の途中で何度も嗚咽をした。
「私の性器はぼろぼろです。このごろそっちばかりいたぶるのです。私はもう子供をつくれない体になりました」
と泣いた。
「ベッドの上の天井からロープを繋いであるんです。私を縛るためです。私の性器に水を入れておいて、おねしょをしたと折檻するのですよ」
そのすさまじい言葉は耳を覆いたくなる程で、千代に言わせ続けることが罪のようにさえ思われた。すぐ千代のもとへ行き、彼女を
抱きしめ、苦しみを取り除いてやりたいと思った。
「原島さんには分からないでしょうけれど。首を締めなくても人は殺せるのですね。私は何度も死にそうになりましたから」
と千代は言う。そんな秘密事を打ち明ける千代が気の毒で、
「私にできることはあるかしら。今から行きましょうか」
と言ったがその必要はないようだった。
そのとき私は、これまで一年半もつきあっていて、千代の状況がそれほど酷いことになっているのだということを知らなかった。
つい先日も金の無心をしてきて送金したのだが、それについての礼すらなかった。あの時も千代の行動は異常であったが。
だいたい彼女は突発的にいろいろなことを私に伝えることが多い。
私が千代と初めて出会ったのは、社会保健センターで開かれているダンス教室であった
私は鳥取市の郊外に住み、千代は市内の住宅地に住んでいるようであった。
午後一時から二時半までという時間帯が孫を預かっている高齢者たちにも参加しやすいため、六十歳前後の人が多く参加していた。
そんな中で、千代は三十歳で、もっとも若い参加者であった。
背が高く、プロポーションはかなり綺で、顔も整っていた。
だが、運動は苦手なようで、ダンスのステップはよく外すし、私より先に入所していながらステップの種類を覚えようとしないようだった。数あるステップの種類をいくつも踏めなかった。そのため男性からはあまり相手にされていないようであった。
服装もトレーニングウェアーで、夏でも手首足首、そして首までハイネックのウェアーでガードしていた。
スポーツダンスだと言っても、多くの人が洒落たダンスウェアーを身に着けている中で彼女は暗く重い存在であった。
私達は教室が終るとちょうど三時のティータイムになることもあって、近くの喫茶店に仲間達で繰り出すことが恒例になっていた。
その日も会員達はいつもの喫茶店で会う約束を口々に言いあって、それぞれ車や自転車
で社会保健センターを出て行った。
私はその日教室の講師と話があり、彼らには遅れて駐車場に行った。
それを待っていたかのように中川千代が近付いてきて言った。
「いつも皆さんお茶タイムされるんですね」
私はそのとき、千代がいることだけは目にとめていたが話し掛けられるとは思っていなかったので少し驚いて言った。
「そうよ。それが楽しみでダンスに通っている男性もいるくらいですもの」
「いいですね」
「あなたも参加すればいいのに。今日いらっしゃいよ。私の車で行きましょうよ」
私は彼女が自家用車で来ているとは知らずそう誘った。
「原島さん、他の店に行きましょうよ」
千代は私の誘いに返事をせず、かなり無作法に言った。
「あら、他の店に行きたいの。でも、皆は待っているかもしれないし」
私は彼女の誘いにのりたくなかった。
「私、原島さんに相談があるのです」
千代は私の気持が分ったようで用件をはっきり言った。
「相談?私に?まあ、そうなら仕方ないわねあなたに付き合いましょう」
私は仕方なく彼女とお茶をすることにした
「喫茶店の駐車場が狭いので、私の車に乗ってください」
と、ここでも彼女は自分の都合を主張した私は車をセンターに置いていくことにした。 センターの駐車場も広くはなく、本来教室が終った車を置いておくことは禁止されている後が面倒だと思いながらも私は千代に従った
千代が案内をした喫茶店は、センターから近く、かなり古くからある店のようだった。
「懐かしい匂いだわ。ずいぶんアンティークなのねえ。こんな昔風の喫茶店があるなんて知らなかった」
私は千代に誘われたときの重い感情が少しだけ和らいだ。
「こんな店、前から探していたのよ。近頃東京にもなかなか無いのよ。純喫茶って、音楽がいいのよ」
気がつくと千代は迷惑そうな顔をしている
私がセンチメンタルな感情に浸っていることが面白くなさそうだった。
「とにかく、何か注文しましょう。コーヒー二つお願いします」
と千代は奥のカウンターに向かって大きな声を出した。
「あ、待って。私、コーヒー駄目。すみません、一つは紅茶にして」
私は慌ててカウンターの前にいたウエイトレスに声をかけた。
「わたし、急ぎますので。三時半には戻っていないといけないのです」
千代は私のゆとりが気に入らないようだ。
私は私で少し腹がたった。せっかくのお茶タイムを私だけ連れ出しておいて、ゆっくりお茶もできないなら、立ち話でもよかったではないか、と瞬間顔がこわばった。
「だって相談があるのでしょう。簡単に言えることなの」
感情的になった私は責めるように言った。だが千代は怯むこともなくの、むしろ冷静に話し始めた。
「そうですね。急ぎますからね。実は私、この町を出たいのです。出るというより、逃げたいのです。原島さんは東京の出身ですよね誰か知り合いを紹介してくれませんか。私を匿ってほしいのです。正確には私と娘ですけれど。他の場所でもいいのですが、東京が一番隠れやすいと思うのです。東京で私たち親子を匿ってくれる人いませんか」
あまりにも唐突な内容で私は言葉が浮かばなかった。
「どなたかありませんか。同棲する男の人でもかまいません。それが条件なら私、かまいません」
黙っている私に、さらに驚くようなことを
千代は言った。
「ほんとうに。誰か紹介してもらえませんか私東京には友人も親戚もいませんし」
そこまで話した時千代は急に何かを思い出したように、席をたった。
