C 私の思い出の彼 ジエラールフィリップ 2664
私には沢山の彼の想い出がある。沢山いすぎて選べなかったし、やはりぴったりの彼はいなかった。みんな後から後から気に入ってしまうんだもの。タイロン パワー、クラーク ゲーブル、ジャン マレー、オーソン ウェルズ、ローレンス オリヴィエ、ジェラール フィリップ等々、なんだ、見た映画全部じゃあないか、そう、映画に出たかっこよい男性はみんな私の彼なのだ。
特に風と共に去りぬのレッド バトラー、バトラー船長は魅力たっぷりだった。第三の男のオーソン ウェルズも良かったなあ。どちらかと言うと、この人達は男らしい男だが、ジエラール フィリップはやさしい線の細い、いかにもフランス的な好男子だ。赤と黒とか、パルムの僧院、肉体の悪魔など、いかにも彼らしい、知的で悪魔的な魅力はたまらなかった。
とにかく、私の世界は広かった。長年読み砕いたレ、ミゼラブルのジャンは私のなかで、一人の男性として生きていて、映画を見た時の失望感は限りなく大きかった。僧院に泊めて貰った上、銀の食器を盗み出し、逃げようとして寝ている神父の脇を通り、ふと殺意を抱くが、その時、ひとすじの月の光が窓からサッと射し込み、安らかに寝息を立てている神父の顔を照らした。神にも似た気高さに畏れを抱きそのまま逃げたジャン。村を走り去る時、銀の食器を怪しまれ、捕らえられて次の日、神父のもとに連れて行かれるが、それを見た神父は、それは、ジャンに遣った物だと警官に言い張る。
それからのジャン ヴァル ジャンは生まれ変わって日ごとに高貴な、男らしい男になってゆく。岩窟王、モンテ クリスト伯もそうだ。
憂愁を秘めたジャン、そしてモンテ クリスト伯爵は映画のそれと全く違って、時にはキリストのような気高さを感じた。
では、何が私の彼、ジェラール フィリップなのかと言うと、同級生の中に一人ハンサムなのがいて、東京時代良く遊んでくれた。彼は背は高く、頭もよく、ほどほどに砕けていて面白かった。
そしてその人が私の青春を彩るかけがえの無いスター、私の想い出の彼 ジェラール フィリップなのだ。
中学では彼はAブロック、私はBブロックなので〔マンモス校なので〕名前くらいしかお互い知らなかったと思うが、高校を卒業して東京に行ってから何となく行き来するようになり、私の東京時代の唯一のボーイフレンドとしての役を果たしてくれた。彼は汽車通だったので、帰省ばかりする私と良く行き会った。そんな話の中で、たまに、一人で銀座の銀馬車に行って一杯二百五十円〔その頃一杯百五十円〕のコーヒーで生演奏を聞くのが楽しみなのよ、と言ったのを耳に挟んで呉れて、卒業前くらい案内してやるよ、とダンスや、音楽会に連れ出してくれた。中学生で正式な社交ダンスを習い、学校でも体育に社交ダンスをやっていた私に踊る場を与えてくれたのが唯一、私のジェラール フイリップだった。女だけの学校で遊びにも行けないだろうから、と良く連れて行ってくれたのが飯田橋松竹だった。なんか映画館みたいな名前のダンスホールだが、楽団が良かった。チャーリー石黒と東京パンチョスが特に良かった。
進駐軍が接収していたアメリカ人専門のダンスホールだけあって華やかではないが、本格的なホールだった。
銀座のオアシスにも行ったが、飯田橋松竹の方がずっとよかった。私の下宿にも良く来てくれた。下宿は駒沢にあり、私の父の母、即ち私のおばあちゃんの妹の家の二階の八畳間を占領していた。
そこは、もと、大きな植木屋で大樹園と言った。おいのさんというおばあちゃんの妹はおばあちゃんに良く似て、とても綺麗な人だったが、子が無く親戚の子を養女として迎え入れ、復員してきた人の良い婿さんとの間に三歳と五歳の男の子がいた。春という名で春さんといつも呼んでいたが、琵琶の名手だった。春さんはいつも彼が来ると、ハンサムでいいねえ、いい男だねえ、と云ってとてもサービス良く接待してくれた。羨望のまなざしだった。インテリジェンスが有り、背が高く、品が良く、礼儀正しく、あたりも柔らかく、春さんはとても気に入って良くしてくれたから、彼も良く来た。
その頃の私といえば、黒髪は背を流れて腰の半分位あり、パーマはかけていなかった。私もすらりとして、自分でいうのもなんだけれど、連れて歩いて恥ずかしいようではなかったから、彼も良く来たのだと思う。自分で言うのだから、絶対正しい。
今は見る影も無いのも正しい。
連れ立って皇居前広場を歩きながら、お父さんはねえ、若い頃良くこの辺を歩いたんだよ、なんて子供にいうんだろうねえ、なーんて笑いながら言ってたっけ。授業が終わってから、歩くのは大体夕暮れに近いころ、薄暗くなる頃で、皇居前広場から見る東京の夜景は田舎者の私にとっていつまでも眺めていたいほど綺麗だった。
ブラブラと歩きながら彼のお母さんの住む麻布広尾町あたりまで行って、若い頃はどんなにかお綺麗だったろうと、往時をしのばせるような品の良い方にお会いした事もある。
彼の父親はそのような美しい妻を娶りながら、重大なる裏切りをした。凛とした母はそれを許さなかった。それから一人東京に住んでいる事を聞いてはいたが、本当に美しい人だった。美しい人の行く末は儚いものなのかも知れない。彼の面差しは母譲りだった。
私の中にいる彼を私は変えたくなかった。
飯田橋松竹で、チャーリー石黒と東京パンチョスの生演奏に酔いしれながら、いだき合い、ほほ寄せ合って踊った昔をそのままにしておきたかった。
何十年も経って一度会いたい、と言う彼の申し出を私は蹴ってしまった。彼は本当に昔よりいいくらいと言うあなたの言葉は本当でしょう。だけど、私はどうなの?
私だって昔のままではない。昔とは違った良い面もあるかもしれないけれど、そう思いつつ再びのお誘いも無視してしまった。
それでいい、と思っている。私の中の彼は、明治大学の二年生、古賀政男の率いる明治マンドリンクラブの演奏を神田共立講堂に連れて行き、明治では古賀政男は天皇陛下以上だよと、熱っぽく語った彼、宮城まり子のガード下の靴磨きの、なまの七色の声のあまりの素晴らしさに驚き、デビューしたばかりの島倉千代子のりんどう峠の透き通るような声に感激したあの日は、今も彼の面差しと共に私の目の前にある。あの日、隣に座っていたのは大学生の彼でいくら、素敵な中年でもいや、私にとって、彼はあの頃の大学二年生でいてほしかった。亡くなられたと聞き、思い出はいや増した。
この項を在りし日のジェラールフィリップに捧ぐ
あの日 十九歳であった黒髪の長き乙女より