大杉隆士作
朝の太陽は眩しいほど照り付けているだろうに、分厚いカーテンが窓枠いっぱいにかさなって、寝室は昨夜の深い眠りの中からとざされたままだ。重い瞼を開こうともせず、こうやってまどろんでいる時間が私には仕事を退いてからのなによりの贅沢に思える。
布団を足許に蹴り出してから両腕をつきだしゆっくりと背筋を伸ばす。急激に動くと、未だ目覚めないでいる躰は、何処か筋肉や筋に無理がきて思わぬところから痛みが生じて慌てることがある。
自分はまだ若いと思う気持ちとは裏腹に肉体は老化してきているのである。
台所と廊下をへだてた私の寝室は硝子戸で仕切られている。さきほど妻の秋子がそっと近づいて来て、少しだけ隙間を開けて立ち去っていった。しばらくすると挽きたてのコーヒーの香りが部屋に漂い始め私の鼻孔をくすぐってくる。朝食準備完了のシグナルである。
私はベッドから起き上がりカーテンの裾をゆっくり引き上げる。すると、澄みきった青空が視界いっぱいに広がっていて、小鳥が時折飛んできては、青空を鋭く切り裂いていった。
私はしょぼついた目をこすりながら台所に行き秋子に視線を送る。
二人の間には朝の挨拶の言葉はない。お互い目だけで相手を確認し特別不自然さを感じなくなっている。それはいつ頃からか意識したことはないが、多分に子供達が独立して巣立っていってしまった頃から始まったような気もする。
言葉のないことはお互いの心が通じ合っているという証明にはならないが、慣れ親しんだ者同志の慢心からくる怠慢かもしれない。
朝からたいした話題もなくただ黙って食卓に向き合う。コーヒーに、トースト、ベーコン、その上に目玉焼きと野菜サラダの盛り合わせ。とりたてて目新しいものはない。
毎日同じ顔ぶれで心の浮き立つこともないが、これといった不安もない。ただ平凡で毎日が飽きるほど退屈な日々が続いている。
何十年も連れ添った夫婦はこんなものかと時々、他の家庭はどうだろうかと想像してみることもある。
私は朝刊に目を通す。
視力がおちてきた分だけ丁寧に小さな記事でも読み落さない。それが唯一世間とのつながりのように思えてくる。
「貴方ケータイもったら;;」
秋子が台所の流し台に立ったまま、いきなりそう言った。つねづね考えていたことか、それともたんなる思いつきか。
「貴方にケータイどうかしら?」
後ろ向きの姿勢で秋子は再度いった。
「ケータイ?」
私は一瞬自分の耳を疑って口の中で反復した。
秋子はすこし唐突過ぎたと思ったのかすぐに、
「ケータイって、案外便利なものよ」
と和らいだ口調で私の方を振り向いて話しかけた。
「ケータイって、お前がもっているあの携帯電話のことかい?」
と尋ねた。
「そうよ、いまは年寄りでもみんなが持っているのよ。貴方も持った方がいいと思うけど」
ケータイか、思わず私は腕組みをした。
会社勤めの時だって持っていなかったし、いまさら何処に出掛けるってわけでもないのだし。
「俺はもう要らんよ。とっくに現役を降りたのだから」
あまり気乗りしない返事をして、秋子から目をそらした。
「だからいるのよ。グランドゴルフのお仲間だってみなさん持ってらっしゃるというじゃない。貴方だって散歩に出掛けたり本屋に行ったりするでしょう。出先でもし何かあった場合の緊急連絡に必要なのよ」
意外に強い調子の秋子に、私はすこし狼狽しながらも、
「もう、そんなもの持ち歩く気持ちはないのだから」
長い勤めのあいだ会社という組織の中で拘束され続けてやっと解放されたと思ったら今度は携帯か。六十代も後半にきてまた縛られるのか、私は苛立った感情がにわかに波立つのを覚えた。
飲みかけたコーヒーを一気に咽喉にながしこみ、秋子の本当の真意がどこにあるのか見定めようとした。
