「やはりマイちゃんの病気は膀胱結石のようだね」
タオルで手を拭きながら獣医師の岩城信次は幼い子供を連れた心配そうに愛犬を見守る飼い主に説明を始めた。
「オシッコを何度もして、それに血が混じっているんですね。確認の為、レントゲンを撮りましょう」
五十六KV,、十四mA,、0,三sec、フイルム四ツ切、いつものように手馴れた手順でセットを終えた。
「じゃ、お母さんはこの防護ガウンを着ていただいて、お嬢チャンは少しの間その壁の向こうに居てくれるかな」
数分後、シャーカステン上のフィルムには飼い主の腕に抱かれているマイちゃんと呼ばれるヨークシャテリアの下腹部に直径二cm大の白い陰がくっきりと映りだされていた。
岩城が人口十五万にも満たない裏日本のこのR市に開業獣医師として谷川獣医科医院の後をうけて看板を掲げてから七年が経つ。元々は地方の獣医学部を卒業した後、関東地方のある製薬会社の薬品開発部で実験用動物の管理者として勤務していたのだが、来る日も来る日もビーグル犬の飼育管理の明け暮れに、自分の将来像を見失いかけてた頃、専門誌に載っていた『代診募集、いずれ病院の経営権、譲ります。当方高齢の為、責任を持って引き継いでくださる方希望。R市、谷川獣医科医院』の記事を見て、何のためらいもなく二年間勤めた会社を辞し、この地へやって来たのである。
その時期、日本経済は成長期にあり、国民の生活水準もかなり高く安定してきており、愛玩動物、特に犬猫においては一時のブームといったものではなく、着実に人間生活の中にその位置を占め、飼育される数も格段に増え、小動物を対象とした獣医師は子供たちにとって憧れの職業の一つとなっていた。
病院を譲ろうとした老獣医師の谷川喜一郎は、この地方の古い地主の一人息子として生まれた。元々,獣医業とは関係のない家柄では有ったのだが、父親が一時期、博労の世界に手を染めたこともあり、又、戦時中、軍隊では軍用馬を扱う獣医師は待遇が良い、或いは前線に赴くことも少ないだろう等の理由で獣医師になることを勧められ、獣医師となった。
戦後は実家で農家の牛、馬を中心に診療を行ってきたが、時代の変遷と共に牛馬は農業用機械に取って代わられ、それら酪農の凋落ぶりは甚だしく、仕事量は急速に減っていった。
大動物を扱ってきた獣医師が、犬猫等、小動物に鞍替えすることは気持ちの上でかなり抵抗もあり、仕事の質の上でも容易ではないが、時代の流れを読む目を持っていた喜一郎は早期に小動物用の新しい医療機器を揃え、若い先生達に混じって勉学も積んで、積極的に小動物診療への転進を図ってきたのである。
しかし、その喜一郎の晩年は実にさびしいものであった。
妻、一人息子、そしてその嫁を事故や病気で相次いで失い、孫娘の佐和子と二人だけの生活を送っていたのである。
そんな中、病院を継ぎたいとやって来た岩城にそう悪くない印象を持った喜一郎は、まるで自分の実の子が後を継いでくれたかの様に何くれとなく岩城の面倒を見てきた。
臨床経験のない岩城に手取り足取り、自分の持っている知識、技術の全てを教え、又、時には自分の住まいに呼んで佐和子が作った手料理をつつきながら酒を酌み交わし、談笑することもしばしばあった。そんな状態が三年近く続いたある日、喜一郎が病に倒れた。
肺がんだった。
自分の死期をうすうす感じるようになった喜一郎が、息のある間に孫の佐和子と岩城との結婚を切望したのもごく自然のことであったのかもしれない。
見舞いに訪れた岩城に、佐和子を買い物を理由に退室させ、苦しい息使いの中、喜一郎は自分の思いを初めて打ち明けた。
「どうだろう、信次君、正直に言ってほしいんだが、君は佐和子のこと、どう思っているんだね?」
「はあ、‥‥」
「君にも判っていると思うが、私はこの先そう長くはない。佐和子のことが気がかりでしょうがないんだ。あの子ももう二十一になる。もし、もし君さえ良ければ、佐和子を貰ってやってくれないだろうか?」
「はあ、しかし‥‥」
「佐和子の気持ちは心配しなくていい、君の事、悪くは思ってないようだ。私には判る」
岩城も佐和子のことは嫌いではなかった。とりわけ、色白の肌に母譲りの切れ長の涼しい目元が好きだった。控えめな人柄も気に入っていた。母親が亡くなった後、かいがいしく祖父、喜一郎の面倒をみる姿を見て、いつしかほのかな恋心を抱くようになっていた。
佐和子と一緒になることで今の病院は元より、谷川家の財産が自分のものとなるちう打算も働いていた。それが今、返事次第で現実のものとなろうとしている。が、岩城は冷静を装って言った。
「先生、お気持ちは大変有り難いのですが、自分はともかく、佐和子さんの気持ちが大事です。少し時間をいただけませんか」
「わかった。君は実に謙虚な男だね。でも、どうか私を安心させて死なせてくれよ」
それから三ケ月後、亡き谷川喜一郎の意志を次いだ結婚式が慌ただしく準備され,ささやかに執り行われた。九年前のことであった。
「村田、矢田ちょっと来てくれないか?」
R市にあるR県警刑事課捜査第一課、柳井課長のデスクに二人の若い刑事が呼ばれた。
一人はスラリとした長身に三ッボタンのスーツを自然な感じで粋に着こなしている矢田と言う刑事。その瞳にはまだ少し少年の持つ透き通った正義感が仄かに残っている。
