冬 の 夕焼け       

                                                               

                                                                小橋 菊江 

   船着場に沿う海岸道路を宮口真乃はゆっくりと歩いていく。立春すぎだとはいえ寒さはゆるまず、彼女はダウンジャケツトを着ていた。海の上の空は夕焼けの茜色に染まり、珍しく風もない穏やかな海面に静かな光を投げかけている。真乃は強烈なほてりの続く夏の夕焼けより、短い時間しか輝かず、美しい透明感のある冬の夕焼けが好きだつた。目に見えるものすべてがゆるやかでその中に一抹のもの哀しさも感じさせる。いつ見ても絵になる光景だが、真乃は自分もその絵の片隅に、後ろ姿で画き加えられているように錯覚してしまう事もあつた。

 その夕焼を背に受けて、整然と船がもやつてある内港を一隻の小型船が水を裂いて進んでくる。やがてエンジンを止めた船から、ふいに真乃の目の前に綱が飛んできた。

「あつ」

 不意くらった真乃が反射的に後ろに避ける。ばさっ、と綱が落ちた。綱は船の揺れとともにずるずる引きずられていく。これでは綱は海に落ちてしまう。驚いて棒立の真乃は思わずそれを掴んだ。

 その時 

「すまんすまん」

 と、男が叫びながら舷から大股で跳躍し真乃から綱お奪い取つた。

「危ない目にあわせてしまつて悪かつたなあ。あんたにもやい綱を拾ってもらつて助かつた。ありがとう」 

 男は船をつなぐ杭にしっかりと綱を締めると改めて頭を下げた。

「ああびつくりした。綱がぶつかつて怪我するところだつた。あんたは乱暴物だね」

 真乃が動悸のうつ胸を抑えて強い口調で同じると、愛想のない男の目に戸惑いが浮かんだ。気の強い真乃はその目を睨みながら、こいつ見かけより人が良いのかも、と思い表情をゆるめた。

「お詫びに船の生簀にある平目かれいをあげるから、それで勘弁してくれ」 

 男は生簀からタモで魚をすくってナイロン袋に入れ、真乃に手渡した。

「寒ひらめだでうまいぜ。型もまあまあだしな」

「わあ−高級品だ。こんなの貰つていいのかなあ。ありがとう」

 さっぱりした男の態度に真乃はさきほどの腹立が薄れて礼を言った。活きたひらめが袋の中で勢いよく跳ねている。

「あんた見かけない顔だけど、この港の漁師さんか」

「いや他所者だ。だが、これからここに住むことになるようだ」

 男は真乃から目を外して呟いた。

「今からこの先の友人の家を訪ねるんだ。じゃあ、俺行くから」

「私のお家と反対の方向ね。ではさようなら」

 うなずく男の顔にふと寂しげな翳りが見えた。束の間、二人は夕焼けの空を仰いだ。 さっきまであった茜色は徐々に薄れ、急速に体に沁みる寒さに背を押されて、家路を急ぐ真乃がふと振り返ると、男の姿はもう消えていた。

 

 兎波港の海岸道路をを折れた小路の直ぐのところにある活魚食堂「おふく」は今夜も客が立て込んでいる。港町の素朴な店構えは気取りがなく店内も狭いが、「漁師定食」と名付けている活魚料理を安価で食べられるのが評判になっているからだ。午後七時を過ぎた頃から食事を終えた客が帰って行き、夜の灯色が濃くなるにつれ、酒を楽しむ男たちが集まってくると、店の雰囲気もがらりと変わる。酒の一品料理はその日にとれた魚だから決まった献立はなくお任せの大盛であった。直ぐ目の前が日本海で漁師町だからこそ成り立っている店なのである。

 だが、夜は酒を飲むだけの店と決まっているわけではなく、材料が無くなるまでは食事も出す。あくまで表看板の食堂の名を大切にしているのだ。

「おかみさん、今は刺身は何がうまいかね」

 市街地から二人連れで時々来る年配の客が問う。

「今日はサヨリや剣先いか、それに寒ひらめも美味しいです。旬の松葉かにも出せますよ」

 おかみさん、と声をかけられた真乃は料理の説明をする。細おもてで少しきつめの目じりのかすかな紅は、客から勧められた盃に口を付けたからだろう。紺のひっぱりの衿をほどよい緩めに合わせて、三十歳という年齢からくる落ち着いた女らしさと、客商売で知らず知らずのうちに溶け込んだ色気とが身についている。真乃は自分は少し男とぽい性格だと思つているが、客の間では愛想のいい美人おかみで人気者だった。その人気の一つは、彼女が客へひと言、言葉をかけながら優しい手つきで最初の一杯の酌をするからだ。酒呑みにとっていい女から酌をされて呑む酒の味は格別なものらしい。