だが秋子は相手に考える暇をあたえず矢継ぎ早にいった。
「貴方だって若いつもりでも、けっこう動作が緩慢になっているのよ。お守りだと思って持っているほうがいいと思うけど、何処でどんな事故に遭うかわからないご時世だし」
たしかに歩道を歩いても、いつ車が飛び込んでくるかも解からないし、肩がふれあっただけで暴力沙汰になることもある。危険が街の隅々まで常時ひろがっていて気の緩めるところがない。だからといってそのために携帯電話を持つことはどうにも馴染ない。
あの小さな機器の電波が、誰かと四六時中つながっていると思うとなんとなく気が重い。すぐ連絡が取れるということは、裏返してみればいつでも誰かがこちらの思惑や都合とは関係なく連絡がとれるということだ。
グランドゴルフの連中だってたしかに皆がもっている。
ベンチにおいたケータイの着信メロディーが騒々しく鳴って、慌ててプレーを中断「もしもし;;」ってやっている。でもたいがいが緊急ではなく、明日の食パンや牛乳が切れたからとか、どこそこのスーパーマーケットで卵を安売りしているから帰りに寄ってくださらない。そんなようなやりとりだ。
主婦にとっては電話一本でことたりるから便利にはちがいない。その便利さをお互いが活用することが別段悪いとは思わない。それが当然のようになって相手にもたれかかってしまいそうな雰囲気が馴染めない。
しばらく気まずい沈黙が続いた。
秋子は朝の食卓が刺々しくなるのを避けるようにして、
「今日は午後から公民館でケーキ作りなの」
と話題を変えた。
私はすぐには頭を切りかえることが出来なくてまだ携帯電話にこだわっていた。
そういえば、以前は列車が駅に到着すると乗客が争うように公衆電話に駆け込んで、何処かへ連絡をとっている姿をよく見かけたものだった。けれども、最近見かけなくなったのは携帯電話のせいかもしれないな、といまさらながら納得する。
最近は公共施設などで声高で話している人は見かけ無くなったが、そのぶん文字をせわしく指先でたたきメール送っている。とくに若い人の中には横断歩道を渡りながらでもメールを打っている。あれは片方の目で信号を見て、片方の目で文字を追っているのだろうか。器用さの反面、怖さを感じてしまう。
それにしても網目のように張りめぐらされた電波や、個々に緻密にしかけられた連絡網は想像しただけでも身ぶるいする。
この間だってそうだった。
知人の母親がなくなって葬式にでかけた時のことだ。
告別式の僧の読経が始まってまもなく、いきなりケータイのけたたましい着信音が耳元でつんざいた。
私の隣の男が慌ててポケットの上をおさえこむと、見るも無残な格好で葬場をとび出していった。その時の、会葬者の眼差しを忘れることが出来ない。
私だって、いつ、どこで、どんな「へま」をやらないとは限らない。そんなことに神経をつかったりすることじたい馬鹿げている。
私がその時の様子を話すと、
「ケータイが日常生活にしっかり組み込まれている現在、その人は枠からはみだした心遣いの浅い、ケータイを持つ資格のない人なのよ」
秋子はかるくそういって目に見えない相手に軽蔑の視線を送った。
「じゃ、俺には資格があるというのかね」
私はしつこく問いただした。
「貴方は悪いことばかり挙げ連ねているけどケータイの利用価値って素晴らしいのよ。最初から否定してかかっているので受け入れられなくなっているのだわ」
秋子のいいかたにはどこか反論を受け付けないきびしさがあった。
そうかもしれない。けれども、いつの時代だって時流に乗りきれなくて、その場に立ちすくんでじっと状況を見守っている人間だっているはずだ。それがあながち悪いともいえないのではないか。融通のきかない頑固な人間がいることも時には貴重な存在なのだ。口にでかかった言葉をかろうじて飲みこんだ。