もう一人の村田と呼ばれた方は矢田とは対照的なずんぐりとした体型で、まさに柔道で作り上げた体と言っていいような太い腕、厚い胸の持ち主で、耳は格闘家のもののように多少変形している。
「実は今日の捜査会議の席で一通の手紙が議題に昇ったんだ。君たち知ってるかな、市内の岩城獣医、犬猫病院についてのものなんだ」
矢田と村田は良くわからないのか顔を見合わせた。
「俺は知ってるんだ。以前、女房が我が家の猫を去勢に連れて行ったことがあるんでね」
「キョセイ?」矢田が聞き返した。
「オカマだよ。お、か、ま」
「‥‥」
「金之助って言うんだ」
「はあ?」
「猫の名だよ。キンを抜かれた金之助」
ごま塩の坊主頭,一見、恰幅のいいどこかの村長といった風貌の柳井課長は真面目な顔をしてほとんど受けない冗談を言って部下の顰蹙をかっている。
「その内容なんだが‥」
柳井は机上の孫の手で背中をガシガシ掻きながら続けた。
「ずばり言うと、今年二月、奥さんが病院で亡くなった後,数億という多額の保険金が入ったこと、それにその先生には若くてきれいな愛人がいらっしゃるとのことだ」
「それは誰から出されたものなんですか?」
村田が胸ポケットから手帳を出しながら尋ねた。
「匿名だからわからん。多分身近に居る人間だろう。警察もタレコミにいちいち時間を割くほど暇じゃないんだが、犯罪の臭いがすれば放ってはおけんだろ」
「で、この件の臭いは?」
矢田が柳井の真意を質すかのように聞いた。
柳井はいつも愛煙している両切りのたばこを缶から一本抜き出して火をつけて言った。
「んー、まあ、悪臭ふんぷんってとこかな。タレコミには中に恨み、妬み、羨望からってのもあるが、義憤に駆られてってやつもあってな、過去にいくつも事件解決のきっかけになった例はある。しばらく岩城の身辺を洗ってみてくれるか。昔から言うだろう。火のないところに嫌煙権」
上司の面白くない冗談に二人の部下は又かと顔を見合わせて苦笑した。
矢田、村田のチーフに寺田刑事が当てられた専従班が作られた。約一ケ月に渡る内偵の結果、次の様な報告が柳井の元に出された。
岩城信次、三十八歳。地方のY国立大学獣医学部を六年間特待生で通した優秀な学生だったこと。卒後、東京の製薬会社へ職に就くが二年後、退職しフラリとこの地にやってきて谷川獣医科医院へ代診として雇われたこと。三年後、谷川喜一郎死亡の直後、孫娘の佐和子と結婚。結婚を機に病院名を岩城動物病院と改名。四年後、スナックで働いていた当時十八歳の圭子と出会い、現在に至るまで愛人関係が継続していること。三年前、以前の谷川獣医科医院を取り壊し、同地所に新たに病院を建設、また、病院建設に併せて谷川喜一郎の地所の一部に自宅を新築したこと。昨年、妻、佐和子が発病し入院、約一年間にわたる闘病生活の末、今年二月死亡。病名、急性骨髄性白血病。生命保険会社より二億二千万の保険金を受領。
「六年間特待生だったとはかなり頭のいい人物だな。それまではどんな家庭環境で育ったんだ?」
書類を読み終わって柳井はうまそうに例のたばこを燻らせながら寺田に聞いた。
寺田は困ったように油ッけのない頭を掻きながら答えた。
「生まれはY県のLという小さな村だったようですが、その後あちこちを転々としていてはっきりした生い立ちはわかりませんでした」
「そうか。‥‥矢田も村田もまだ独身だからちょっと想像してみてくれ。君たちが将来、家庭を持った時、生命保険を一体誰に掛けて誰を受取人にするんだ?」
「そりゃあもう、決まってるよな。愛する奥さんの為の保険だよな、矢田」
村田が矢田に同意を求めた。矢田はうなずきながら手帳を見て言った。
「しかし課長、保険の契約時期もおかしいと言えばおかしいんですよ。病院、自宅を新築した後、数社の保険会社と契約を結んでいるんですが、いくら病院が繁盛しているか知れませんが、建築費のローンの他,月数十万の保険料は尋常じゃありません」
「他人の台所はわからんよ。ところで亡くなった佐和子さんとの夫婦仲はどうだったんだ」
手帳をめくりながら寺田が言った。
「そうですね、はじめの三、四年は大変仲は良かったようです。結局、子供は出来なかったんですが、その内、愛人の存在が奥さんにも知れることとなって、生前、友達に語っていたところによると、家を新築してからは全くの家庭内離婚の状態だった様で、奴さんは地下に作った自分のオーデイオ室,奥さんは自分の部屋で寝起きしていたようです」
「オーデイオ室?」
柳井は書類から再び目を上げ、メガネを外しながら寺田を見た。
「ええ、クラッシック音楽の鑑賞が奴さん唯一の趣味だそうで、工事を請け負った会社の社長が言ってました。防音の為とはいえあんなにコンクリートをたっぷり使った地下室は初めてだ、まるで核シェルターだって」
「そうか。じゃ,引き続いて寺田君、君は佐和子さんが入院していた病院で発病から死に至るまでの経緯を詳しく調べてくれ。矢田、村田の両君には岩城が仕事上取引している薬品会社を当たってもらう。この5年間、仕入れされた薬品、特に劇物、毒物の指定を受けているもの全てを洗い出してほしい」
