安西 果歩
翔はゆっくり目を閉じた。佳代の指が肩から腕へ抑えるように図柄をたどっている。
指の腹で優しく撫でるように上がっていくかと思えば、指をたててきつく押し付けてくる。
「きれいだわぁ。何度見てもほれぼれする」
呟くように言って、その指は胸や背中に移動する。
くすぐったいのだが、翔は佳代に触れられているのが嫌いではない。むしろ体の芯から陶酔していく。
「きょうは色が綺麗よ。ねえ、興奮している?」
といたずらっぽく、潤んだ瞳で佳代は翔の顔を覗き込んだ。
「この絵、生きているんだもんね。すごい。早く戦って。ねえ、私の宝物よ」
佳代は背中に頬をつけて上下させたあと、ずんと全身を翔に預けてくる。翔も肩甲骨やら背骨を動かしてやる。
きょうはまだ、体中に彫ってある竜と虎を戦わせる元気はでない。十日ぶりで東京から佳代のもとへ戻ったばかりだった。
「佳代は俺の絵をこよなく愛してくれるけど、この着物は誰からも嫌われるんだよなぁ。だから、佳代だけのものさ」
翔は芝居の台詞を言うように言って、佳代の体を自分の前に引き寄せた。向き合った二人はじっと互いの目をみる。
「脱ぐにも脱げねえ着物だよ。着物が脱げねえなら、これを捨てるなら、魂が抜け出すしかねえじゃないか」
なあそうだろう、と言うように翔は佳代の顔を両手で挟んで揺すった。細く骨っぽい顔だった。佳代はただ悲しそうな顔をして首を振っている。こいつにも楽しい思いはさせてやれないのだなあと翔は思った
翔が東京へ発つ数日前のことだった。佳代はこどもができたようだと翔に打ち明けた。
佳代との付き合いは六年になる、佳代を幸せにできることならやってみよう、という気持になって、翔は佳代の両親のもとに行く決心をした。
「結婚は少し先の話にしても、こどもの認知はしてやらないとなあ。付き合うことだけでも認めてもらおうぜ。そうすれば俺もこそこそしなくてもいいしな」
山深い佳代の家まで行くのがおっくうだった上に、これまで付き合ってきた女性も、親に会った瞬間から付き合いが悪くなったので、これまで翔は一度も佳代の家族と会ってはいない。だが、他の女性と違い佳代の心は信じることができるように思った。もし、親の反対にあっても、振り切って翔についてくるだろうという思いがあった。
「僕達六年も付き合っています。これからは結婚を前提として付き合いたいと思いますが認めてください
と両親の前に手をついた。佳代の祖母が次の間の襖に手をかけたまま立って聞いている。
少し強引な、可愛げのない言い方だなと感じながら、さっきまで練習していた文章は出てこなかった。
けっきょく両親は認めてくれなかった。
「仕事が気に入らないよ。きちんと勤めをしている人間でなかったら佳代は幸せにはならないよ。それに、あんた、墨を入れてないかえ。そんなことしてたら、話にならないわい」
と反対された。翔の刺青は隠しても隠しきれないほど全身にある。
仕事も街路樹の整備、伐採やクレーン車の運転操作で、たしかに毎日勤めて給料を貰う安定したものではなかった。
まして刺青が分かってしまっては、なかなか理解をして貰えまい。時間をかけるしかないのだ、と翔は佳代の家を出たが佳代はついてはこなかった。これで、佳代との縁もおしまいなのかと思いながら翔は母のいる家に戻った。
二、三日佳代には連絡もせず仕事にも出ず部屋にこもっていたが、思い切って上京することにした。未完成の刺青の絵をしっかり最後まで彫って貰おうと思い立ったのだ。
俺の宝はこれしかない。これだけは俺から去ることもなく、俺の体で生き続けるからと思った。
「翔の言うこと何度もなんども聞いてたら、翔は話がうまいから、私も、そうかなあと思っちゃうけど、翔は死ぬっていうこと?魂が抜け出すってそういうことなのね」
と佳代は言ったが、納得した様子ではなかった。
「だってそうだろう。俺、風呂屋にも行けねえんだよ。せっかく温泉の本場に暮らしていてよ、温泉に入れねえんだ」
「何回も追い出されたものね。むかつくよね。刺青をしている方お断りって張り紙してあるね。あれ、差別だよね」