久し振りに妻と言い争ってなんだか身内に活気がみなぎったように思えた。
ひょっとして自分はケータイに対してとてつもない偏見を抱いているのかもしれないな、ひそかに心のうちでは反省もしてみるのだった。
この間までは田畑や雑草の生えた空き地だったのに、いつのまにかに民家やマンションが押し合うように建ち並び、自宅の近くを流れる川の堤防も見えなくなった。その向うの河川敷でいつものメンバーがグランドゴルフを今日も楽しんでいるはずだった。
私は小春日和で時折頬をかすめて通る心地よい風になぶられながら、さほど広くもない県道を渡ってグランドゴルフ場に向かった。けれども車道は思ったより自動車の行き交いが烈しく、横断歩道の信号機の場所までずいぶんと回り道しなければならなかった。以前は車の量も少なく左右をよく確認すればらくに車道を渡れたものだった。
「どこで、どんな事故にあうかわからないご時世だから」
ふと、秋子の言葉を思い出し青信号が点滅するのに慌てて渡りきると、すぐに赤色に変わって、待ちきれなくなった自動車の群れがどっと押寄せた。
河川敷は思いのほか風が強かった。川面を渡ってくる風は時折、針でも刺すように肌を痛め、街中とは異なる、早くも冬の訪れを匂わせているようだった。
「今日は天気が良いのでみなさんお待ちかねよ」
秋子に、いつになくせきたてられて、背中を押される気分で腰をあげたものの、一週間ばかりまえから肩がどんよりと重いのに気がかりだった。突発性の激痛におそわれたのではないが、クラブを振り切ると肩に、みじかい痛みがはしるようになった。それが次第に肩の奥に住み着く気配を見せ、不安があたまをもたげた。耐えられそうな痛みなのでだまっていたが、慢性化しそうな不安があった。このまましだいに手があげられない事態になったりしたら面倒だ。
私は芝生に腰を下ろし、尻から伝わってくる水っぽい湿った感触にすこし居心地の悪さを覚えながら、
「今日は見学させてもらいますよ」
世話役の丘さんにそういって周囲を見渡した。
いつものメンバーだから六十すぎから八十歳近くの人たちの集まりだ。陽射しをさえぎるというより、川風を避けるように帽子を目深く被り、むぎわら帽子の上からタオルをまき付けて顎に結び付けている。一見、男か女か判別さえつけにくいが、いちおうに足取りは軽い。
私は、公民館のケーキ作りの教室で遅くなるらしい秋子の帰ってくるまでぼんやりと時間を費やそうと思っていた。
「この後、みなさんでカラオケにいくのですがご一緒しませんか」
丘さんがスタートマットにおかれたボールをクラブヘッドで調整しながら、退屈そうな私をみかねていった。
女性も三人ほどいくという。私は何となく興味が湧いて、これならクラブを振り回すこともないし肩に負担がかからない。
「聴いているだけでもいいですか」
おそるおそる尋ねてみた。
丘さんはにっこり笑って勿論ですよ、でも一、二曲ぐらい歌ったほうが気分がすっきりして楽しいですよ。是非一緒にいきましよう。と誘ってくれた。
私は連れていってもらうことにした。
「モモさんにも連絡したほうがいいね」
丘さんが隣にいて一緒にプレーしていた奥さんにいって、愛用のクラブを思いきり振りきった。
奥さんは半コートの脇ポケットから素早くケータイを取り出すとすぐ連絡をとりはじめた。
モモさんは体型がすこしまるまっていて背もさほど高くなく頭は丸坊主。笑うと細い目がいっそう無くなって、人のよさが顔にもろに出る人だった。最近川向うに新しくカラオケ店が出来て、そこの常連らしくグランドゴルフよりも、そちらの方に足繁く通っているようであった。