 地元の客は漁業関係者が多く、酒が入るとふだんの大きい声が更に大きくなっていく。店が忙しくなると真乃も従業員の君子も手が廻らなくなる。するとお客たちは「おばさん、俺達の分は持っていくからな」と板場の奥に声をかけ、カウンターから料理や酒を受けとり、座る場所も他所から来た客の迷惑にならぬように心得ている。いかにもこの店は自分たちの溜まり場というくつろいだ顔をつきであっても、他の客が居心地のよいように、態度や風采に似ず気を使っているのだ。「おふく」とは港町の荒っぽさと、人情味の混った店であった。

 従業員の君子は丸顔で愛嬌がある海辺育ちの健康な娘である。年頃なのに茶髪に染めるなどのおしゃれはしていない。板場は真乃の母の伊津が仕切り、若い頃の関西弁が抜けぬ物言いと、滑らかな小麦肌は、とても六十前とは思えぬ粋さがあり、客扱いもうまい。

「いらっしゃい」

 君子の張りのある声がしたので真乃が振り向くと、二人連れの男が入って来た。

「真乃ちゃん、お客さんを連れて来たよ」

 従兄で、漁師をしている沖本浩二が連れの男の方へあごをしゃくった。

 ちらっと、真乃は男に視線を移した。

「あっ、昨日のもやい綱の男」

「あんたはここの・・・」

 驚き顔の二人を見比べた浩二は、

「なんだ、知り合いだったのか」

 と、つまらなそうな顔をした。

「いいや、昨日ちよっとあっただけだ。名前も知らない」

 もやい綱の男が慌てて言う。

「まあええ、坐らちや」

 夜更けて客が無かったので二人の男はこあがりに坐った。

 真乃は心得たものですぐビールと肴を並べる。肴は螢いかの酢みそ和えとブリ大根であった。彼女はそれぞれのグラスにビールを注いだ。

「よろしく頼みます」

「こっちこそよろしく」

 男たちは改まってうなずき、カチリとグラスが鳴った。

「真乃ちゃん、俺の友人で川辺志郎さんだ。家の近くの空き家を借りて住むことになった漁師だ。それから川辺さんこっちは「おふく」のおかみさんの真乃。俺のコレだ。どうだ、べっぴんだらあが」

 小指を立ててにやりとする浩二に真乃は、

「馬鹿、冗談ばっかりいって」

 と、睨んだ。

「独り暮らしで自炊も大変だから、これからは度々ここに飯を食いに来るだろう。板場の叔母さん、なるべく家庭料理を作ってあげてくれ」

 浩二は板場の伊津にも声をかけた。

「あいよ。ほかならぬ浩二の頼みやで承知だよ」

 気さくに伊津は返事をして、

「にいさんはどこから来ただえ」

 と、問う。

「島から」

 と、川辺はぽつんと応えた。島というのは隠岐の島のことだ。伊津は一瞬口ごもった

川辺の様子になにか事情があることを察したらしく、

「いつでも気楽に寄つてつかいや」

 と、話を打ち切った。

「早速だけどおばさん、俺は腹が減っとるで定食は欲しいけど、頼めるだろうか」

 川辺は遠慮がちにいった。

 「いいよ。ありあわせて作ってあげるわな」

 手早く伊津は盛り付けを始めた。 真乃は近ごろお酒もいける口になり、浩二の相手をしてビールを飲んでいる。

俺が寒イカ獲りの出漁で隠岐に渡ったとき、西郷港でこの川辺さんにえらい世話になったのだ。あの島の辺りは暖流が流れとるから寒イカのええ漁場になっていて、本土の港からも出漁の船が集まつてくる。寒い時期に波を枕に船に泊って漁をするのは辛いし淋しいもんだった。俺は出漁を止めてから二年余りになるが、その前の五年間は冬になると西郷港に渡っていった。海の上でふとしたことで川辺さんと知り合い、それからは風呂に入れてもらったり、畳の上に寝させてもらつた夜もあつたし、飯を招ばれたこともあった。そんな家庭の暖かいもてなしは嬉しくて忘れられない。その川辺さんが俺を頼って来てくれた。これからはあの時の恩返しをさしてもらえる」

 浩二は酔いで口が滑る。

 出漁とは持ち船で他の港に行き漁をすることだ。つまり漁師の出稼ぎのことである。隠岐へ、対馬へ、遠くは北海道まで魚群を追って行く船もあった。しかし近年は不漁となり、経費もかさむので出漁も廃れていたのだった。