「もう時間がないわ。またお電話します。私のコーヒーも飲んでください」
店のカウンターの隅にある公衆電話の受話器を置く音がして、戻って来た千代が言った
「え、もう時間なの。ちょっと待ってよ。私どうやって帰るの。ここどこ?」
「センターから近いですから。では」
慌てる私を気にするふうもなく、千代は大股で店を出て行った。
まだ飲み物もなく、勘定書きもきていないので仕方がなかったのかもしれないが、自分が誘っておいて会計までさせる無神経さに、
私は腹が立ち、二度と付き合う相手ではない
と自分に言い聞かせた。
私はよく、お人好しだとか偽善者だとか言われることがある。最近は、私のように自分を忘れて他人の為に尽くし、他人が喜ぶ姿を
見ることで自分のストレスが解消されるという症候群があるそうだ。すっきりしたい為そんな相手をわざわざ探し出すのだそうである
そんなことをテレビで見ていた私は、共通項を持つ人がいることで安心したり、私はそんな病気ではないと自分を弁護したりしてる
しかし、たった今の千代の相談を考え、すでに彼女の事情に考えを廻らせている自分に気がつき、口も付けていないコーヒーを恨みがましく目の隅に入、会計を済ませると店の外に出た。
センターまで歩きながら、千代は時間もないのに私を誘い、初めから私を喫茶店に置き去りにするつもりだったことを考え、彼女の厚かましさを思った。千代のようなタイプの人間とは以前にも関わり、嫌な思いをさせられている。これ以上の関わりは持たない方が無難だと思った。
今からダンスの仲間に合流することもできたが、私は気が滅入り始めていた。気が滅入り始めたら、私の危険信号なのだ。私の心の中で、助けることの喜びと、偽善者になるなとたしなめる心とが戦い始めている証拠だからなのだ。
私は東京にいる人達を思い出し始めていたこの土地へ来るまで五十二年間も暮らしていたところだから、知人、友人親戚等多くあるが、千代の望みを受け入れられる人は思いつかない。若い親子の面倒をどのように見ると考えるべきなのか。
とりあえず家に戻って、何軒か相談できそうな人を探し出してみようと考え、センターの駐車場に戻った。
自分の車に近付くにつれて、三、四人の男女が私の車について話しているようなのが分かった。
「おたくの車ですか」
年配の管理人が私に言った。私は、しまったと思った。やはり時間外の駐車を咎められたのだ。
「はい、そうです。あの」
と謝ろうとしたとき、また管理人が言った
「この方がね、こすってしまったらしいですよ。でもね、この車大きいし」
私は胸をなでおろした。そして言われるままに車のバンパーを見た。
「この辺だと思うのです。ほんとにすみません。運転が未熟なもので」
年配の女性が恐縮した顔で言った。よく見ると、前部ライトの近くのバンパーにかすり傷はあるが、これは以前夫がこすったものではないかというものであった。同じ位置をこすったようである。
「これは以前からあるものですから。どうかお気にされずに」
と言った。私にしてみれば違反駐車を注意されずにすめば、はやく解放されたかった
運転席に入りほっとして車を発進させたが千代の呼び出しがなければ起きなかったトラブルだと思うと、この先が思いやられた。
その夜、千代から電話があった。
「原島さんのお宅に使っていない離れがあるって話していましたよね。そこに住まわせてはもらえませんか」
またまた思いがけない話である。何時の間にそんな話を聞いていたのだろう。
「さっきの話なのね。そんなに緊急なの?ちょっと待って。ずいぶん急なことだし、私、まだあなたをよく知らないのよ。あなただってそうでしょう」
私は、窓からみえる古い離れに目をやりながら、千代の要求を受け入れそうになる自分の心を抑えていた。
「ああ、そうですね。私、もう、主人のことが恐ろしくて。慌ててしまったのです。以前から原島さんのことは心の広い方だと思っていました。私のことなど打ち明けられる人などいないのです。今日はなんとか、やってみますから、また電話します」
千代は早口で言うと電話を切ろうとした。
「あの、ちょっと待って。ご主人とのことなの?とても大変そうねえ。もしよかったら今
こちらへいらっしゃいよ。ゆっくり話をききましょうか。離れも見てごらんなさい」
私は慌ててそう言った。だが千代は、
「今はちょっと。主人が帰ってくるかもしれないのです。明日ではいけませんか。よろしくお願いします」
と言って電話を切った。
しかし千代はその電話を最後にこの町から姿を消したのだった。ダンス教室にも、私の前にも現れることはなかった。
次に彼女が私に関わりを求めたのは、その半年ほど後のことだった。
ダンス教室の仲間から彼女が長野県にいるという話を耳にした。
「あの、ちょっと気難しい人がいたでしょう綺麗で若いのに、暗い感じの人。あの人のご主人は国家公務員だったのですって。急に辞職して、長野県に引っ越したのですって」
いつものお茶の時間に話題になったのだ。千代の親と知り合いの女性から出た話だった
私の思考力と判断力は止まっていた。千代の話だと気がつくまでに時間がかかった。自分の記憶に自信が持てなくなった。あの電話は妄想だったのか。
私は千代のことを心配していたのだ。いつか離れに住むのだと思っていた。離れの屋根の塗り替えまで考えていたのだ。
お茶会の話題が合図であったように、数日後千代から電話がかかってきた。
「すみません、黙って引っ越して」
千代は親しみを感じさせる声で言った。そんな彼女の声とは逆に、
「あなたが旦那さんから逃げたのだと思っていたのだけれど」
と私は千代を責める口調になった。
噂を聞くまでは、心のどこかで千代は私の助けを待てずに自力で隠れたのだと思っていた。が、あの噂で、千代が夫とともに引っ越したということを知り、私は彼女の行動の意味が分からなくなっていた。