モモさんは自宅には不在で、外出先からすぐに折り返し返事がかえってきた。奥さんはしばらくモモさんと話しあっていたが、親指と人差指を丸めてオーケーのサインをこちらに送ってよこした。
その対応の素早いことに私はなるほどケータイは便利がいいなあとなかば感心しながら、でも人のいいモモさんにとっては予定外のことで迷惑になりはしなかっただろうか、などと考えていた。
それから一時間後にみんながカラオケ店で落ち合うことになった。
ビルは三階建てで一階がレストラン二階と三階がカラオケ店であった。モモさんは素早くエレベーターに乗ると予約しておいた部屋に案内した。まるでこの店の従業員のような振る舞いで、相当にいれあげている様子が伺えた。
カラオケが始まって、しばらくして私はみじめな気分におそわれていた。出席者の年代なら演歌を歌うものだときめつけていた自分が哀れであった、
井上陽水や矢沢永吉のロック調や高橋真理子のバラード風と、予想しなかった曲が流れ、韓国のドラマの主題歌までが当然のように歌われる。とくにモモさんなんかジャズのスタンダードナンバーから、シャンソンまで歌いこなす多彩さだった。
私は演歌の持ち歌を二曲ほど遠慮しながら歌ったが、何だか場違いな感じがして、ここにきたことを早くも後悔していた。
二時間ほど経って、丘さんがそんな私に気をきかせてくれたのか、今日はみなさんお疲れのようですからこれくらいにしましょう、といってくれた。まだ歌い足りない人を促して帰り支度を始め、結局数人が次回を約束して店を出た。
陽は西に傾きそれぞれが家路へと急いだ。
私は帰途が同じ方向だったので女性の高峰さんとしばらく連れ立って歩いた。
高峰さんは六十代の前半で、胸や腰のせんが美しくお尻も若い人のようにつんと誇らしげに上を向いている。カラオケでマイクを持ってせつない表情で韓国のラブソングを歌う高峰さんはとてもセクシーであった。
「どうしてポップス系の歌ばかりをみなさん好んで歌うのですかね」
私は自分だけわけもなく何かから取り残されているような不安から訊いてみた。
「わたしたちのグループがたまたまそうであって、相変わらず演歌好きの人達の集まりは演歌が主になっていると思いますよ」
そんなこと、ちっとも気になさることないですよ。にっこり微笑んで私を見つめる眸は、まだドラマの中の主人公のように陶酔しているようだった。
そして肩が少だけ触れあった気がして私は思わず気持ちが動揺した。
「モモさんに時々家にきて教えてもらっているのですよ」
高峰さんはこともなげにモモさんのことを口にした。
「それでいくらか上手に歌えるようになったのかしら」
私は、えッ、あのモモさんが高峰さんのお宅へ、と聞き返した。それと同時に私の胸にかるい嫉妬に似た疼きを覚えた。
「あなたもよろしかったらおいでなさいよ。その時には連絡しますから」
高峰さんは何の屈託もなく快く誘ってくれた。
私はすぐには気持ちの整理ができなくて返答をいいそびれた。けれど胸につかえていたものが、スッ―と落ちていく気分だった。
「お邪魔ではないですか」
「かまいませんよ、ちっとも。二人で習ったほうが楽しいじゃないですか」
悪戯っぽい目で私をみると高峰さんは可笑しそうにふふふ、と笑った。目尻に微かな線が刻まれ、いっそう色っぽさが浮き立った。
私は高峰さんと、今こうして二人だけで薄暮れの街並みを歩いていると、なんとなく悩ましく心が騒いだ。このまま高峰さんと別れるのが惜しくて、何処かでもっと沢山話がしたいと思った。けれども誘う勇気もなく、断わられた時の落胆と気まずさを考えると、とてもいいだせなかった。