「漁師は助け合うのが当たり前ですけえ。もうそのことは…。これからは俺が世話になる番です」

 川辺は話を外らした。

「うまい、この魚のあら汁はうまいなあ。腹わたに沁みるようだ。おばあさん満足しましたで。ごちそうさん」

 椀を置いた川辺は肩の力を抜いて目が和んでいる。

「俺、明日の朝早く海に出るから沖本さん一足先に帰って寝るわ」

 席を立った川辺を真乃が入り口まで送る。

「ありがとうございました」

 彼女はおかみの顔をになって挨拶した。冷たい海風が小路を通り抜けていく。

「飲み直そう」

 浩二に誘われて真乃は座り直した。

「なんであの男はここへ住み着くことになったんだろう。世帯持ちだろうにね」 

 真乃は心の中の気がかりを口にした。浩二は彼女より三歳上で、川辺も同じような年に見える。

「奥さんとは離婚したそうだ。俺が世話になった当時は病院の看護婦をしとった。きれいな女だったし、ええ夫婦に見えたがなあ」

 浩二は溜息をついた。

「どんな事があったか分からんが、とにかく川辺さんは今までの暮らしを捨ててこの港に流れ着いた。本人が話すまで俺は何も聴くまいと思っとる」

「そうや、何も聞かんがええ。あの顔は辛いことを抱えているようや」

 伊津が冷や酒を入れたコップを持つ手て二人の間に割り込んできた。浩二は伊津の死んだ姉の息子である。身内同志なのでお互いに遠慮がない。

「店じまいして夜食にしよう。君ちゃんもおいで」 

 伊津はコップ酒を半分ほど呑み、大きく肩で息をして、

「誰だって生きていたらいろいろな事があるさ。何もない人生なんて死んだも同然や 

 とコップを持ち直した。

 

 桜の華やぎもいつしか葉桜の茂りへと移ろい、自然は初夏の輝きに満ちていく。空の色からも、とりどりの緑の色が盛り上がる山からも、そして波の穂先の切り返す白さからも、何かしら力を与えられるようで真乃はその気を十分に吸って元気つく。

 合い物を納い夏物を調えたり着更えたりする更衣は、タンスから取り出す衣類の彩りや手触り、そして女らい心をくすぐられて、その手間が好きであつた。古くから人々の暮しになじんできた更衣という言葉にも魅かれるものがある。

 店の材料の魚も人間の更衣と同じくかわる。飛魚(あご)白イカ、すずき、素もぐりで獲つたサザエやアワビ、グロテスクな形のナマコ等を、伊津は「今年の物は形がええ」とか、「脂がのって今が食い頃だ」とか品定めをしながら包丁を握っている。

 この兎波港に遠く岡山県境の山から清らかな水が千尋川となって流れ、海へと注ぐ。その水流の廻り具合によって島に育つワカメや貝類の味の良し悪しが決まる。特に自身で移動のできないイ貝にそれがはっきりと表れるから、伊津は港の市場では獲った島の場所を確認して仕入れをしている。真水は海の生き物を育むために重要な役割を果たしているのだった。

 イ貝汁は夏場に定食に添え客の評判が良いので気を使うのだ。伊津は盛り付けに一切小細工はせず、客が腹を満たし満足した顔を見せてくれた時が一番嬉しいといっている。それは伊津の心意気みたいなもので、「おふく」はこの伊津あればこそやっていけるのだと、真乃にはこの母の重みが十分わかるのであった。

「おふく」は昼時が終わると三時間ばかり店を閉めて、その間に夕方の仕込みをする。

 その日、親娘もが仕込みをしていると勝手口から川辺が入ってきた。真乃は最近、川辺が店に顔を見せるのを心のどこかで待っている自分に気がついていた。

「いらっしゃい」

 思わず眩し気な眸の真乃に、

「こんにちは」

 と、彼は相変わらずのそっ気なさでうなずき、それから伊津の方を向いた。

「沖で船に干して作ったスルメだけどたべてつかあさい」

「いつもおおきに。一夜干しのしびしびのスルメでおいしそうや。歯の悪い私でも食べられるわ」

 生っぽくなく硬くもないしびしびのスルメを伊津はうれしそうに受け取った。

 川辺がこの地に住みついてから二度目の夏を迎えようとしていた。彼は真乃より伊津の方が気楽に話せるらしく、いつしかおばさん、おばさんと親しんでいた。両親の失い彼は子が親を慕うような情が湧くのでは、と、真のは少し哀れも覚えるのだった。