「仕方ねえ、泣く子と地頭には勝てねえって。地頭ってのは社会の掟ってことだってな」
二十八歳の男にしては古いことを言う。翔はときどきひどく古い考えになったり、言葉を使ったりする。彼の叔母さんが歴史の教師で、中学生のときさんざん教えられた教科だった。
「ん・・・、お金貯めてさ、温泉引こうよ。あたしたちだけの温泉」
「こどもができるんだろう。どうするんだよ。一緒に風呂にも入れねえし、幼稚園や小学校に行くようになっても、俺、親として参加できねえ」
「ちいさい時から一緒にはいっていれば平気だよ」
佳代は強い口調でいう。
翔は脱いであったTシャツを頭から被って腕を通した。もう、体の興奮は治まっていた。その半袖シャツからはみ出た腕の刺青の図柄は虎の尻尾にあたるのだが、まるで大蛇が絡みつきのたうっているようだ。
「すごいねえ。立派なもんだよ。手首できっちり終っているよ」
いつまで眺めてもあきないようで、立ち上がって煙草を探すために動き回る翔の姿を佳代は目を細めてみている。
佳代は翔と同じ年の二十八歳だが、少しだけ生まれ月が早く、ときどき姉さん風を吹かせる。市内の病院で看護師をしている。始めは看護師の寮にいたが、翔が訊ねるようになってアパートを借りている。
翔がつきあった五人目の女性だが、いちばん長い付き合いで、もう六年になる。翔の刺青と関東気質をひどく好んでいる。
翔の刺青は首から足の踝までの全身で、よほどしっかり隠さなければ、墨を入れていることが分かってしまう。
図柄は竜と虎。竜虎が翔の体の中で威を競いあう構図になっている。
翔が体に墨を入れ始めたのは、彼が十六歳のときだった。
翔は千葉県で生まれているが、彼が小学校六年生の頃から、家族とともに不幸の底にはまっていった。
父親が、女と借金をつくって家を出たのだ。
母親と弟と翔は三人で家を守ろうとしたが、借金とりが毎日来て脅すようになり、家も競売にかけられることになったため、三人は荷物も持たずアパートを探して引越しをした。
父親の所在が分からないからと、借金取りはアパートに押しかけた。
二つ目のアパートに逃げても同じだった。学校に来て翔の後をつけ、アパートを突き止めるのだ。
母親の君江も職場を転々とした。
三つ目のアパートに引っ越してからは、君江は家に寄り付かなくなった。どこか近くで子供達の様子を見ているようで、食料が入ったビニール袋と金を置いていた。
翔と弟の恭は袋の中の食べ物を食べ、昼は学校にも行かずゲームセンターで過ごすようになった。
寒くなると電気コタツに体を入れて兄弟だけで眠った。借金取りが一日中居座ると、外に出ることもできなかった。
中学生になったときも入学式に母の姿はなかった。服もなく準備は何もしていなかったので、入学式には出るまいと思っていたら、前日に君江が全て整えて持ってきた。
服は古着だったがサイズはぴったりだったのだ。翔は母親は近くにいて、いつも自分達を見ているのだと感じた。涙が出るほど嬉しかった。
一年間はそんな暮らしが続いた。母に会うことはほとんどなかった。母はどこで暮らしているのか、どんな暮らしなのか分からないまま、ときどき駐車場で母を待ち、三人揃って焼肉屋へ行くことが最大の楽しみになった。
ある時、三人で夕食をした後で翔は言った。
「もう、家で泊まっても大丈夫だよ。借金取りも諦めたようだよ、最近こなくなったみたいだ」
翔は恭が可哀想だった。母親とめったに会えなくなった頃は四年生だったのだ。
俺が四年生のときは野球をやっていて、両親が揃って力を入れてくれた。試合のときは恭と三人で応援にもきてくれた。海にも行ったし寿司屋へ親父と二人で行って好きな寿司を思い切り食べたものだ、俺には父親との楽しい思い出がいっぱいある、と翔は弟の不幸に同情した。
「恭は野球をしたいんじゃないのか」
何も言わない恭に替わって翔は君江に言った。
恭が嬉しそうな顔をして君江を見たとき
「借金取りがあたしをつけているから駄目。もう少しだから頑張ってね。恭は大丈夫だね」
と辛そうに君江は言った。
翔にとって中学校もあまり面白いところではなかった。何か部活に所属しなければならないのだが、どの部活も金がかかった。