高鼻を使って獲物の臭いを感じ取り、ポイント状態から飼い主の指示で一気にブッシュに飛び込んでいく猟犬の如く、三人はわが意を得たりと部屋を飛び出していった。
圭子は回りにまだ田園風景が広がる町外れにポツリとたたずむ、マンションと呼ぶには少々お粗末で古びた建物の一室を借りて、病弱な母親と二人で暮らしていた。
以前、圭子の父親は、隣のT市で大手電気メーカーの部品を作る下請けの更にその下請け工場を営んでいた。小さな町工場とはいえ、景気の最盛期には社員を二十余名も使って、かなりの収益を上げ、家族の暮らし向きもよかったのだが、そんな状態が安定して続くわけもなく、下請けの仕事は、世の中の景気に鋭敏に反応して左右に振れる細い針の様なもので、山を越すとたちまち注文が滞った。その内、資金繰りに行き詰まり、とうとう出していけない高利の町金融に手を出してしまい、朝夕を問わず続くタチの悪い執拗な取立てに責め続けられ、それまで実直に生きてきた父は、遂に耐える限界を越え、自ら命を絶った。それは圭子がまだ小学校三年生の事であった。
長年住み慣れた土地、家屋を容赦なく取られ、親子二人は逃げるようにしてこのR市へ住み着いたのである。それまで両親の愛を一身に受け、大切な一人娘として大事に育てられてきた圭子が、大学進学も断念してスナック勤めを始めたのも、母親の面倒は自分で看なければという健気な気持ちからであった。
その圭子と岩城に運命的な出会いが訪れた。
その日、地区の獣医師の会合が終わった頃、街はすっかり暗くなっていて、大粒の雨が激しく降っていた。岩城はタクシーでも拾って帰ろうかと思案していると、後ろから同業の先生が声を掛けてきた。同業とはいえ開業暦では岩城の八年先輩にあたる。
「岩城君、少々疲れたね。この雨だし、どう、一杯やっていかないか?」
「いいですね、そうしましょうか」
岩城は酒は嫌いではなかったが、外で飲む事はまず無かった。しかし、この時は先輩の先生から親しく声を掛けられた嬉しさもあって、心の隅に佐和子が食事を作って待ってくれてるだろうとの思いを残しながら従う事にした。
狭い路地を挟んで小さなバー、スナック、焼き鳥屋、ラーメン屋が軒を連ねて並び、それぞれが客の来店を待っている風情だが、この生憎の雨でひと気もまばらだ。
二人は雨を避けながら軒先沿いに先生行きつけのスナックへ小走りに向かった。
“兄弟何とか“という演歌が流れる一軒のスナックへ入った。
客はまだ誰も居ない。
「あーら、先生、いらっしゃい、お久しぶり!」
その店のママらしき小太りの女性の甲高い声に迎えられた。
十脚ばかりの止まり木と、後ろに粗末なソファーが1セットおかれた小さなスナック。
正面には多分この店の常連客が趣味で撮った風景写真だろうか、ややセピア色になって額に飾られている。後ろの薄暗い壁には一角がめくれ上がったドガの“踊り子”の摸像画が場違いな感じでピンで貼り付けられている。
カウンターの中には先ほど大声を張り上げた四十半ばのママと二人の若い女性がいた。
「まあ、こちら初めての方ね、水も滴るいい男、うれしい!」
「おいおいママ、雨に濡れてるのは俺だって一緒、すねちゃうぞ」
「あーら、ごめんなさい。ついついお若い方に目がいっちゃって」
「ママ、誘惑しようたって駄目だぞ。この先生、まだ新婚ホヤホヤなんだからな」
「いや、先生、もう四年も経つんですから‥」
「おや、そちら新人のようだね。ママ、何ていう子?」
「圭ちゃん、オシボリお出しして、圭子といいます。今日で二日目、先生よろしくね」
圭子と呼ばれた女性が二人の前に良く冷えたオシボリを黙って差し出した。
茶髪にしたもう一人はつまらなそうにカウンターの端っこでこちらを見ている。
「そうか、今日で二日目か」
先輩獣医はいたく気に入ったらしく、上機嫌で、犬は好きか、今まで何か飼ったことはあるか、昨日、珍しい犬が病院に来てね等とたわいない話題を圭子にふった。
少し背伸びしながら、それに一つひとつ真面目に考えて言葉を選びながら答えている圭子を岩城は横で眺めていた。
控えめに笑った笑顔が初々しく見えた。品良く少し勝気に上向き加減の小さな鼻が可愛いと思った。スラリと伸びやかに育った身体に濃紺のワンピースが良く似合ってると感じた。後ろに束ねた黒髪が歳以上の大人の女性を匂わせた。そして黒目がちの瞳の中に凛とした潔さと強さを見た。ただ、その中に埋めようにも埋められない様な寂しさが混ざり合ったものが岩城に伝わってきた。これは岩城自身の心にも存在している同種ものでもあった。
圭子も又、岩城に対して同じ様に感じていたのかもしれない。それはちょうど対置した二枚の金属板が互いに共鳴し始める様に‥。
それ以来、岩城のスナック通いが始まった。
圭子も落ち着いた物腰と誠実そうな岩城の人柄の中に亡き父の面影を見たのだろうか、次第に心を開き、何かと相談を持ちかけるようになって、いつしか妻佐和子の眼を盗んで二人だけで逢うような間柄がこれまで続いていた。
「圭子、君には今まで随分辛い思いをさせてきたね。佐和子の喪が明けるのを待って籍を入れて一緒に暮らそう」
腕枕した右手で圭子の髪をいじりながら耳元で岩城は言った。
「‥とても嬉しいんだけど‥、私には母が‥」