「ご主人と一緒なの?どこに住んでいるの。長野県に行ったと聞いたわ」
電話の第一声はなんとなく温かいものを感じたが、私の声を聞いた後の千代は押し黙り冷たい表情で顔を緊張させている様子が伝わってきた。
「え、誰ですか、そんなこと言うのは。私、
誰にも話していませんけれど」
「あなたのご両親が近くにいらしたのではないの。そこから聞いた話らしいわよ」
受話器の向こうで千代が息を飲んだ。
「あの、またします」
小さな声でそれだけ言うと千代は電話を切った。
千代は何故か彼女が長野にいることを知られたくなかったようだ。
私は謎の多い千代に振り回されるのは嫌だった。何も知らせずに電話を切ってくれたのを幸いに、彼女との関わりは持つまいと決めた。
ところが翌日の夕方、千代から電話がかかってきたのだ。
「一度こちらに来ていただけませんか」
秋も終わりの頃だった。夕飯の仕度で忙しいさなかだった。
千代の話しは挨拶もなく始まった。
「どこに行けばいいの。私あなたの住所も知らないのよ。ほんとに、いいかげんにしてよ
だいいち、何のために私があなたのところへ行かなければならないの」
もっと嫌味を言って断ろうとするのを察してか、千代は静かな声で、
「あの、松本の駅でいいのです。お迎えに行きますので。ホームで待っていて下さい」
と言った。こちらに断る隙を与えないのだ
私はとうとう松本まで出かけた。私の住む鳥取市からは、非常に行きにくい所である。
私は名古屋まで飛行機に乗り、そこから列車で松本まで行った。
駅に出迎えていた千代は明るく、大輪の牡丹の花が咲き誇るような感じで立っていた。
「ご無沙汰しました。みなさんお元気ですか
とにこやかに挨拶をする千代からは、鳥取にいたときの彼女を想像することができなかった。大柄な彼女は私を見下ろすようで、誇らしげにさえ見えた。
ところが、二人が駅を出て、彼女の運転する車に乗り、走り始めると様子が変った。
「もうご存知でしょう。私、誘拐されたのです。拉致されたのですよ」
と、話しが始まり、千代の夫の仕打を縷々訴えたのだ。
「それで、私に出来ることが何かあるの。それともあなたの話を聞いて帰ればいいのかしら。こんな遠くまで来たのよ。宿はとってあるのかしら」
車はどこを走っているのか、私には見当もつかなかった。すでに一時間以上走っているだろう。秋の日暮れは早く、山に囲まれた村の家々の灯かりが心細さを誘う。
「はい。旅館はいくらでもありますから。今案内しているところです」
と千代は前を向いたままで答えた。駅の近くの喫茶店にでも行くのかと思っていた私は
早くお茶の一杯でも飲みたいと考えたが、彼女の言葉に心を鎮め、いっときも早く旅館に着くことを願った。千代が話すおどろおどろしい話に、自分が拉致される錯覚さえ覚えていたのだ。
それから三十分ほど走って、ようやく温泉場のような集落に入った。温泉場といっても旅館は一軒だけのようで、露天の温泉がいくつかあるようなところである。
その一軒しかない宿の前に車を止めると千代は私に降りるよう促した。
「お荷物は持って降りてくださいね」
そう声をかけると千代は先に玄関に入った
出迎えた女将らしき女性に何事かささやくと、私には挨拶もなく出て行こうとした。
「ちょっと待って千代さん。あなたも来るのでしょう。車を置いてくるの」
私は慌てて千代を呼び止めた。しかし千代はかすかに頭を下げてそのまま車に乗り込んだ。発進する車のテールランプが異常に赤く光って見えた。
「あの方はこの宿とは親しいのでしょうか」
私は千代がなにごとか囁いていた女将に言った。
「はい。あの方のお父様が親しくご利用下さっていて、私どもとは心安くしていただいておりますよ。どうぞ今夜はごゆっくりされてください」
とにこやかに応えながら女将の所作にはそれ以上の愛想もサービスも見られなく、ひとつの部屋に通された。
「立派な旅館なのですねえ」
「ありがとうございます。どなたにもお泊りいただくという旅館ではございませんので、あまり知られてはいませんけれど」
女将はそう言いながら、こまごまと客の接待をし終わると丁寧に挨拶をして部屋を出て行った。
風呂も部屋つきのものしかないようなので
私は宿の料金が心配になった。持ち合わせはそんなに多くはない。支払いの時に、銀行に行って来ますと言うわけにもいかず、近くに銀行はないようだった。
まったく特殊な宿であり、今夜の泊り客はないようだ。だが私が泊まっているのだから
私の接待があるだろうに、料理の匂いも音さえない。
しかし私は自分自身にも驚いていた。こんな宿にきていても、心が金縛りにあったようで、恐ろしさも不気味さも感じないのだ。ひとごとのように落ち着いた心でいた。
そして、さっき女将が湯加減を見て行った風呂場に入ってみた。
木の香が強い。心身が癒されそうな風呂の湯気を顔に纏って、私はすぐ風呂に入るつもりになった。森の妖精にでもなったような気分で、湯につかりながら、千代が話した恐ろしい出来事を物語でも読むような気分で思い出していた。
あのとき私はたしかに心を奪われていた。
千代が話す現実は口にするのも忌まわしいことなのに、ちっとも嫌ではなかったのだ。
風呂から上がると、山の懐石膳が始まっていた。それは、質素に見えながら十分手のこんだ料理であった。懐石、それはちょっと小腹を満たせばよい料理だという。山の料理だが、鯉や鱒などを丹念に料理して、けっこう満腹することができた。
テレビもなく、ひとりきりで冬山の小屋に閉じ込められたような私だったが、心安らぎ怒りの気持がどうしても湧いてこなかった。
それにしても千代の行為がどうしても解せなかった。
「原島さんの言葉や声を聞くと生き返るのです。元気がでるのです。私には原島さんがついていると思うだけで安心なのです」
と千代は言った。それは嬉しいのだが、それだけなのだろうか。
車に乗っている時は、千代と夫の夫婦生活の異常さを訴え続けた。