「夕食にこのスルメを焼くからおいで。酒の肴にもってこいだ」 

 伊津の言葉は単なる客という以上の親身さがあった。

「じゃあ、後できますけえ」 

 川辺が出ていこうとしたその時だった。

「あいたっ、いたたっ」

 俎の上のハマチをさばこうと包丁を当てた伊津が悲鳴をあげた。

「どうした、おばさん手でも切ったか」 

 川辺が驚いて近づくと、

「たいしたことはないよ。近頃五十肩というのか腕が引きつるように痛むことがあって、うーん」

 伊津は顔をしかめて腕をさすり、肩を上下に動かした。

「五十肩なんて厚かましい。とうに一山越えているくせに」

 伊津はときどきこういうことがあるので、真乃は特に心配する風もなく、あっさりという。

「さしみは俺が作ろう。包丁を借りるよ」

 川辺はさっさと板場に立つ。

「あんた上手だね。板場をやったことがあるのか」

「ちよっと民宿の板場を手伝ったことがあるもんで」

 さしみの切り口の角が揃って並ぶ出来映えを、

「こりや商売になるね」

 と伊津は感心している。

「俺、おばさんの腕が治るまで板場をお手伝いに来ようか」

「あんたに店を休ませるわけにいかんからね。気持ちは嬉しいが駄目だよ」

「そんなことは心配せんでええ。俺一人の口すぎくらい何とかやれるから」

 と川辺はまじめな顔でいう。

「おおきに。痛みが続くようなら、その時は頼むかもしれんけど。明日は水曜日で店は定休だから病院に行ってくるよ。しばらく電気治療を受けたら痛みも治まるやろ。それから真乃」

 伊津は川辺に向けていた視線を真乃に移して言う。

「この際いっとくが、わたしも年だからね。このあたりで親を頼らず店を切り盛りしておくれ。いつまで親を働かせるつもりだい」

「お母さんは店が生きがいのくせに。今にも引退するような心にもないことを言うのだね。世間からはヤリ手と言われて、まだまだ若いし元気だからこれからも頼りにしてまっせ」

 と、真乃は笑顔で発破をかける。

「それにしてもあんたのお父さんと店を開いてからもう三十年になるねえ。たいした店ではないが無一文からここまでにするには口でいえんほどの苦労をしたもんや。だけど運が無いねあの人は。早死にしてしまって」

 と、常になく吐息のように言う母の表情から、真乃は父豊次への深い思いをくみ取った。

 若い頃大阪天満橋筋の料亭へ伊津は仲居、豊次は板前として働いていた。そしていつしか二人は愛し合うなかになつていったのだった。豊次は腕はよかったけれど道楽なところもあり、おまけに妻もいた。だが豊次の見かけの良さと優しさにすっかり惚れ込んだ伊津は無理をして金を貢ぎ、豊次もまた、男を魅き付ける伊津の雰囲気と気性の一途さんに溺れた。店にも不義理を重ねた揚句、居ずらくなった二人は駆け落ち同然に伊津の実家を頼り、この港で暮らすことになったのだ。

 伊津はもともと客商売に向いていたし、豊次も板場をすることにして港近くに「おふく」という小さな飲食店を始めた。夫婦ともどこか色街の匂いがして、その上曰くあり気な様子が客の興味を引くらしく、店は少しずつ賑やかになっていった。伊津はいつも愛想よく、豊次もまじめに働いていたが、商売が軌道に乗り始めると、豊次の道楽の虫がうごめき出した。彼は酒とバクチが好きで熱中すると板場を伊津に押しつけ、全くけじめのない人間になってしまうのだ。この漁師町で流行っていたのは花札バクチで大金が動くほどのことはなく、手なぐさみ程度らしかったが、それでも度重なればしぜん揉め事も起きてくる。伊津は当てにしている店の仕事の段取りが狂って、何度煮え湯を飲まされたことか。

 真乃が四歳の時、豊次は脳梗塞で倒れ急逝した。幼かった彼女は父との思い出もおぼろだが、父といえばすぐ美しい濃い色彩が目に浮かんでくる。それは父が持っていった花札の色合いであつた。真乃を可愛がっていた豊次は、時には花札を遊び道具にして、梅だ、萩だ、小野道風と蛙だなどと教えてくれた。黒地に紅色のくっきりと鮮やかな絵は人を虜にする妖しげなものを秘めているようだが、幼い真乃はただお気に入りのおもちゃと思っていただけであった。

 或る日、真乃を座布団の上に寝かせて伊津は夕方の仕込みに店に出て行き、入れ違いに豊次が入ってきた。部屋には真乃が遊んでいたようで、あたりに花札が散らかったままになっている。ちえっ、と豊次は舌打ちして札をかき集め、数えてみると一枚足りない。あわててそこらを見たが、真乃が寝ているだけである。