「何を言ってるんだよ。君のお母さんにも一緒に来てもらうつもりだよ。君の親父さんが亡くなられてから大変なご苦労をされたじゃないか、放ってはおかないよ。それに俺自身、母親の味を知らずに今まで生きてきたからね。二人で親孝行しようよ。なっ」
岩城は今まで圭子に自分の生い立ちについて一切話さなかった。触れたくなかった。いずれその時が来ればと避けてきた。
「ほんと!本当にそう思ってくれるの?嬉しい!‥わたしね、今まで何度もあなたと別れようと思ったの。あなたと離れて全く新しく生きて行こうと思った。特に佐和子さんが入院なさった時、母と一緒に住まいを変えてあなたの前から姿を消そうと思った。あなたから伺っていた佐和子さんって素晴らしい方だったでしょ、その方のご病気がなんだか自分のせいの様に感じたの。‥でも、どうしても出来なかった」
岩城は圭子を心からいとおしく思った。どんなことがあってもこの娘を幸せにしようと思った。圭子の今までの不幸な生い立ちを自分のこの手で消し去ってやろう、それは岩城自身が背負ってきた過去をも共に消し去りたいと言う思いに繋がっていた。
「ひとつ気になることがあるの」
「なんだい?」
「最近、わたしの職場とか、家の周りで刑事さんが何だか聞き込みをしてるみたいなの、わたしと貴方のことで。何かあったの?」
「刑事が?」
枕もとのタバコに手を伸ばしながら岩城は言った。
「心配することなんか何もないよ。何を調べてるのか知らないけど、俺たちには何も関係ない」
「‥‥。」
「それより圭子、海外旅行に連れて行ってあげるよ。来月、スイスに行くことになってるんだ。少し早いけど俺たちの新婚旅行だと思って‥」
圭子は目を輝かせて岩城の胸に顔を埋めた。
寺田からの説明を聞いて柳井は大きくウーンと唸って天井を見上げて頭をかいた。
「と言うことは、佐和子さんの死亡に関して一切の疑惑はないと担当医は言ってるんだな」
「そういうことです」
柳井は寺田の報告をもう一度頭の中で整理してみた。
病院のカルテに記載されていた佐和子の初診時の症状。発熱、わずかな鼻出血、身体に二,三できた紫斑、貧血による目まい、倦怠感等、など典型的な白血病を疑わせるものだったこと。数々の検査の結果、急性骨髄性白血病との診断がつき、直ちに入院。化学療法を中心とした治療が始まり、しばらくは安定した状態が続くも、骨髄移植のドナーを待つ間、急性転化を起こし医師、看護師の見守る中、死亡。
「この通りだとすると犯罪の香りすらしてきませんね」
力なく寺田がつぶやいた。
「保険会社がすんなり保険金を支払ったのもそういうことなんだろうがね‥」
メガネを外し、目頭を指で押さえながら柳井も肩を落とした。
「佐和子さんの入院中に岩城が何か不審な振る舞いがあったということはなかったのか?」
「はい、完全に病院の管理下にありましたから、岩城が佐和子さんに何かをやったとは思われません。それどころか、岩城は仕事が終わるとほとんど毎日のように佐和子さんを見舞って、死の直前まで彼女を励ましていたそうで、岩城は病院中の看護師の同情を一身に集めていたようです。佐和子さん自身も死の2日前まで意識はしっかりしていた様で、もしなにかあれば病院側に伝わっていた筈です」
柳井は深いため息をついた。
「矢田君、君の方、聞かせてくれ」
「はい、岩城が仕事上取引していた薬品卸会社は三社で、取り扱った薬品の中に毒物に関する品目は一件もありませんでした。劇薬については全部で三十六品目,医療品外劇物5品目」
「医療品外劇物とは?」
「これは主に院内での検査用試薬を作る目的のようです。劇薬物指定の薬品はいろいろあるんですが、主に鎮静、鎮痛、鎮咳,麻酔関係、強心剤、殺虫剤、消化器官に対する物、この他、点眼薬、抗糖尿病薬、ホルモン剤、化学療法剤、インターフェロン、いや、こんなにあるとは思いませんでした。これらの薬品はどの動物病院でも日常的に使用されているようです」
「以前、世間を賑わせた愛犬家殺害事件で悪用された筋弛緩剤はどうなんだ?」
「はあ、これについは私も知っていましたからよく注意して調べましたが全く納入された形跡はありませんでした」
四人の間にしばらく重い空気が流れた。
その空気を振り払うように矢田が言った。
「課長、でもやっぱり変ですよ。例え病死だったにしろ、一人の善良な女性が死亡し、その裏で大金と、かなりの財産、それに若くて魅力的な女性を手にした男が平然と生活を送っているなんて、奴がきっと何か手を打ったに違いありません」
「状況は確かにそうだが、それだけではどうにもならんことは君にだってわかるだろう」
柳井は気持ちを抑えるかのようにタバコに火をつけた。
「これでは亡くなった奥さんの佐和子さんが全く浮かばれませんよ」
矢田が更に食い下がった。
「佐和子さんにしてみれば暗い夜道を歩いていて突然、工事中の穴に落ち込んだような身に覚えのない不幸じゃないですか」
「工事、魔多し、か」
「えっえーん」
それまで黙って聞いていた村田が柳井のその場の雰囲気にそぐわない詰まらない駄洒落をたしなめる様に大きく咳払いをしてボソリと口を開いた。
「課長、ひとつ気になる情報があるんですが」
「なんだ」
「岩城と愛人の圭子がつい最近パスポートを取得しているんです」
「なんだって」