「もういいわ。よく分かったから。それで、私にできることがあるのかしら」
私がそう言って千代の話を止めても、彼女の口からは、呪文のように訴えがきりなく続いた。それなのに、私をこの宿に置くと、説明もなく姿を消したのだ。
とうとう翌朝千代は宿に来ることもなく電話もかけてこなかった。
私は迷った。この宿にはパンフレットというものがないのだ。隠れ家みたいな宿で、備え付けの宿の使用書らしきものもない。
いったいここはどこなのか。
私は、次の間に朝食を揃えている女性に訊ねた。
「あの、車の手配をお願いしたいのですが、ここは松本市になるのでしょうか」
「はい。お車ですね。何時ごろにいたしましょうか。ゆっくりなさいますか」
と、女性は配膳の手を休めずに言った。この場所を尋ねているのに、位置を答えようとはしなかった。
「食事が終ったらすぐ出ますので、お支払いの方も計算をお願いします」
私はこの宿が普通の宿ではないことを悟って、それ以上の詮索はやめることにした。
支払いは思ったより安く、示された三万円というメモを見て私はその通りに支払った。
とうとう千代は姿を現すことがなかった。
松本から帰り着いたとホッとした頃、千代から電話があった。
「少しは寛いでくださいましたか。静かな宿でしたでしょう。一度原島さんに泊まって頂きたくて。お好きでしょう、あんな宿」
みょうに明るい嬉しそうな声だった。
「まあ、私を松本まで呼んだのはその為だったの。ええ、面白かったわ。でも、あなたの話があまりにも非現実で、落ち着かなかったわ。もう少し一緒にいたらよかったのに」
「ええ、でも、そんなゆとり私にはないのです。ではまた」
電話の初めの声とは違い、事務的な声で言うと、千代は電話を切った。
松本にはその一回しか行っていない。千代と会ったのもそれが最後であった。松本から戻ってすぐの電話でも、電話番号も住所も私には伝えなかった。
しかし、それから電話は決まって月に一度だけかけてきた。その内容は一月ほど前と同じような話で、胸がむかつくようなものだった。そして、千代の話し方にはまったく現実性がなく、自分自身の身に起こっている辛さ苦しさ、痛さ悲しさなのに他人事のような話し方であった。
それは、話すことにより、現実をまるごと私に投げかけ、私の方が苦しみ悲しむことを千代は離れたところから、または高いところから冷たい目で眺めているというような様子である。
これは彼女の心の闇なのだ。私はそう思った。あまりに理不尽な自分の人生をどうすることもできず、こんな形で息を繋いでいるのだと思った。
私は自分の至福の時間を邪魔した千代の電話に腹を立て、疑惑を抱いた。
千代の夫の死が癌であると聞いたための疑惑であった。
つい一月前にいつもと同じ夫のサディズムに苦しむ訴えをしていたのだ。何故死の原因が癌なのだろうか。
だが、千代の心の闇を作り出している彼女の夫が亡くなったという知らせは私の心を解放することでもあったのだ。
私は心が軽くなった筈だった。
息子のこと、夫のことも負担にはならないようで、その日からまたいつもの日々が始まっていた。
小さな疑惑の粒を心に持ちながら、家族との暮らしの安泰に気持を注いでいた。
そして年が明けたが千代からは何の連絡もなく、私は彼女のことを忘れかけていた。
そんな時、ダンス教室の仲間たちがそれぞれに千代から貰った年賀状の話をしていたのだ。
「彼女ね、こんど新しい仕事を始めるらしいわよ。それに、家も建て替えるって。今の家はおばあちゃんの古い家らしいから」
「そうそう、旦那さんの保険金が下りたら建て替えるから遊びに来てって書いてあったわよ」
「ヘルパーの資格をとるのだってね。おばあさんを看るためにですってね。偉いわね」
と情報を交換している仲間たちを見て、私は驚き、不愉快になった。
「ねえ、千代さんて、引っ越したのでしょう
みなさんは彼女の住所ご存知なの」
私は思わず口を挟んだ。
「あら、四国にいるわよ。私、四国の住所で出したら返事がきたのよ」
一緒にいた数人が大きく頷いて、いっせいに私の顔を見た。私は意味も無くますます腹が立った。
なぜ私にだけ音信がないのだ。私にこそ伝えなければいけないのではないのか。
たしかに、これといって彼女と付き合いがあったという証拠はない。千代との付き合いは水面下で行い、他の人にしられてはいない
彼女の気持の中で否定されればそれまでだ。
だが、一度だけだが十万円という金を送っている。
その時千代は私に
「あの、主人が仕事を探さないのです。娘が学校に行くようになってお金が必要なのに。原島さん十万円送って下さいませんか」
と電話をかけてきた。その前には千代の夫は公務員を辞めたのではなく、転勤で長野にきたので、住まいも公務員住宅に住んでいると言っていたのだ。
「え、ご主人役所を辞めたの?いつ?だったら今どこに住んでいるの」
「だから、これから言いますから。そこに送ってください。厚かましいのですけれど、借りるのではなく、頂けませんか」
千代はいつもの電話の話題に、さらりと言ったのだ。私は彼女の話し方にしたたかさを感じ気分が悪かったが、言われるままにその宛先に金を送ったのだ。
私はつい最近まで公務員をしていて退職し
年金を貰えるようになり、退職金と年金で自由になる金があった。
だが、その後の話の中でもそのことについては礼の一言もなく礼状もなかった。
私は千代から年賀状を貰ったというダンスの仲間たちに、千代の住所を聞くことも嫌だった。
私はいつも不快げな夫と心を病んでしまった息子の世話で、少しヒステリックになっているのかもしれない。千代の気まぐれは今に始まったことではないのだ。千代が誰と付き合おうが、私を無視して誰を招待しようが、
良いではないか、私を避けたいことがあるのだ。千代が私を忘れていない証拠なのだ。
そして千代からはなんの連絡もなく二年が過ぎていた。