 突然、うつむけに寝ている真乃が、うーん、と寝返りをうって横になり、体の下に置いていた手を伸ばした。なんと、そのふっくりとえくぼのある右手には花札が一枚握られているではないか。「あった」と豊次は相好を崩し、一本ずつ甘く湿った指を開いて札を抜いた。それは真乃が一番気に入っている紅葉に鹿の札であったという。 

 この話はのちに母から聞かされたのだが父が使った花札は母が今でもどこかに大切に納めているだろうと真乃は思っている。

 やがて、魚をさばき終えた川辺は包丁を納いながら伊津にいった。

「おばさん、無理せんようにしてな」

「おおきに。少し楽になってきたよ」

 伊津は嬉し気な顔をした。そんな母を見て真乃は、母が川辺に好感を持ちだしたように思え、心に温かなものが流れていくのだった。

 暑い夏も秋立ちぬの季節を迎えて、やや日差しがゆるまった青空に真綿のような白い雲がゆっくりと流れていく。そんな午後のひととき、山峡にある桐山温泉の川沿いの足湯に、真乃と川辺は並んで足を浸していた。湯煙を這わせて溝の中を流れる湯のぬくもりが体の芯まで心地よく沁み、心を寄せる男といる甘まやかさにうっとりとしてきた真乃は、知らず知らずに幅広い肩によりかかろうとしていた。ぱしやん、と川で錦鯉のはねる音に彼女はハッと我にかえり、反射的に湯の中の足をばしやばしや動かしながら彼を見て照れ笑いしたが、頬に刷かれた紅みは湯にのぼせただけではなかった。

 ふいに、腰掛けている彼女の膝を川辺が押さえた。白い脛が陽を弾いて別の生き物のようにゆらゆら動くのを見つめる彼の表情は日ごろにはなく真剣で、明るさも見え、真乃は嬉しさに、ためらいもなく男の手の上に手を重ねた。二人は時間が止まったように動かなかった。

 足湯のすぐ上の渓谷沿いの旅館街から、向こうの商店街へと架かる赤い橋を渡る宿の浴衣姿の人たちが見える。真乃は橋の上から覗かれているようで少し面映いが、見知らぬ観光客ばかりなので、人目を気にすることもなく、また自然の中に包まれて心は伸びやかであった。

 伊津の腕が痛くなってから、川辺は海に差し支えない時間は板場を手伝った。彼は口数が少なくても伊津に何くれと心配りをするので、伊津も独り暮らしの彼を気遣う様子であった。そして真乃も、いつしか海の弁当を作って持たせたり、そっと部屋の掃除ついてをしたりして、ひそかな思いを伝えようとした。川辺は礼は言うが、特に彼女を嬉しがらせるような言葉も、行動のなかった。けれど真乃はその愛想のない男に久しく燃えなかった女心が傾いていくのを覚えたのだった。

 従兄の浩二の話では川辺には離婚歴があるようだったが、真乃はその事はあまり気にならなかった。それは彼女が二十歳の時、結婚を約束した恋人の突然の境遇の変化によってやむなく悲しい別れをした経験があったからだ。人生には、思いがけず避けられない事態に直面し、心のならずもそれを受け入れなければならないのお知ったのだった。伊津は、真乃の恋の破局を知っているようだったが、男で苦労してきただけあって真乃の相手も恨まず、男と女の間は成り行き任せ、そのうち傷も癒えるだろう、とばかり素知らぬ顔をしていた。

 しかし伊津も年だから体が衰え出した今、三十歳という女の盛りを過ぎようとしている娘に何とかいい婿を迎えて「おふく」を継いでほしいと日夜願うようになっていた。伊津は川辺を気にいっているし、真乃の心も分かっているが、離婚歴があることは別としても、島でのことを話したがらないので何一つわからない。かわいい一人娘の婿ともなればすぐに彼を心から信頼する気になれない様子だった。

 今日は店が定休日で伊津は病院へ、真乃は川辺と車で一時間半ほどの距離の兵庫県境の桐山温泉へドライブに出かけてきたのだった。

 

 足湯から石段を上がれば囲いの池から熱湯が湧き、もうもうと立ち上る湯煙りで群れている人たちの顔も見えないくらいである。手にした卵を入れた網を囲いの熱湯の中に渡されている木組みに吊り、ゆで卵を作っている。

「おばさんのお土産にゆで卵を作ろう」

 川辺は近くの売店で網入りの卵を買い湯に漬けた。真乃が湯煙りに濡れながら覗くと卵ばかりでなくサツマイモも吊ってある。春には竹の子や、山菜もゆがくそうだ。無料で利用できるのでいつでも人だかりがしている。川に向かって置かれた木のいすでゆで卵を食べている人たちもあった。