灰皿に付けたばかりのタバコを押しつけて柳井は村田を見た。
「課長、奴は高飛びする気ですよ。すぐに身柄を確保しましょう」
矢田が身を乗り出す。
しばらくの間、孫の手をもてあそんで考え込んでいた柳井が言った。
「駄目だ。佐和子さんの死に岩城の関与が立証できない今の状況を突き崩さない限り、身柄の確保はおろか、任意の事情聴取さえ無理だ」
より、重苦しい空気が四人を包み込んだ。
腕組をして天井を睨んでいた柳井が突然ニヤッと笑い三人を見て言った。
「よし、俺が直接岩城と会おう」
「課長、たった今、事情聴取も無理だって言ったじゃないですか」
「誰が事情聴取だと言った。うちの金之助に一役かってもらうんだよ」
三人は何のことかと互いに顔を見合わせた。
「金之助を連れて病院へ行って来る。心優しき愛猫家としてな」
街の南西部に岩城動物病院はある。
市の中心部より外れた場所ではあるが、街へ通じる基幹道に面しており、新築されて三年、アイボリー色に統一された洋風なしゃれた造りの病院はかなり目立った。内部も明るい色にまとめられ、待合室には人造大理石が使われ、天井に届きそうな観葉植物が置かれて、病院というより品のいい美容院といった感じだ。
受付の若い女性に住所、氏名を告げて柳井は診察を乞うた。
課長の椅子にドッカと座って孫の手で背中を掻いている姿がやはり柳井には最も似合う。
金之助を抱いて待合にすわっている今の柳井は、単なる猫好きの気のいいおじさんに映ったに違いない。
卓上のパソコンをなれた手つきで操作していた女性が言った。
「柳井金之助君ですね、診察室へどうぞ」
ヤナイキンノスケ、柳井は自分の猫がまるで我が子のようにフルネームで呼ばれたのを何とも妙な気持ちで聞いた。
診察室の奥のドアが開いて長身にケーシ型白衣が良く似合う岩城が入ってきた。
柳井の目が一瞬、刑事の目になって岩城を見た。
‐この男が岩城か‐
刑事と言う職業的な眼力がどれ程人間の本質を見抜くことが出来るのか。
柳井はこれまで何人もの犯罪者を見てきた。大胆、粗暴、非情、感情のコントロールが効かなくなった人間、小心で卑劣、見栄っ張りな人間、平然と嘘をつく人間、信頼をこともなく裏切る人間、緻密な計画に自ら溺れ墓穴を掘った人間等など、いずれも内から次々と湧き上がる果てしない欲望に自らが振り回され、人の道に外れた者が持つ独特の空気を漂わせ、臭いを放つ。
柳井はその様な臭いを嗅ぎ取る嗅覚には絶対の自信を持っていた。
「先生、金之助の具合はどうですか?」
「そうですね、体温も異常ありませんし、聴診しても特にどこがどうってことはなさそうですがね」
それもそうだろう、元気でピンピンしている金之助を無理やり捕まえて連れてきたのだから‥。
「しかし、昨夜は何も食べませんで‥。でも、まあ、大したことじゃなくて良かった、良かった。ハッ、ハッ、ハッ、ハッ‥」
柳井はばつの悪さを笑ってごまかした。
「ところで先生、奥さんを亡くされたそうで、お子さんもいらっしゃらない様だし、随分とおさみしいでしょう。それとももう既にいいお方でもおられるのかな。あっ、いや、詰まらんことを聞いてしまいました。ハッ、ハッ、‥」
柳井は何と下司な聞き方をしたものかと自嘲した。
岩城は手を洗いながら黙って聞いた。
「先生、ひとつ教えてくれますか、お仕事柄、動物に安楽死をされることがあるんでしょうが、どんな薬を使うんですか?」
「そんなこと聞いてどうなさるんですか?」
「あっ、いやいや、将来この猫もそのお世話になることになるかもしれませんからね、後学のために‥」
診察台の上でまるでその意味を理解したかのように金之助が柳井を睨んだ。
「主に麻酔薬を過量に使用します。時には電解質も使ったりしますがね」
「電解質って?」
「そうですね、時に身体に必要なもの、とでも言っておきましょうか」
「いやあ、先生、随分余計なことを聞いてしまい失礼しました。金之助の様子を見て、又来週来ていいですか?」
「実は来週から海外へ出掛けるんです。スイスで世界獣医学会がありましてね、一週間ばかり」
「学会ですか、先生、そのまま海外暮らしって言うんじゃないでしょうな。帰ってきてくれますよね」
「もちろん帰ってきます。でもどうして」
「いやいや、帰って来ていただかないとこの金之助をはじめ、多くの犬猫がこまりますからな。ハッ、ハッ、ハッ、‥」
「わかりました。ところで柳井さん、今日はお仕事で来られたんじゃないんですよね?」
「はあ?」
柳井は内心ドキリとして岩城を見た。
「警察にお勤めとか、奥さんから伺っていました」
「‥‥」
柳井はある種の敗北感を感じながら病院を出た。ただ、岩城の不動な自信を感じ、奴は必ず帰って来ると言う確信は得た。しかし、その自信が一体どこから来るものかと思った。岩城が“黒”だという思いが一瞬揺らいだ。
表通りには十月にしてはやけに冷たい北風が吹いていた。
柳井の腕の中で、金之助がブルッと身震いして可愛いクシャミを一つした。
スイス、チューリッヒの秋は日本よりずっと深かった。
中世の面影を残す町並みには、街路樹の落ち葉が路面に踊り、人々はコートの襟を深々と立てて行き交っている。リトマ川沿いに建てられたネオ、クラシカル様式の外観が美しい古風なホテルに、圭子は女学生に戻った様にはしゃいだ。そんな屈託のない圭子を岩城は初めて見た様な気がする。一緒にここまでやって来て本当に良かったと思った。