とりあえず、陸上部があまり金がかからないというので所属してみたが、やはりそれなりに金はかかった。靴とか練習着とか、バスタオルやフェイスタオルまで、あれこれ競争があって、翔の持ち物など馬鹿にされる材料になるだけだった。
恭も同じ様で、二人は再びゲームセンターで時を過ごすようになった。
「せっかくかあさんが買ってくれたグローブな、友達に、盗んだものだろうって言われた。こんな高いものを買えるはずが無いって」
恭は部活に出ない口実を探すように言って訴え、兄と遊ぶ方を選んだ。
冬休みも近くなった頃だった。街に流れるクリスマスソングは物悲しく、二人にとってゲームセンターの喧騒の中にいることが一番の癒しになった。
両親が揃っていたころは、ファーストフードのファミレスで食事をしてケーキを食べたこともあったなあ、と翔は無心に遊ぶ恭の横顔を見て涙がこみ上げてきた。
「帰ろうか。かあさんが来るかもしれないぜ」
「うん」と返事をして恭はゲームを惜しげもなく終りにすると翔についてきた。
翔の予感が当たって、駐車場には君江の姿があった。君江は車の外に出て不安そうにあたりを見渡しているようだった。
「あら、早かったんだね。良かった。探しに行こうかと思っていたのよ。行き違いになるところだった。二人とも車に乗りな。ドライブをしよう」
二人の影を見つけて君江は早口で言った。そして二人を車に押し込むように乗せた。
「おなか空いている?もしそうならそこのコンビニで何か買ってくるけど」
しばらく黙って車を走らせていた君江が行った。二人とも車内の暖房の心地よさと遊び疲れでうとうととしていた。
「なんでもいい。ハンバーガーでいいよな」
翔が恭に言ったが返事はなかった。
「眠っているよ。なんでもいいから。それに、飲み物も買ってきてよ」
翔が言うと君江は頷いて外に出て行った。
コンビニから出てくると、二人にハンバーガーとジュースを渡し、アクセルを踏んだ。
「どこへ行くの。海?」
恭が眠そうな声で言った。翔は親戚の家にでも行くのではないかと思っていたので、
「馬鹿だなあ、真っ暗な夜だよ」
と笑った。
「どこへ行こうか。行くとこなんてないよね。翔、みんなで海に飛び込んで死のうか」
君江の低い声に翔はドキッとした。なんだかそんな予感があったような気がした。
「もう、おかあさん疲れたわ。あんた達もつまらないでしょう、こんな暮らし。生きていても仕方ないよね」
翔も同じ気持ちになっていた。
「とうさんは、どうしているのかなあ。かあさんは知っているの」
翔の質問に君江の答えはなかった。ただ、意味もなく首を振っているようだった。
「あんた達の暮らしのために、かあさんの借金も増えちゃって。もう、首がまわらないのよ」
ハンドルを右左に切りながら君江は言う。そうなんだろうなと翔も思う。
たぶん君江はどこかのビジネスホテルにでも泊まって、パートかなんかで働いているのだろう。翔と恭が住むアパートの家賃や、子供達に買ってくる食糧代、現金が続く筈がないのだ。
車が止まった。気がつくと前面に真っ黒い海が広がっていた。
海沿いの駐車場に止めたのだ。
「恭、いいわね。このまま、この車ごと海に飛び込むからね。三人で死のうね」
黙ったままハンバーガーとジュースを交互に口に運んでいる恭に君江が言った。
返事をしない恭を無視して、君江はギアをバックに入れた。少しバックして前進すれば海へ突っ込めると考えているようだ。
そのとき、
「ボク、生きていたいな」
とちいさいがはっきりした声で恭が言った。君江には聞えなかったようだ。前進にギアをチェンジしようとした君江に翔が言った。
「かあさん、待って。恭が何か言っている」
翔は思わず大声をだした。
「え、何て。恭は死にたくないんでしょう。でもね、恭の好きな海に飛び込むんだよ。海の中に潜っていれば天国に行けるのだから。いいんでしょう。一緒に行くね」
君江は後部座席に顔を向けて言った。
「でも、いやだ」
恭は今度は大きな声で言った。
「一緒に飛び込んでから、苦しかったら自分だけ泳いで戻ればいいから。窓は開けておくから。抜け出して泳ぎな」