「わたしもゆで卵が食べたいな」

 真野は甘えた。

「むいてあげよう。あちっ、あちちっ」

 川辺が指で転がしながらむくと、つるりと白身がでる。

「さあ、熱いうちがうまいで。ここに塩もある」

「温泉卵っておいしい。湯の匂いもして、いい感じね」

「うん、うまいなあ。まるで小学生の遠足だ」 

 卵をほおばりながら二人は顔を見合わせて笑った。

「桐山温泉はいいところだなあ。真乃さんときて本当に良かったよ」

 川辺の今までにない楽しげな様子に真乃は、この人がこのまま明るくなってくれたらどんなに嬉しいだろう、と心の中で呟いた。

 帰り道は山を横切り、海岸に出て国道178号線を西へ走ることに決め、ハンドルはやはり川辺が握る。山蔭の緑に沈んだ湯の町から九月の陽光にきらめく海辺に出ると、真乃はまるでふる里に帰ったような安らぎを覚えた。

 変化に富んだ多くの島には、潮風に耐え、岩を砕いて育つ松の緑が美しい。海を右に見て、小さな漁村を過ぎると丘の上に、歌碑がひとつ建っている。ここで車を止め、途中で買った缶コーヒーを飲んで一休みする。

「この歌碑は以前一度きた時から心に残っとるんよ」

  いくとせの前の落ち葉の上にまた

  落葉かさなり落葉かさなる

 真乃は声に出して読んだ。碑に刻まれた短歌はこの諸寄の漁村に生まれ育った悲運の歌人前田純孝の有名な落葉の歌であった。

「この歌を読むと、結核にかかり、病苦と貧困と妻子との別居など、孤独の中で歌を読み続け三十一歳で亡くなった純孝の悲痛な、はかない人生が偲ばれて胸が痛くなるの」

「真乃さんは学があるなあ。俺は歌は分からんが、積み重なった下の落葉の哀しみがちょっとは分かる気がする」

 川辺は落ちている病葉を足で寄せる。

「川辺さんだってなかなかの詩人だね。見直しちゃった」

 二人で話すのは何でも楽しい、真乃は幸せで心が弾んだ。

「いい風になった。帰ったら白イカ釣りに出てみるとするか」

 眼下に広がる海を眺めて川辺は話を変える。

「きれいな海、広い海」

 この美しい海に漂っているのは、わたしたちだけ、という思いがして真乃は歌うように言いながら、いっそう彼に寄り添い、

「わたし、隠岐の島へ渡ってみたい」

 とやんわり言った。[

「隠岐の島か。何もない島だな」

 急に顔をくもらせて、暗い過去を断ち切るようにいう川辺を見て真乃はたじろぎ、すーと、甘い夢から覚めた。そして、彼が一番触れられたくないところに触れていたのに気がついた。

 海風が下から穏やかに吹き上げ、碑は静かな寂しさをあたりに漂わせている。しょんぼりしている真乃に川辺は気づいて、

[悪かった。気分を悪くさせてしまったな。本当にすまない]

 と、素直に謝ったが、顔には苦し気な滲みも見えた。

「私は隠岐の島に憧れていたし、あんたの育った島と思うと尚更行ってみたんかっただけ。でも隠岐の島のことは言ってはいけなっかったのね」 

 真乃の眸は涙でふくれ、糸を引いたが、けれども、しっかりと顔を上げて、

「島で何があったの、何を残して来たの、その胸の中になにを隠しているの」

 と一途に迫った。

「あー、いやーあ。だがこれだけははっきり言える。今の俺には真乃さんは一番大事な女性だ。あの「おふく」のある暮らしで俺は救われている」

 心を乱している真乃を川辺はそっと抱く。抱かれながら真乃は、川辺の心底からのひと言、ひと言を聞いていた。

 

 秋色に包まれていた自然が少しずつ色褪せる中で、海は色を濃くしていく。そんな或る雨の夜のことである。

  客も終って、最後に川辺が食事をして帰っていくと、入れ違いに二人の男が入って来た。

「いらっしゃい。あら、鉄工所のおじさん」 

 真乃が声を上げると、

「遅いけど頼むよ」

 と、年配の男がいった。

「こんなに遅くまで仕事をしていたんですか。連れの方も一緒ですか」

 油汚れの作業着を着ている男たちへ、愛想よく真乃はビールを注いだ。

 彼女が鉄工所のおじさんといったのは、船の機関を扱う鉄工所の経営主のことである。

「うん、この人は隠岐の島の漁師さんで、沖に漁に出ていたが機関が故障して漂流していたところを救助され、修理のために昼過ぎこの港に入ってきたという訳さ。それで今まで修理にかかっとったので、すっかり遅くなってしまったのだ。疲れたからいっぱい飲らにやあ体が持たん。腹もへっとる。明日は直る予定だと島には連絡してあるから、家の者も安心しているだろう。まあ、ゆっくりさせてくれ」