三階にある部屋のテラスからは、遠く、既に白い頂を持ったゼンテイス山、その麓から細長く連なるチューリッヒ湖、そしてホテル前をたおやかに流れるリトマ川へと一望できる。
昼間、岩城が学会へ出掛けている間、圭子は連日、美術館めぐり、あるいは歴史的な老舗をのぞいたり、又は街角の小さなカフェで往来を眺め、ゆっくりコーヒーを楽しんで過ごした。
岩城と知り合ってこんなに自由で、こんなに安らかで、こんなに晴れやかな気持ちになれた事がこれまであったのだろうかと圭子は思った。お互い、愛し合い、信頼していたとはいえ、一年、二年経つ中で、愛する人と太陽の下を堂々と肩を並べて歩いていけない我が身をどれ程嘆き苦しんだ事だろうか。日陰の身に甘んずるには圭子の若さが耐えられなかった。八方ふさがりの中、どれ程の時間、心からの笑いを忘れていたことだろうか。
しかし、圭子は今、この地で新たに生まれ変わっていく自分を感じていた。未来に広がる穏やかな希望の光を見た。
スイスでの最後の夜、二人は市内の湖畔を望む静かなレストランで過ごした。
キャンドルの薄明かりに浮かぶ圭子の幸せそうな顔、おいしそうにフランス料理を口に運ぶ様子を、岩城自身ワインのほのかな酔いの中で満たされた気持ちで眺めていた。
この旅は二人の人生が重なり合い,新たなるページがめくられた旅だと思った。
この地は二人で歩み始める再生、出発の地であり、将来、いつか又二人で訪れようと心に誓った。
この夜の圭子はいつもと違っていた。
いつもは岩城が灯した小さな火種が少しずつ燃え育ち、いつしかその炎が主張をし始め、遂には岩城を大きく包み込んでいくのだが、しかし、この夜の圭子は違った。
熱い炎は最初から自らの意思を持つ大きな炎だった。岩城は戸惑いながらもその炎に終始身を委ねた。それは岩城にとって始めてのことだった。
隣のベッドから圭子の安らかな寝息がかすかに聞こえてくる。
岩城はそっとテラスに出た。ひんやりとした夜気がガウン越に今は心地いい。
空には下弦の月が輝いている。静寂の中、遠くに見える湖の水面に街路灯の明かりがいくつかユラユラと映って見えた。岩城はタバコに火をつけ、ぼんやりとその光景の中で考えていた。
月の光や、街路灯の灯を映し込んで湖面が輝いて見える。実にきれいだ。
しかし、一見きれいに見えるあの湖も,その湖底に溜まったヘドロをかき回せば死んで悪臭を放つ腐敗した魚、汚物、多くの虫の屍骸、有害なガス、ごみ等がワラワラと湧き上がってくるに違いない。
今、自分がきれいだと感じて眺めているこの月の光も、街路灯の灯りも実は汚くて醜い湖から反射しただけの光、云わば嘘の光、虚光ではないのか。
思えば自分の今までの半生も虚光を放ちながらのものではなかったのか。
山深い小さな寒村で貧農の倅としてこの世に生を受けた自分、働きが悪く、酒だけが生きがいとなっていた父。母への暴力。そんな父に愛想をつかせ自分を置いて若い男と都会へ逃げて行ったと聞かされていた母。やがて父も身体を壊し入院の末亡くなり、小学校に入る頃には自分の前には“家庭”の片鱗すら無かった。遠い親戚を転々とし、施設に預けられ、いつも小さくなって他人の顔色ばかり伺い、“いい子”を演じ続けて生きてきた自分。圭子と出会い、恋におぼれ、そして‥、何の罪も無い、憎んでもいなかった佐和子を、お金ヘの欲も絡んで手にかけてしまった自分。
今となってはこの虚光の輝きの中で何も知らない圭子と共に精一杯生き延びてやる‥。
岩城には自信があった。
一地方都市の警察などに自分のこの明晰な頭脳が描き、行ってきた一連の計画が暴かれることなど絶対にありえない。現に今、俺はこうして自由な生活を謳歌しているではないか。ただ一点、この計画を完結させるには、帰国後やるべきことがひとつ残っている。
始末しなければならないものが残っている。俺はなぜ、その始末を延ばしてきたのだろうか?時間がなかったからか、それとも‥、心のどこかで再び、使用することを考えていたのか?‥まさか、それはない。‥俺はそんなに悪じゃない。
俺は心から圭子を愛しているのだから‥。
ガラス越しに部屋に目をやると圭子がちょうど寝返りをうったところだった。
冷ややかな月の光の中、二本目のタバコに火をつけて岩城はいつまでも立ち尽くしていた。
翌日、岩城と圭子がクローテン空港へ向かうタクシーに乗り込んだその頃,岩城の自宅の隣から火の手が上がった。その火元になった家は以前からの空き家で、いつしか地元の不良たちの溜まり場になっていて、かねてより警察にマークされていた家だった。
その夜も数名の若者が集まってシンナーに耽っていた。その内、朦朧とした一人の若者がローソクを蹴倒したかと思うと、あっという間にシンナーに引火し、瞬く間に燃え上がっていった。数台の消防車が駆けつけ懸命に消火にあたったが、折悪しくこの時期には珍しく乾いた南風に煽られ、岩城の自宅にも火が移った。消防車二台の加勢もあって三時間余り燃え続いた後やっと鎮火したが、二軒は完全に焼け落ちてしまった。