「ケータイの番号おしえてくださらないかしら、モモさんがいらっしゃった時には連絡しますから」
私はこの時はじめて自分がケータイを持って無いことにあらためて気づいた。
「新しい機種に切替えているところで手続きをしているのです」
咄嗟にそういったが、そんなことがあるのかどうかよく解からない。もし高峰さんが不思議そうな顔をしたら素直に白状しようと思った。
「じゃあ、わたしの番号をお教えしますから、また知らせて下さいね」
まったく疑う様子もなく高峰さんは街灯の下に立ち停ると、手帳を取り出して素早く記すと、はいこれといって手渡した。
私はうれしさで小刻みに震える手をさとられないように受け取ると、丁寧に折りたたんで上着の内ポケットの奥深くにしまいこんだ。
街角で別れてから家に辿り着くまで何度もその紙片を指先で確かめて、紛失しないように再びポケットの奥深くにしまいこんだ。
「ずいぶん遅かったのね」
私が玄関にはいるなり、奥の方から秋子のすこし皮肉っぽい声がした。
「みんなで打合わせをしていたのだ。今度のグランドゴルフの。そのあと本屋に寄っていたものだから」
カラオケにいったことや、高峰さんと、ついそこで別れたことなどとても話す気にならなかった。まして高峰さんとのことはまだ余韻がのこっていて誰からも触れてもらいたくない気持ちがあった。しばらくはじっと胸のうちに秘めておきたかった。
「ねえェ、これ見て頂戴。綺麗にできているでしょう。自分でも驚いているのよ」
秋子は今日つくったばかりのケーキをテーブルに置き、しげしげと眺めては私に話しかけた。
私はなんとなく話しに乗りきれない億劫さがあって黙っていたが、しばらくして、
「まるで店で買ってきたように見えるね。すこし手抜きしたほうが素人の手作りらしくてよかったかもしれないよ」
あたりさわりのない返事を返した。
思いのほかよい仕上がりに上機嫌の秋子は、
「そうね」
と素直に応じて、柔らかいスポンジの土台にクリームとフルーツが彩りよく、小粒のイチゴを上品に飾って仕上がっているケーキを愛おしそうに眺めた。
今日は私の誕生日である。
年齢を重ねるごとに祝う感情も薄れて、誕生会をしてもしなくてもさほど気にならなくなっている。むしろ誕生日のくる日を押し戻そうとさえしている今日この頃である。
今朝は私も秋子も誕生日のことは知っていながら一言も触れなかった。触れることで思わぬ摩擦を生じて言い争う危険性を避けたのかもしれない。
誕生ケーキを真ん中に二人でテーブルを囲んでいると、沈黙の夜が急に襲ってきて、失われた長い時間がよみがえってくる。その中に、子供達と賑やかに過ごした誕生会の日々が昨日のように鮮明に浮き上がる。
それにしても年々歳を重ねることが、これほどまでに素早く通り過ぎていってしまうのは何故だろう。夢や希望といった手がかりを失ってしまったせいだろうか。手持ちの残りの月日を数える愚かしい行為に明け暮れるせいだろうか。
「二人だけの誕生会ね。ローソクは年齢の数だけ立てるのかしら」
秋子はかるい冗談をいって暗くなりそうな雰囲気を変えようとした。
ところが、私が日ごろ忘れようとつとめていた年齢に思わず踏み込んでしまったことに気づいて、
「でもこうして元気で誕生会ができることはありがたいことだわ」
と、言葉をそえた。
そんな会話を交わしていると、テーブルの脇にあった秋子のケータイが鳴った。
少し慌て気味に二つ折れの機器の上蓋を開けて::、あら、綾香からよ、といった。
末娘の綾香は長い間、岡山で暮らしていたが、このたび夫の転勤で大阪のマンションに移り住んだところであった。
「すこしはそちらの生活に慣れたかしら」
秋子のはずんだ声だ。