息子はやっと勤めに出始めたが、今度は夫が定年で家に居るようになった。だが、夫が家にいることはかえって私が出かけやすくなり悪いことではなかった。仕事がなくなった夫は気楽になり機嫌がよくなった。食事の文句もなくいたって気楽な友達夫婦になっていた。
ゴールデンウイークも終わり、ダンス教室に生徒が戻ってきた。にぎやかな会話の中に
千代の家を訪ねた者の話が耳に止まった。
「中川さんて、あの四国に引っ越した千代さんのことなの。ほんとに四国だったのね」
私は千代が音信を絶った最後の電話で抱いた疑惑を脳裏に蘇らせていた。
「夫が癌で死にました。四国の祖母のところに行きます」
あの時私は千代の夫が癌で死んだということに疑惑をもった。その一月ほど前まで、夫の変態の異常さを訴えていたのに、千代は夫が病気であることは言わなかった。まして癌に侵されているなどとは一言も言っていない心不全と聞いたなら私も疑惑など持たなかっただろう。
「そう。この教室に来ていた千代さんよ。とても素敵な大きい家を建ててね。初めはおばあさんと住んでいたらしいけれど。おばあさんは家ができる前に亡くなったのですって。だから、せっかく千代さんが介護の勉強していてもあまり役にたたなかったって言っていたわ。でも、これからは役に立つわよねえ
私はどこか話がうますぎる感じがした。私はいっさい聞いていない。千代はなぜ私だけをのけ者にするのだ。
私は千代に対する怒りで胸がいっぱいになった。だが私はこのことが千代のねらいであることに気がつかなかった。千代は私の心を弄ぶことに喜びを感じているのだと気がついたのは後のことであった。
千代の本性を暴いてみよう。きっと私に知られることを恐れている事がある筈だ。私はお人好しではない。千代の夫の死だけでなく四国での生活にもあやしいところがあると思った。それらをはっきりさせてみよう。
そう思った私は、千代の家を訪問したという女性に住所を教えて貰った。
私は夫と息子に四、五日旅行に出ることを告げ、承諾を得た。
まず、高松まで行き、駅から電話をかけ高松ホテルをリザーブした。
私はそのまま丸亀方面の列車を待つためホームを移動した。
そのとき、私は一瞬千代の姿をとらえたのだ。おやっと感じたのであって、確実に彼女であるとは思わなかった。
しかし、まばらな人の数人先に横顔を見せている女性は確かに千代であった。
その大柄なプロポーションも、やや大きめな美しい顔。ほとんど表情のない顔の様子は私が感じてきた千代の姿であつた。
私は思わずその場を離れた。千代から見つけられるのは困ると思った。
列車が入るまでなるべく千代から遠く、身を隠すようにして立っていた。
車両を変えて乗り込み、千代のゆくえを見定めてから通路側に席をとった。
千代は窓側に座ったのでこちらから様子はまったく分からない。
緊張して次の駅まで過ごした。千代は降りなかった。私が持っている住所では、この駅で降りる筈なのだ。最寄の駅は宇多津となっている。私は列車の連結の所に移動して千代を見張った。どこかへ寄り道をするのだろう
とうとう、丸亀まで降りず彼女は駅に着いてから、落ち着いた様子で席を離れた。
私は慌てて降り、千代の後をつけた。住所は分かっているのだ。あとを着ける様なことをしないでもよいのにと思いながら、私は彼女に見つからないように後をつけて行った。
しかし、千代は駅の近くの駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。慣れた調子で運転して出て行く千代を私は見失ってしまった。
私は予定通り飯野町に直行しようと、駅のタクシーに乗って千代の住所を告げた。
「新しく建った大きな家ですよ」
運転者は目的地に近付くと言った。
「まあ、よく目立つ家ですから。すぐ分かりますよ」
車は讃岐富士と言われる形の良い山を正面に見て止まった。
私の心には一気にさまざまな思いが浮かび頭の整理がつかず言葉にならなかった。
それほど千代の家は異常に思えた。
小さな城のような、若者が利用する東京郊外のラブホテルのような建物であった。
讃岐富士を遠景に前面に広がる農村の盆栽的日本の風景とはまったく似合わないものであった。むしろ、建物の中心に突きあがるように聳える塔のような部分は、周囲の自然を憑き壊し砕けた木々の命を睥睨するような、そんなすさまじさを感じさせた。
「何これ」
私は呟いてただ立ち尽くしていた。
「この色。どうしたというの。こんな家を建てるなんて、この村の人が気の毒だわ」
それが私の気持だった。
「狂気だわ。こんなことするなんて。どうかしているわ」
私は自分のつぶやきを止めることができなかった。
「驚いておられますか。八重さんはこんな家に住まなくてよかったですよ」
と声がして、振り向くと私の近くにひとりの老婆が立っていた。
「ああ、あの千代さんのおばあさんのことですね。おばあさんは亡くなられたのですってね」
私はまだ気持がおちつかないまま老婆に応えた。
「これが千代さんの建てた家なんですか。千代さんには子供さんもいますよね」
「ああ、一人女の子がいます。八重さんのひ孫とか言っていました。最初は八重さんも喜んでおりましたよ。長い間一人で暮らしていましたから。でも、すぐに元気がなくなって
若い人がきたので気が緩んだのかと思っていましたが、そうではなく、千代って女の実験台にされていたようです」
「実験台?」
恐ろしい建物を見ている私はもうその言葉だけで足が震えてくるのを感じた。
「あの女は介護士という仕事の勉強を始めたようで、その勉強の実験台だそうです。八重さんがそう話していました」
「まあ実験台なんて言うからびっくりしましたけれど、千代さんもおばあちゃんで実践ができて良かったのではありませんか」
私は少し落ち着いてきてそう言った。