 鉄工所の主が言うと、

「ええ店ですなあ」

 と、隠岐の男は言いながら、いける口らしく呑み方が早い。

「真乃ちゃん、すっかり色っぽくなっておかみさんらしくなったなあ。店は大繁昌だろう」

 からかわれた真乃は、ありがとうございます、お陰さんでと笑った。

「そうそう、さっき店から出ていった男だが、暗いから相手は気づかなんだだろうけれど俺はあの男を知っとる。島に姿が見えんと思っていたら、ここで暮らしていたのか。ふうーん」

 男の言葉に真乃は緊張した。

「ああ、さっきすれ違った川辺さんのことか。あの男がここに住みついても一年半は過ぎたかな。船を持っているから俺のところへもたまに修理にきたりするが、口数の少ない男だ。そうか、島から来たのが」

 鉄工所の主は話の先を促すように相手にビールを注いでやった。

「俺の家の近くに川辺というあの男の女房の実家があって、民宿をやっとるからたまに海の休みの日は手伝いに来とった。それで顔見知りなのだ。川辺さんの家は隣の港町で女房は町の病院で看護婦をしとった、ところが今から二年ほど前の秋、事故が起きた 

 深夜、車が海岸の崖から転落して大破し、運転していた男性は即死、助手席の女性は意識不明の重体と翌日新聞に載った。その女性が川辺の妻だったのだ。男性は病院に本土から赴任してきた独身の若い医師で、川辺の妻はそこの看護婦だった。その時川辺の妻は事故のショックで流産したので、たちまち不倫だ、心中だ、誰の子が、など尾ひれのついた噂が流れた。ようやく命を取り止めた妻は寝たきりの状態となり、実家の世話になっている。

 妻に裏切られ、即死した男性の親からも恨まれ、世間の好奇の目に晒される突然の境遇の辛さに耐えられなかったのか、川辺は島から姿を消した・・・。

「漁師は昼ばかりでなく、魚種によっては夜働くこともある。凪が続くと昼は家に寝て夜は海へということになる、可哀想だが女房もろくにかまってやれんのだ。しかし、これも仕事だからお互いに辛抱せんと仕方ないやね。川辺さんの女房は結婚して三年になるのに子供もなかったし、あれやこれやで寂しくて、つい魔がさしたんだろうかー。分からんなぁ」

 島の男は深刻な内容を酒呑み話にして淡々と語る。真乃が思いがけなく聞いた川辺の島での経緯であった。彼の抱いている重いものの正体を覗き見た思いで胸が激しく波立ったが、そこは客商売の手前、

「いろいろと大変ですね」

 と、軽くうなずいただけだった。

「鉄工所の旦那さん、そろそろご飯を出しましょうか」

 板場の伊津が声をかけた。伊津には真乃の気持ちが分かっているのだ。

「そうだな、だいぶん呑んだし、飯をもらおうか。おばさん遅うまですまなんだな」

 男たちは食事をして帰っていった。

「これで川辺さんのことがよう分かったわ。何だか彼を一人にしておくのが可哀想だからこれから行ってみる」

 真乃は声を上ずらせ、急いでひっぱりの袖を抜く。

「本人が口にせんことを、他方から聞いたなどと言わんがええで。傷口を広げるばかりかも知れんからな」

 分別のある母の言葉を聞き流して、真乃は雨の中へ出て行った。今は自分が抱かれることより、彼の体を、冷えた心を、しっかりと抱いてあげようと思いながら。

 

 雨に濡れそぼった真乃の体が川辺の胸に崩折れた。

「どうした。何かあったのか」

 深夜、突然訪れた真乃に川辺は驚いて、しっかりと抱きとめ、しばらくはその姿勢のまま動かなっかった。彼の腕の中で真乃は思う。傷心の彼を抱きしめてあげようと心の急くまま来たのに、こうして私は抱かれている。やっぱり抱くより、抱かれた方が幸せ、と自分の勝手さに少しあきれた。

 風邪をひくよ、とタオルで髪を拭いてくれる川辺の優しさに、今夜は家に帰るまい、と真乃は心を決めた。しばらくして、落ち着いてきた彼女は、先程の島の男の話は口に出さず、