この間、綾香が電話して来た時、引越しと同時に家の固定電話は廃止して携帯電話一本にしたと言っていた。――勧誘電話や何かの売り込みの話ばかりだから必要ないわ。これからはケータイで連絡して頂戴ね。ということだった。
「もしもし、まだよ。ずっと留守にしていたから」
「::::」
「これから届くかもしれないね」
妻の話の内容からどうやら綾香が私に誕生日のプレゼントを贈ったようだ。
去年は分厚い皮表紙に収まった月の不動産の権利書を送ってきた。土地の広さは二エーカーもあったから、ざっとサッカー場二面の大きさだった。
―今日からあなたも月のオーナーですー
月の写真の表面に針の先で突いたような赤い点があって、そこが私の所有した土地だと記してあった。
人類が月に到着して四十年近くなるのに、住宅や遊園地が出来たという話は聞いたことがない。どちらにしても私の知らない遠い先の話だろう。
綾香は予想外の思わぬ意表をついた贈り物をしてくるので、今回も期待で待ち遠しい気分もする。
「いまお父さん、ここにいるから換るわね」、
秋子が綾香と話していた途中に、いきなり私はケータイを渡された。
咄嗟のことで何を話していいのかわからず、娘の声だけはきんきんと伝わってくる。
「宅配便で送ったからそろそろ届くと思うけど。楽しみにしていてね」
私はありがとうのたった一言が出なくてうろたえていると、秋子がケータイをひきちぎらんばかりに取って、
「お父さん照てるのよ。私達これから誕生会するの」といった。
それから母娘のとりとめのない会話が延々と続いて、私はどこかへ追いやられてしまった感じだった。やっと終ると、
「貴方もすこしは慣れたほうがいいわね。綾香との連絡はケータイでしか出来ないのだから」
不服そうに言った。
私は投げ出されたように置かれたテーブルの上のケータイを眺めながら、こんな小さな機器に振り回されている自分が哀れにも滑稽にも思えた。
「綾香との連絡はケータイでしかできないのか」
独り言のようにいって、秋子のほうを見ると、
「そうよ、すこしはその気になってもらわなければ」
まだ何かいいたそうな口ぶりだった。
「うまくできるか心配だなあ、でもお礼の電話ぐらいうまく言えなくちゃあ。すこし練習始めてみるか」
私は自嘲気味にいった。
あれほどケータイに対して拒絶反応を示しておきながら、急に態度を変えることになんとなく私は気まずい思いをしていた。
「明日、早速ケータイショップにいってみたら。わたしも一緒に行ってみるわ」
秋子は先輩らしくいった。
「大丈夫だよ、一人で」
そういいながら私の内心は綾香との連絡より、高峰さんとの連絡のほうに気持ちが傾いていることに、父親として複雑な胸の痛みを覚えていた。
秋子は私がそんな気持ちでいることなど思いもよらず、意外にすんなりと乗り気になっていることに感心して
「いろんな機種があるけど、できれば綾香と同じものがいいわね。何かと便利だし、やっぱり、わたしもいくわ」
といった。
一緒に行く気になっている秋子をこれ以上拒むこともならず、
「じゃあ先輩におまかせしましょう」
私が少しおどけた調子で言うと、
「これでわたしも安心だわ」
秋子は心底ほっとしているようだった。
私は何だかすっきりしない後ろめたさを引きずりながら、
「綾香との連絡もいいけど、俺の外出先からの事故にもケータイで対応よろしくたのむよ」
真面目な顔つきでいった。
「そうよ。貴方だけではないのよ。わたしの事故でも対応よろしくね」
おうむ返しに返ってくる秋子の言葉に、私はうんうんと頷きながら、今夜高峰さんからもらった紙片を思い浮かべていた。そして、罪の意識を多少抱きながらも、密かに二人だけで話し合えるかもしれない今後を思うと、年甲斐もなく胸が高鳴るのだった。