「でも、大変だと。夜中に便所に三度も四度も連れて行かれて。眠ったばかりで、目があかんですと。あたまがふらついて。シッコは出やしませんと。水もくれんそうで。八重さんは血圧も低かったですから」
老婆の話すことは私にもよく分かった。
「八重さんはおいくつでしたか」
「九十歳になるところでした」
「まあ、それでは耐えられなかったでしょうね。亡くなられた病名は何でしたか」
老婆は分からないようでただ首を傾げていた。そんな老婆の目がふと止まった。
老婆の見つめる先に千代がいたのだ。千代は車から降りて二人が居る方へ向かうところだった。
私は振り返り千代を見た。
「ああ、千代さん、お久しぶり」
千代も声をかけられて私に気がついたようだ。不自然なかっこうで会釈をした。
この人はいつもこうだ。私に対して何か対策を考えているように構えている。
「お元気だったのね。いろいろ大変でしたね
私は彼女の夫の死に続き祖母の死で苦労しただろうと、労いの言葉をかけたつもりだった。ところが千代は私の顔を見て、
「何か大変なことが起こったのですか」
と言ったのだ。
そう言いながら老婆を一瞥したので、老婆はそそくさと去って行った。
「よけいなことを」
と老婆の背にむかって言いながら千代は私に挨拶もなく立っていた。
「私ね、高松ホテルに予約してあるのよ。そっちの方で夕食を一緒にしましょうよ。香奈ちゃんも一緒でしょう」
仕方なく私はそう提案をした。
ところが千代は表情を変えるわけでもなく
「あなたは、私のうちに来たのですか。何か御用でもあったのでしょうか」
と首を傾げたのだ。まるで人違いであるかのような態度であった。
「あなた、千代さんよね。鳥取にいた方ですよね。私は原島ですけれど」
「原島さんですね。はい。それで何か」
とりつくしまもない千代の言い方に、私の頭は混乱した。
「千代さん、私を知らないと言いたいのかしら。それとも、知っているけど何の用事で訪ねてきたのかと言っているの」
私は少しきつい口調で言った。
「存じています。でも、お呼びしたつもりもありませんし」
なんと傲慢な顔つきかと思った。
「お金を返してもらいにきたのです。生活に苦しいと頼むから差し上げたようになってしまった十万円だけど、こんなに豊かになったのだから返すのが当たり前でしょう」
私は思ってもいなかった言葉を言ってしまった。いや、思っていたのかもしれない。騙されるようにして奪われた金だ。私の気持が治まらなかったのは事実だった。
だがそんな私の唐突な言葉に対して、
「お借りしているものなんかありませんから
と千代は無造作に言った。私が心臓の止まる思いをして言った言葉に対して、千代は用意していた言葉のように感情もなく言った。
「まだ何か?」
そう言うとぼんやりしている私に背を向けて、千代は家の方へ歩いて行った。
私は今度こそ夢の中にいる気がした。
これは現実なのだろうか、ここはどこなのだろうと改めて辺りを見渡した。
私の住む村に似ていると思った。美しい景色だ。夕暮れは山や木々の姿がくっきりとして見える。
ただ大きく違うのは、ここは傷ついた風景だ。引き裂かれ踏み潰され砕かれた傷口をさらしてうめいている田園の風景だ。凶器は千代が建てた、田園に聳え立つ家だった。
「可哀想に。悪い人に狙われてしまったわね
と私は自分がしたことのように、この風景に対して謝った。
宇多津の駅まで三キロくらいだろう。歩けば小一時間かかる。だが私は歩くことにした讃岐富士を正面に見て来たのだから、反対に行けばなんとかなるだろうと考えたのだ。
来たときとは違う道になる。私は丸亀で降りた筈だ。そこからタクシーに乗った。だが住所は宇多津駅の方が近い筈なのだ。少し先に見える店舗をめがけて歩いた。
やはり三キロ歩くのは辛い、千代に会ったときのショックも大きいので、その店で車を呼んでもらおうと思った。
高松ホテルにチェックインしたのは七時になっていた。そのままレストランに行き夕食をとった。
初めに飲み物を注文して飲み終わった頃、やっと自分にかえった気がした。
料理の注文を終ってほっとしていたとき、ホテルマンがフロントに電話が入っているのでと伝えてきた。私は不気味な予感がした。
このホテルにいることを知っているのは千代だけだ。
「もう、着いていたのですね。部屋を片付けてから上がっていただこうと思っていましたのに。いつまでそこにいらっしゃるのでしょうか。ゆっくり話しも聞いていただきたかったのですよ」
私は何も言わずに受話器を置いた。
気分が悪く体のふらつきを感じた。
「おつなぎしてはいけないお電話でしたか。申し訳ありませんでした」
ホテルマンはそう言って私を支えるようにして席に戻した。
千代という人間は恐ろしい。私は近づくべきではなかったのだ。
私は食事をするどころではなく、すぐにホテルをチェックアウトした。
「申し訳ないのですが、会いたくない人にこのホテルが知られてしまいましたので、ここを出たいのです。恐れ入りますが、どこかホテルを教えて下さい。夜になっていますから
こちらから連絡いただけるとありがたいのですが」
さっきのホテルマンに頼んだ。彼は快く他のホテルに予約をとってくれた。
私はさっそくそのホテルに移り、ようやく気持が落ち着いた。
今後、千代はどんな態度に出るのだろうか
このまま黙っているようには思えない。やはり千代はおかしい。
千代には秘密がある。誰にも分かる筈は無いと思っているが、私に話し過ぎた過去が気になるのだ。
私から逃れるために四国に来たのだろう。しかし、それならなぜ、夫の死や四国に住むことを私に知らせ、私と触れ合うことのあるダンスの仲間に知らせているのだ。無防備なのか、私に知られることを望んでいたのか。
どこかおかしい。彼女の心の闇がみえる。
私は翌朝、羽田経由で長野に向かった。
近づくまいと決めたのに、確かめずにはおれない気持ちがどこからか起こってくるのだ