「いやだ。それでも嫌だ。ひとりで生きるなんて、その方が恐いよ。にいちゃんも、かあさんも一緒でなくては嫌だ」
恭は泣きながら言った。
「そうだよ。恭ひとりで生きるなんてできないよ。可哀想だよ。かあさん、可哀想だよ」
翔も泣いていた。
君江はハンドルに顔を伏せて黙っている。
「なあ、かあさん。僕、働くよ。来年は中二だよ。なんとか働く。だから、借金返して生きていこうよ」
君江の決心を変えさせようと、翔は真剣な表情で言った。
「そんな甘いことですむ問題じゃないのよ。あんたに返せるようなお金ではないの。でも、あんた達がそういうなら、かあさんひとりで死んでもいいし、考えよう」
君江はようやくそう言って、車のギアを切り換え街の方へ戻っていった。
「焼肉屋へ行こうね。今夜はクリスマスイブなんだものね」
「お金あるの」
泣き止んだ恭が弱弱しい声で言った。
「そのくらいのお金はあるのよ。でも、生きていくにはそんなお金じゃすまないものね」
と言いながらも君江は明るい顔になり、
「今夜から三人で暮らそうね。一緒に寝るんだよ。元気がでてきちゃった。翔も恭も良い子なんだね。かあさん嬉しい」
と泣き笑いをしているようだった。
年が明けて一週間ほど過ぎた日、親戚へ行くと言って出かけた君江が戻って言った。
「あのね、三人で鳥取に行かないかって」
「とっとり?何それ」
翔も恭も鳥取県を知らなかった。鳥取県だけでなく、千葉県と東京ぐらいしか知らない子供達なのだ。
「少し遠いけれどね。夜行列車で行けば一晩で行けるそうよ。日本海に近くってとてもきれいなところだって」
「田舎なの。山もあるのかな」
「海はいいけど、ゲームセンターがないのかな」
恭はまだ遊ぶつもりだ。
「とりあえず、二月になったら行ってみよう。知り合いのおばちゃんがいて、きてもいいって言うの。田舎はのんびりしてて、借金取りがこないのがいいって」
鳥取県はかなり遠く、さすがの借金取りもそこまでは取り立てに行くまいということらしい。
今年になって二度も取り立て屋がきている。
留守にしていると、ドアに赤いマジックで書いた紙を貼ってあったりした。
借金を返さないのは泥棒だ。泥棒親子がここに住んでいる。こわいこわい。
などと書いた紙を貼っていくのである。
「行ってみよう。お金はあるの」
何より気になるのが金である。翔は君江に言った。
「おじさんがね、そうするなら切符は買ってあげると言うの。三人で行ってみよう」
話が決まれば一時も早く行ってみたい気がして、二月になるのが待ち遠しかった。
出雲という夜行列車に乗れるのも楽しみだった。生まれて初めての旅である。冬の日本海側は雪が多く、交通機関がストップして陸の孤島になることもあるなどと、三人は知る由もなかった。
朝になれば鳥取に着くと信じていた三人を大雪が裏切った。
風雪のためこれ以上は動くことが出来ませんとアナウンスが頻繁に入り、前進も後退もできず昼頃になった。
だが京都はとっくに過ぎており、近くに降りて乗り換える手段もない。
ただひたすら列車の中で待ち、ようやく午後になって鳥取駅に到着した。
それでも子供達にとってみれば、車内販売の弁当や菓子を食べたり、二段ベッドで遊んだりの楽しい旅であった。
鳥取に着いて訪ねた知り合いの家族も親切で優しそうなので、三人が都会を逃げ出して鳥取に住むことを決めるのに手間はかからなかった。
さっそく学校の新学期に間に合うように三月には千葉のアパートを引き払った。
君江が運転する車での引越しであった。
十五時間の旅は楽しいものだった。途中でドライブインに寄り、食事をしたり、買い物をしたりした。これから新しい学校でどんな部活に入り、どんな友達をつくり、何をしていくのかなど、翔は恭に細かく話した。
恭は翔が語る話に耳を傾け、にいちゃんはすごいと感心し、にいちゃんと一緒ならきっと楽しく暮らせると思ったようだった。
だが、鳥取で始まった暮らしは、翔が考えたこととはおおいに違っていた。
都会ではあたりまえのように普及しているファミコンのソフトも、ファミコンそのものも鳥取では珍しく、悪いものを持っている人間とみなされた。