翌朝、冷たい糠の舞うような小雨の降る中、警察、消防署で現場検証が始まった。
柳井課長ほか寺田、村田、矢田の姿もあった。
出火元の空き家の焼け跡からシンナーの容器,百円ライターなど数点見つかり、現場より直ちに地元不良グループ、洗い出しの指示が出された。
四時間ばかりで作業も終わり、署へ戻ろうかとした時、寺田が柳井の耳元でささやいた。
「課長、ちょっと」
「どうした?」
「岩城の自宅焼け跡に妙なものが有るんですよ」
「妙なもの?」
村田、矢田も加わって四人で寺田の言うその妙な物が見つかった場所へ行った。
「何ですかね、これは?」
寺田が指し示す所をよく見ると、黒く焦げてまだくすぶって折り重なった柱の間に金属性の機器が二,三転がっている。
「何の機械だ、これは、んっ?刻印の入ったプレートが張ってあるな。矢田君、読めるか」
「えーっと、これはレントゲンですね」
「レントゲン?レントゲンが何でこんな所に?他は?」
「あっ、これはタイマーです。それとこれはレントゲンの制御機とあります」
「ここは間違いなく岩城の自宅だよな。村田君、この家の見取り図があったな、それを持ってきてくれ」
村田が急いで取って返した。
「この場所は亡くなった佐和子さんが使っていた部屋じゃないのかね」
柳井の顔にさっと緊張が走った。
「おい、ちょっとその機械をよく見せてくれ」
そのX線発生装置は以前、谷川獣医科で使われていた旧式のもので、制御機のつまみは最大限のレベルを指しており、タイマーは午前0時から朝五時までセットされていた。
しばらく考え込んでいた柳井はコートのポケットから湿り気味のタバコを一本取り出して火をつけ深々と吸った。
いつしか小雨がみぞれへと変わっていた。
日本海側上空にマイナス四十度以下の寒気団が今日で四日も居座っている。
気象庁の今年は暖冬との長期予報は大きく外れ、十二月としては記録的な積雪となった。
岩城が日本に帰国後、約一ケ月のち、殺人、及び保険金詐取の容疑が固まり、逮捕され18日が経つ。
最初の拘留期限である十日間も岩城の貝を閉ざした様な頑強な黙秘が続き、裁判所より更に十日間の拘留延長の許可を得たものの、何の進展も見ぬまま瞬く間に八日間という時間が過ぎていった。
残り二日間で自白を引き出し,起訴に持ち込まなければ最悪の場合、岩城を釈放する事態になるかもしれない。これは警察にとって大失態を意味することで、柳井は連日のように署長からの圧力を受けていた。
今日も朝から取り調べ室の格子窓越に白いものが舞っていた。
「先生、大丈夫ですか、寒くはありませんか」
柳井は湯気の立つ湯飲み茶碗を岩城にすすめて話しかけた。
「この前から言ってるようにそのセンセイというのは止めてくれませんか?何だか馬鹿にされてるようで、それに冬ですから寒いのは当然でしょう」
「いやいや、馬鹿にはしていませんよ、何せ先生はうちの金之助の主治医でしたからね、これからもそう呼ばせてもらいますよ」
矢田が一礼して入室すると部屋の隅に置かれた机で調書に向かった。
柳井はいつものようにたばこの缶を机に置くと一本を岩城にすすめ、自分も一本抜き取り、タバコをやらない矢田にいつものようにすまんなと軽く頭を下げて火をつけた。
「先生、間もなく年の瀬、すっきりした気持ちで正月を迎えようじゃないですか、そろそろ本当のことを話してくれませんかね、佐和子さんの寝室から見つかったレントゲン装置、あれは一体どういうことなんですかね」
「‥‥‥」
「また、黙秘ですか。えーと、それじゃ、金之助の話でもしますか。先生にお世話になっていたうちの金之助、先日、急に亡くなりましてね、女房がすっかり落ち込んじゃって、弱ってますよ。見るからにみすぼらしい汚い猫でしたが、居なくなってみると家族の中でちゃんとある位置に存在してたんだって事がわかりますね。うちの倅が拾ってきて十四年目になりますか、あいつがまだ中学生の頃、土手で拾ってきたんですよ、生まれて一月位の小さな奴でね、倅の後を追って懸命に走ってついて来たそうです。」
「‥‥‥」
「それを聞いて小さな動物でも生への欲求は凄まじいと思いましたね。命を頂いてこの世に生まれてきたものの持つ強い思いなんでしょうね。まして人間なら‥」
柳井の次の言葉を封じるように岩城が言葉を挟んだ。
「刑事さんの猫が後を追った話ですが、生れ落ちた後、人間に対するいわゆる“刷り込み”が強くなされただけのことじゃないんですかね」
「先生、私には刷り込みでもソリコミでもどうでもいいんですよ。子猫の一途さに感じるものがあったって言ってるんです。話をレントゲンに戻しましょう。なぜ佐和子さんの部屋にレントゲン装置が必要だったんですか」
「何度も言うようにあれは以前使っていたもので、病院新築の際、新しい機械を入れたのでいつか処分しようとたまたま佐和子の部屋に置いていただけです」
「そうですか、ではそれに付随して設置してあったタイマーにはどういう意味があったんですか。しかも朝まで時間設定がなされてたという」
「あれは亡くなった佐和子の祖父が何の為かわかりませんが付けていたもの、私が買ってつけたものじゃありません」
「あれはごくありふれたタイマーでね、時代的にはそんなに古いものではじゃない」
「‥‥」