ただひとつだけ千代の手がかりが残っていた。十万円を送ったときのアドレスだった。 私は長野市内にあるその住所に向かった。
県営の団地のようだ。
最近は個人情報の漏洩を用心して、情報を得ることがとても難しい。
直接その地まで行った。
C―11―402という建物を見つけた。たしかにあるのだが、隣近所が皆留守のようで、千代に関する情報が得られない。
集会所という看板がかかった建物の前に出たが、中にも近くにも人は見かけられない。
近所の商店といってもスーパーみたいな店ばかりで、最近は酒でもその中で買えてしまうので、千代について情報を得ることは無理だろう。スーパーで何か事件が起きていないか。などと考えてあたりを見回したとき、
近くの砂場で子供を遊ばせている女性の姿が目に止まった。私は近づいて行き声をかけた 若い女性だし、まわりのことに関わりのない暮らしをしている人ではないかと思いながら
「ちょっとお尋ねしてもよろしいでしょうか
この団地にお住まいですか」
と声をかけると、女性は少し警戒をするような表情をして私を見たが、
「はい、なんでしょうか」
と、意外にくだけた様子で応えた。
「あの、ご存知かしら。二、三年前なのよ。402に住んでいらした方のこと」
「え、c―11号のですか。中川千代さんのことかしら」
女性の口から思わぬ名が出て私の心は飛び上がる思いがした。
「そうそう、ご存知でしたか」
「私、向かいの部屋に住んでいます。変った方でしたから、あまりつきあいはありませんでしたけど、ご主人が突然亡くなられて。そのときにはお世話をしましたよ」
こんな都合のよい人にめぐりあうとはと私は、自分の決心に自信を持った。
千代の夫の死も祖母の死も千代によってなされたものではないか、それを確かめようという気持は飯野に行って強いものになっていた。
「ご主人は若いのにねえ。お気の毒でした。でも、癌細胞というのは若い体ほど早く大きくなるといいますからねえ」
私はこの女性が子守りをきりあげる前になんとか確信をつかみたいとあせって言った。
「あら、ご主人は癌でなくなったのではないと思いますけど。心不全ですよ」
女性の言葉に私は掌に持っていた大事なものをするりと落とした気がした。
「心不全ですか」
「ええ、朝早くに救急車が来たのですよ。でもごたごたしていて、そのうち救急車は中川さんを乗せないで戻ってしまったのです。四時頃でしたからね。みんな、なんだという思いで家に戻りました。そうしたら、亡くなっていたのだというでしょう。もう、びっくり。なんでも、ベッドの横の方に落ちていて奥さんは気がつかなかったらしいです。救急車が来た時はすっかり冷たくなっていたそうで、病院には運ばなかったという噂でした」
「それで、死亡を確認した医者は誰なのかしら。解剖にはならなかったのかしら」
「そんな。殺人ではありませんから。家で奥さんの隣で寝ていたのですよ」
「最後のお医者さんのお宅分かりますか」
「えーと、駅の近くの高柳クリニックではないかしら。以前から通院していたようですよ
私は確信していた千代の犯罪が無かったことを知り、気を落としながら高柳クリニックを訪ねた。
「私が高柳ですが、どういう事でしょうか」
私が用件を伝えると、高柳医師は迷惑そうに言った。
「ほんとうに申し訳ありません。お忙しい時に。私は中川さんの奥さんの知り合いなのですが、ご主人とも親しくしていました。音信が途絶えていて、今日訪ねてみましたら、事情が分りました。でも家族の方にも会えませんし、お墓がどこにあるかも分かりません。せめてどんな病気で亡くなったのかだけでもお聞きしたいと訪ねました」
私はクリニックが終る時間を見て訪問し、考えておいたせりふ通りに話した。
「遠くからお出でですか。まあ、お上がりなさい」
話を最後まで聞いていた医師はそう声をかけると、スリッパを揃えながら言って応接間に私を招きいれ、腰掛けるように勧めた。
「中川さんは不整脈で一か月に一度の通院をしていました。不整脈の人は意外に多くて、すぐ死に至るというものではありませんがね
「何か急変するようなことがあったのですか
「いえそういうことではなかったと思いますよ。ただ、心臓に負担がかかることがあったのかもしれません。これ以上はお話できません。何を考えたところで亡くなった人が帰るわけではありませんから。奥さんもこの土地を出ていかれたようですしね」
高柳医師はそれ以上話すことができないようなので私はクリニックを後にしたが、心に残った疑惑を消すことはできなかった。
これで終わりにするわけにはいかない。何かが分ったところでどうするつもりも今はないのだが、とにかくもう一度あの団地を訪ねてみようと思った。
駅前のビジネスホテルにチェックインすることができた私は、千代と関わってからのいくつかの出来事を考えていた
私の家の離れのこと、打ち明けられた話、松本のこと、今回の高松の件。関わりたくない相手だったのに、せっかく遠い存在になっていたのに、私は何を考えているのだろう。
千代の夫がどんな死に方をしても関わりのないことではないか。まして、千代をいたぶり、自分の性欲を満たすために彼女を玩具にし続けた男である。もし、千代が男を殺してしまったとしても、彼にとっては本望の死に方だったのではないか。サドとかマゾとかの世界はよく知らないが、共通の喜びがあるとも聞く。マゾになって死に至ったのかもしれない。
そんなことを考えながら、なぜかすっきりしない心があった。
翌日私は再びあの団地へ行った。千代が住んでいた部屋の向かい側だと言っていた昨日の女性の部屋を訪ねた。
昨日の女性が顔を出したので私は表札を見た。下内となっていた。珍しい苗字である。
「ごめんなさい。じつは、もう少しお話をうかがいたくて。いけませんか?」
とおそるおそる来訪の意を伝えると、ドアーを開けて私の存在を確かめ、