いったん受け入れられなくなると、すべてに拒絶反応が出て、翔は学校にはいられなくなった。アクセントが違うと笑われ、口をきけば東京弁がからかわれたのだ。
多勢に無勢なので翔が登校拒否をするのはまもないことだった。
ほとんど学校に行かないまま中学校を終えることになったのだ。
鳥取で頼った知り合いのおばさんが、テストの前になるとマンツーマンの特訓をして、どうにか成績をつけて貰っての卒業だった。
そして、お決まりの転落コース。
ドラッグに手を出したのが十六歳である。学校へ行かなくても、同じ匂いのする者同士は知り合うものである。
市内で演奏活動をしているミュージシャン達と知り合い、ライブやツアーの際の荷物運びをしているうちに、その中の何人かに誘われて麻薬に手を出した。
ドラッグ欲しさに麻薬の運び人を何度かして資金を稼いだりした。
その頃知り合った若い見習中の彫り師が翔の体に墨を入れたのが、翔の刺青の始まりだった。
「十二年かかっているんだからなあ。やっと仕上がったけど」
翔は煙草に火をつけると、深く吸い込んだ。そしてゆっくり吐き出す煙を見ていた佳代は
「立派に仕上がったわよ。あんまりいつまでも東京から帰らないから、もう、あたしのところへは戻らないかと思った」
と不満そうに言った。
「あいつも今は売れっこの名人でさ、行列ができているんだよ。予約なしでするなんて、とてもやってはもらえねえんだ。よくやってくれた方だよ」
「そうでしょうねえ。すごい腕だよねえ」
佳代はまたたまらなくなったように、翔の前にきて座ると、Tシャツを捲り上げようとした。
「ちょっと待てよ。そんなていどじゃあ、この絵の良さは分からないぜ」
と、翔はそんな佳代の手を退けると立ち上がってTシャツを脱ぎ、ズボンもブリーフも脱ぎ捨てた。
まっ裸になった翔は、佳代の前に仁王立ちになり、体を動かし始めた。
その動きは肩を厳つく張り胸を思いっきり反らせ、ウエストを左右に捻り背を丸める、あらゆる動きであった。その度に虎が口をあけ、竜が体をうねらせながら天に昇った。
前を向いて動いたかと思えば、大きく跳んで後ろを向き、横転から捻り、バクテンへと変った。
「こんな風に戦うんだ。分かっているのか佳代。虎と竜との戦いだよ。見ておきな」
途中で翔はまっすぐ佳代の前に立って言った。
それは壮絶な竜虎の戦いだった。
天空を翔ける竜、大地より唸る虎。千里を走る虎、地をのたうつ竜。二つの生き物の立場が逆転する。位置を変えて戦う二匹は口からは火を体中から真っ赤な血を噴出して戦っていた。
「佳代、たった一度のことだ。見納めになるかもしれないぜ」
「やめて。もう、もう分かったから止めて」
佳代はきれぎれの声で言って、翔の絵に体をぶつけるようにして巻きついた。
「おまえがこんなにも好きな着物だ。一生着ていてくれ。こうしておまえに抱きつかれて、俺の魂だけが抜け出ていくんだ。最後まで着ていろよ。ぜったい脱ぐなよ」
翔は佳代を巻き返した。
「分かった。わかったわ。だから、この着物だけは傷つけないでね。それだけお願い。お願いよ」
悲愴な声を張り上げ佳代は言った。
「脱げねえんだよな。この着物が脱げるなら、まったくさらで佳代にくれてやるのになあ。 脱げるものなら、新しい道が生きられるのに、口惜しいよ俺。でもな、こうなったら魂が着物を捨てるしかないんだよ。それでやっと俺も生きられるんだ。なあ、佳代俺の魂ってどんな風に生きるのだろう」
翔はそう言って目を閉じた。
しばらくして翔の首から血が流れ出ていることに気づいた佳代は、はっと体を離した
「秀治が着く頃だ。奴に任せろ。なにも心配するな」
静かな口調で翔は目を閉じたままで言った。
着物は佳代の体を覆ったまま静かに熱を失っていった。
「翔が脱いだ着物は永遠に私が着ていられるものではないけれど、翔の魂は私のお腹の中に入ったわ。今度こそ、幸せな人生を歩くように、私が大切に育ててあげる。私が生きる限り翔は私と一緒よ。早く生まれてきてね」
と、佳代は自分の腹をいとしそうに抱いた。