「X線が生体にとって危険なものという認識は重々お持ちの筈、仕事で使用される際は細心の注意を払って防御されるんでしょう」
「もちろんそうしますが、しかしそれと佐和子の死亡と結びつけてもらっても困ります。急性骨髄性白血病はレントゲンとは関係ない部分で多くの発症をみてるのは刑事さんもご存知でしょう。第一、医者が事件性なしとして死亡診断書を発行してるではないですか」
「事件性云々は医者が決めることじゃない、我々捜査機関が決めるんです」
いつもの如く調書を埋めるだけの供述を得ることもなく午前の時間が流れた。
「先生、腹減ったでしょうね、これ、今日の差し入れです」
そう言って柳井は古びた重箱を岩城の前に差し出した。
躊躇している岩城にお茶を入れながら
「先生、遠慮はいらんから、どうぞやっていいよ」
蓋を取ると中におはぎが入っていた。
「刑事さん、何ですかこれは、これは圭子からのものじゃないですね。一体誰から」
「まあまあ、いいからいいから」
岩城はひとつ取って口にした。
静かに食べていた岩城の口の動きが止まった。
岩城の中に突然、雑踏の中で以前親かった人と何年か振りにばったり出会った様な、思いもかけない懐かしさに満ちた感覚が蘇って、胸いっぱいに広がった。
牛舎の臭い、囲炉裏の炎、夏の風にそよぐ青い稲穂、雪で包まれたわらぶき屋根、これらが脈絡なく次々とフラッシュバックされ、なぜだか涙が溢れてきた。
「先生、どうした」
「こんなもの!」
岩城がいきなりそう叫ぶと口のものを吐き出して重箱を激しく手で払い落とした。
おはぎが壁と床に飛び散った。
「岩城、いい加減にしないか!」
柳井は机をたたいて一喝し、岩城を睨みつけた。
岩城は柳井の激しさを始めてみた。
「そうだよ、それは君のお袋さんが作ってわざわざ岡山から持って来てくれたものだ。君が子供の頃喜んで食べてたおはぎだよ。署長から特別許可をもらった君への差し入れだ」
「俺の、俺の母が生きてた‥」
「そう、君の事をテレビ、新聞で知り、先日、本署に問い合わせがあって昨日来られたんだ」
「嘘だ!私には母はいない、子供を捨てて行くような母は私にはいない。こんなもの食えるか!」
岩城は床に落ちたおはぎを踏みつけようと立ち上がった。
矢田がすかさず岩城を押しとどめ椅子に座らせた。
「岩城、君の気持ちも判らんでもないがな、君のお袋さんがどんな気持ちで不自由な手でこのおはぎを作ってこられたか考えてみろ」
「‥‥」
「五年前から脳梗塞で右半分ほとんど使えないそうだ。ずっと一人で岡山のある老人ホームで車椅子の生活をされてる」
岩城は両こぶしを握り締めうつむいて聞いていた。
「昨日は何度も涙を流して君のこと謝っておられたよ。君は随分遅くに出来た子供だったんだな、大変可愛かったそうだ。君との思い出の中で一番心に残っているのは、嬉しそうに、おいしそうにそのおはぎを食べてた君の笑顔だったって」
「やめろ!やめてくれ!そんな作り話に俺が心動かすとでも思ってるのか」
「君の事はいっときも忘れたことはなかったと言っとられた」
岩城の口から小さな嗚咽が漏れてきた。
必死に抑えようとする岩城の意思に反し、それは次第に大きくなり、遂には慟哭となって岩城は椅子から床に泣き崩れた。
岩城は溢れる涙をぬぐおうともせず、這いつくばって床に落ちているおはぎをひとつひとつ丁寧に重箱に拾いあつめた。
岩城はそのひとつを愛しそうに口に入れて言った。
「刑事さん、麦やあわ、ひえの入ったおはぎなんて食べた事ありますか、我が家は本当に貧しくてお米を節約してその代わりにしてたんですね。私はずっとこれがおはぎの味だと思ってました。母はあの当時のまま作ってくれたんですね」
「そうか、お袋さんはきっと君にその頃を思い出してほしい、戻ってほしいと思われたんだな」
柳井はハンカチを岩城に差し出して静かに言った。
「なあ岩城、もういいだろう。重い鎧を脱いで楽になったらどうだ。君が今まで身構えながら生きて来なければならなかった境遇はわかってるつもりだ、しかしな、人の命を奪った罪は罪だ。少なくとも命を扱う仕事をやってきた君には解かるはずだ。君が仕事の合間に捨てられた子犬や子猫の里親探しの活動に奔走していたことも知っている。命の重さは解かってるはずだ」
肩を震わせて岩城は泣いた。
しばらくして岩城は静かに話し始めた。
「刑事さん、いや柳井さん、私が佐和子を殺しました。自宅の新築に乗じて佐和子の留守を狙い佐和子の寝室の天井裏にレントゲン装置を設置し、タイマーを取り付け、X線の透過性を利用して発病するまで毎夜彼女への被爆を図ったんです。これは私一人の犯行です、圭子は何も知りません」
「先生、よく話してくれた。圭子さんのことは心配しなくていい。君が自由になる日を待っていると言っていたよ。また実は昨日、君のお袋さんと約束したんだ。今後、困ったことがあれば俺が一切相談に乗るってな」
部屋には矢田が一心に走らせるボールペンの音と岩城のすすり泣きが続いていた。
柳井はタバコにそっと火をつけると少し哀しい目をして窓越しに空を見上げた。
その時、厚く覆った雪雲の小さな切れ間から地上に差し込む光を見た。
それは決して虚ろな光などではなく、春の到来を確信させる力強い一条の光であった。
了