「ああ、どうぞ」
と快く玄関に導いてくれたのだ。私を覚えていたのだ。
「千代さんと下内さんとは親しかったのですか。ご主人の葬儀のときはお世話をなさったのでしょう」
私がせっかちに問いかけると、彼女は部屋にあがるように勧めスリッパを揃えた。
「びっくりしたのですよ。救急車が来たかと思うと戻ってしまうし、たいしたことなかったのだなあと考えていると、警察騒ぎでしょう。もう、朝早くからこの棟の人たちはみな寝不足でしたよ」
「警察がきたのですか。何か不審なことがあったのでしょうか」
「べつにそう言うわけではなかったようですよ。ただ、ベッドの横で倒れていたみたいで医者がきて確認をしたようです」
そういう下内の表情には無理に納得しているようなところが見えた。
「あの、日頃の中川さんのお宅はどんな様子だったのですか。昨日クリニックに行ったのですよ。ご主人は通院されていたそうですね
「中川さんは心臓が悪いと言っていましたが高柳先生に精神面でも相談をしていたようですよ」
「千代さんの家族は仲が良かったのかしら」
「普通でしょう。ただ、はじめここに引っ越してきた頃は、香奈ちゃんが虐待されているのではないかと疑いました。夜になると香奈ちゃんの声がひどかったのですもの」
下内は昼間の香奈の様子を観察したという
だが、親子は仲がよさそうで、香奈の体に虐待のあとは見られなかったと言う。
「ご主人はどんなお仕事をしていたのかしら
「公務員ですって。公務員住宅にいたらしいですが、つきあいが嫌で県営を世話してもらったのよと言っていました」
「あら、公務員は辞めていたのではないですか。それで県営住宅に住むことになったのかと思いましたけど」
私はまた謎にぶつかった。千代という人物はまったく謎が多い。香奈の入学にお金が必要だから十万円送ってくれと言ってきたときは主人が働いていないと言っていたのだ。
私はもう考えることに疲れた。どうでもいいと思い、下内に礼を言って家を出た。
鳥取へ戻る間、私はもう一度千代の行為を思い出してみた。出会う前の彼女について何もしらない。ただ、彼女の両親は全国的に名が知れた人だという。千代の実家の名を私は千代に尋ねたことがない。千代を知る人の噂話にすぎない。
ダンス教室での彼女は私より先に入っていたので、あまり親しみもなく、ただ、見かけと違うところのある人だと思っていたくらいである。
彼女が声をかけてきてからは、私の心は千代の言動で翻弄され続けた。千代は私の心を鷲掴みにして揺さぶる獰猛な女であった気がする。
「彼女こそ心に闇を持つ人間なのではないか彼女は他人を傷つけることで自分の存在を実感しているのだ。自分にとって他があるのであって、他人の尊厳などには気がつかない。そんなタイプの人間なのだ。彼女は心の闇を晴らすために、これからも罪を重ねていくのではないだろうか」
と考えた時私は恐ろしさに身震いをした。
家に帰り着いた私は、すっかり遅くなった詫びを家族に言いながら、ダイニングのソファーに深々と腰を下ろした。
千代はきっと少なくとも二つの罪を犯しているのだろう。そして私にその罪を探って自分を罰して欲しいのだ。そうしなければ千代の闇は再び罪を犯す。彼女はそれが分っているから私を刺激する試みをしているのではないのだろうか。
だが、私はどうすれば良いのだろう。これから千代の秘密を明らかにすることは難しい
千代はなぜ夫の死を「癌」だと私に告げたのか。なぜ私にだけ飯野の住所を知らせず、私が交流のあるダンスの仲間にしつこく知らせたのか。
千代は私を呼んでいたのだ。飯野に行き長野を訪れることを望んでいたのであろう。
自分を救ってもらうことにさえ、彼女は私をいたぶるというゲームを仕掛けていたのだ
私は夫に旅の報告さえしないで考え込んでいた。
「何かあったの。ずいぶん疲れているようだけれど、無理したのではないの」
いつのまにか近くにきていた息子が声をかけてきた。
私は息子に話してみようかと口に出かかった言葉をかろうじて押し留めた。
息子にも千代と共通する心の闇があるのではないかと思っていたからである。
ただ、息子の闇は灰色で、性格が非常に優しい。闇に苦しみ出したとき、彼は自分自身を抹殺してしまう方だろう。
千代を救う為には遠大な計画がいると思う
「四国や長野に行ったので、さすがに疲れたわ。留守の間困ったことはなかったの?」
と私は話をかえた。
「いつもの通りお父さんには困ったけどね。僕のことより、かあさんて世間知らずなんだよね。四国と長野を一度に旅してきたの。どういう交通手段でそんな移動ができたのだろう。調べてみよう」
列車の運転者になりたかった息子は乗り物と旅を考えることだけが唯一の趣味であった
私の今回の旅程に興味を覚えたようで、そう言って離れて行った。
三十歳を越えた息子が中学生のように思えた。
やはり彼女に会うべきだ。真正面から向き合って話をするべきかもしれない。
私が疑っていることをはっきり知らせて、その上で先へ進むことを考えてみよう。
「ダウト!」のカードがどれだけの力を発揮できることか分からないが、私の疑いが違っていたとしても、千代の精神の抑制力にはならないだろうか。
千代の次の目標は私かもしれないのだからもしかしたら私を抹殺しようと謀るかもしれない。普通の犯罪者ではないから、姿を知られたから邪魔になって抹殺するということではなく、私が彼女にとって完全な弱者になったときが危ないと思った。
そう考えていくうちに、私は千代の犯罪を確信した。千代の夫は彼女にとって弱者だったのだ。
千代と夫の立場はSとMが逆の演技者だったのではないか。あれは、そのことによって起きた事故ではなかったのか。
私はますます疑惑をこじらせながら、いつまでもダイニングからでることができなかった。
みなさん、どうでしたか。みなさんのすぐお隣に。ホラ、いますよ。きっと。
おわり