「ただ会いたくなったから来てしまった」

 と、作り笑いをしながら、やはり年の功だ、母の言葉は理に適っている、と思っていた。

 それから一週間ほど経った昼の休憩時間に店に電話がかかってきた。伊津はちょっと横になるからと部屋に入り、店には真乃だけだった。

「はい「おふく」です」

「私は隠岐の島の塩谷というものでして、突然電話してごめんなせえ。「おふく」のおかみさんですか。先日うちの近所の者が船の故障でそちらの港に入り、お店に晩御飯を食べに行った時、川辺さんを見かけたといっとりました」

 真乃は、はっと胸をつかれ相手の次の言葉を待った。

「私の娘は以前、川辺さんに嫁いでおりました。恥ずかしい話ですがあの事故のことは聞いておられることと思っとります。川辺さんがお店と親しいと聞いて、ぜひおかみさんのお力を借りたいのです。厚かましくて本当にすみません。実は−」

 ためらいの中に懸命さが受話器から伝わってくる。

「あの事故以来、寝たきりなになった娘を家で引き取っております。娘は死にたい、死にたい、と繰り返しながら放心状態で生きてきましたが近ごろはめっきり体も弱り肺が悪いとかで呼吸が苦しい日が続いています。ところが急に、あの人に会いたい、あわせて欲しい。真実だけはどうしても伝えたい、と訴えたしたのです。呼吸が途切れてもうだめかと思っても、また息を吹き返してその言葉を呟く娘を、死ねんということはなんという因果なことが、ともう見ていて辛くて、辛くて。裏切り女の汚名にまみれていても娘は娘。川辺さんに会わせて、ひと言いわせてやれば、そのまま楽になれる、死なせてやれる、と思い悩んでいた矢先、近所の男から川辺さんの消息を聞きました。どうかおかみさん、川辺さんに一度島に帰ってくれるように話してもらえんでしょうか。私が頼んでもとても聞いてはくれんと思いますので、どうか、どうかをお願いします。助けてください」

 電話の中で相手の女性は涙まじりに切々と訴えた。

「よく分かりました。海から帰られたらよく話してみます。大変でしょうがどうか元気を出してください」

 思いがけない電話の内容に胸が潰れる思いがして涙ぐみながら、真乃は最後に相手を励ました。彼女は元来の気の強さで事態をしっかり把握し、その上に頼まれるとつい動いてしまう性格が頭をもたげた。

 早急にしなければいけない事は川辺を一刻も早く島へ行かせる事であった。ひと言真実を伝えたい、と死に切れずに元の夫を待ち続ける女心の哀しさ切なさが、今、恋をしている真乃には痛いほど分かる。そしてその願いを叶えてやりたいと思う母の心もである。

 夜になって海から帰った川辺に今まで聞いていた事故にまつわる事を話し、真乃は真剣に島に行くよう勧めた。

 聞くなり顔を硬直させた川辺は、

「島には行かん。その必要はない」

 と、荒い口調できっぱり言った。その目には真乃に向けるいつもの優しさは、かけらも感じられなかった。

「今更何が言いたいのだ。真実って何だ」

 はき捨てるように言う。

 真実、真実、真乃の頭を何かが過ぎった。妻が夫に伝えたい真実って、もしやー腹の子のー。

 いや、今はそのような詮索をしている場合ではない。頑なな川辺の心を溶かす術はないようにも思えたが、負ける訳にはいかなかった。

「どうか島に行ってください。今まであなたが曳きずってきたものを、きっぱりと捨ててきてほしい。そうして帰ってきてくれるあなたをわたしは待っています。私たち二人の為にも、ね、ね」

「・・・」

「もう彼女を楽にさせてあげて。心の枷をはずしてあげて」

 こうしてる間も死にきれずにいる女の哀しみが思われて、説得する真乃の目にいつしか涙が浮かんできた。

「島に行ってくる」

 ようやく決心したのか、むっつりと言う川辺を真乃は見つめて、

「ただし、あなたの船では絶対に行かないで。西の境港から出るフェリー乗って行って

ね。あなたの船はこの港にしっかりと繋いでおいてください。きっとそうしてよ」

 と、強く言って唇を噛んだ。

 数日後の夜、店を終えた真乃は港へ出ていった。晩秋の海風が頬をかすめ、人通りの絶えた海岸の道に彼女の足音が小刻みにひびく。船溜りにある川辺の船の側に佇つと、船はさざ波にギイーと音を立てた。近くの船がギイーと音を合わせる。淡い港の灯りに照らされて、船杭に固く結ばれたもやい綱を確かめ、真乃は祈る思いで暗い海の向こうをじっと見つめていた。