安西 果歩
昨日まで降り続いた雪は表面がガラス状になりキラキラとしている。
美由は冷え込んできた客間の、古めかしい柱時計を見上げた。そろそろ予定の時間である。
しかし家の中は震撼としている。さっきまでの通夜祭に疲れて眠っているのだろうか。いや、これから始まる遷霊祭に息を顰めているのだろう。神葬祭は珍しいものである。
気がつくとさっきまで庭の雪に暖かい灯を注いでいた二階の明かりも消えている。
美由は部屋の中央に設えてある祭壇の前の柩に目をやった。その前に置かれた案と霊璽の位置も確認した。
「そろそろ時間ですね。お願いします」
と言いながら、施主の浜田幸雄が入ってきた。
背広の上に白い裃をつけ、美由の前に両手をついた。
美由とは幼馴染で、雑談する時は軽い口調だったが、緊張しているためか言葉も丁寧である。
これから始まる遷霊祭は施主と斎主だけで行われる御魂遷しの式である。幸雄と美由だけが真夜中の客間にいる。
「分りました。始めましょう。このマスクをつけて下さい」
美由も改まった口調で言って、新しいマスクを幸雄に渡した。
そして自分も真新しい白い布で鼻から下を覆い白い手袋をはめた。
それからは作法通りに進め、美由は霊璽が置かれた案の前ににじり寄り、霊璽の蓋を外した。
新しい木の香が美由のマスクを通して鼻にしみた。墨痕鮮やかな「浜田清之命」と刻まれた霊璽が顕れた。
美由は霊璽を持って柩の近くに膝で進んだ。霊璽を清之の胸のあたりに置き、柩の小窓を左右に開けた。
清之の穏やかな顔が、美由の次の作法を待っているように見えた。化粧の粉の下で清之の表情は紅潮していた。美由は霊璽を高く掲げると清之の顔から霊璽にかけて「おおお」と発声した。魂と肉体を切り離す作法である発声をした。
少しの間左手に掲げた霊璽に変化はなかったが、美由の祈りが終ると急に霊璽に重みを感じた。
美由は清之の魂が移り、霊璽に神上がりしたことを悟って安堵した。
遷霊祭が終った頃、それまでずっとそこで待っていたかのように、襖の向こうで幸雄の妻の声がした。
「お茶と軽い食事を用意していますので、ダイニングの方へどうぞ」
妻は襖を開けることなくそれだけ言うと、スリッパの音をさせて去っていった。
美由は疲れているし、早く帰りたかった。また、二人のことで妻が面白くない思いをしているのも分っていたのだ。
美由と幸雄は仲の良い友達で、高校生のときはまわりから恋人同志だと思われていた。大学に進む頃、二人は結婚を考えていたが、二人とも家を継ぐ立場を譲ることができず、何時の間にか別の人生を歩いていた。
「美由、終ったようだったら送って行くよ。外は氷だ。明日迎に行くから」
幸雄の声で、美由は自分が思いに耽っていたことに気がついた。
「いいわよ。慣れているもの。私、土地っ子よ。あなたと同じくらい大丈夫」
「いえ、送らせて下さい。明日も大事なお仕事をお願いしていますし」
美由の言葉に、幸雄の妻が硬い口調で言った。あきらかに牽制球である。美由は黙って首を振り一人で玄関を出た。
外に出ると冷気が顔に貼りついた。駐車場の車は全体が凍りつき、ドアーが音をたて剥ぎ取られるようにして開いた。
美由の気持を理解できない幸雄は、美由が持つカバンを奪い取るようにして持つと、それを後部座席に下ろして言った。
「気をつけて帰れよ。また明日な」
美由は頷いて運転席に滑り込んだ。
そのとき、助手席で白いものが動いた。誰かが先に乗り込んでいたのだ。
「幸雄さんなの」
まさかと思ったが幸雄しか思いつかずに美由は言った。
だが、美由が見つめた助手席には誰もいない。
美由は気をとりなおして車を発進させた。幸雄は外で手を振っていた。
道はすっかり凍っている。県道に出て右折しようとハンドルをきったときだった。今度は後部座席で騒がしく何かが動く気配がした。
「清之さんですか」
と言いながら美由はバックミラーを覗いた。霊を肉体から切り離したとき、美由についてくる霊もよくあるのだ。そんな霊は自分の死を認めない霊なのだ。浜田清之の魂だとしたら、うまく神上がりできずに彷徨っていることになる。「人間は神世より出て神世に戻る」というのが神道的考えだ。明日の納骨祭もうまくいかなくなるだろう。不安な気持ちが高じてきたと思った瞬間だった。
車が宙に浮き対抗斜線に出ていく。ブレーキやハンドル操作はまったく効果が無く、まるで行き先を決めているかのように車はかってに走っていく。
美由は声もなくただ車を止めることだけを念じた。
そして車は滑るようにゆっくり止まった。だが、美由は何かにぶつかったような大きな衝撃を受けて気を失っていった。
美由のもうひとつの意識のなかで次のことが始まった。
彼女は死神に出会ったのだ。
「今夜は二人の人間の命を貰う。命令なのだ」
銃口を向けた死神がいきなり現れて言った。
二人と言われて気がつくと、美由の隣に一人の見知らぬ女性がいた。おどおどした様子で美由を見ていた。
「そう、とうとうきたのね。でも、変だわ。私にはまだ仕事が残っているのに」
美由は十年前に心臓を悪くして、心不全になる可能性が強く、覚悟をして生きてきた。
「気にするな。葬祭の配慮はしてある」
と死神は言った。そのとき、隣の女性が
「いや、いやです。助けて」
と美由に縋りついた。
「あなたは誰なの」
と尋ねたが、女性は応えるゆとりもないようで、ワナワナと震えていたかと思ったら「きゃあ」と大声で叫んで走り出した。
雪が激しい雨のように降っている。キラキラと光って細かい刃物が降っているようだ。
「あのひとは見逃してあげてください」
と美由が言っている。その女性が死神に狙われる理由は分からない。
「あいつは戻ってくるさ。それがあいつの運命だからさ。俺は、二人を迎にきたのだから」
と死神は笑いながら言った。
「なぜなの。神さまは死にたくない人を、病気でもないのに連れては行かない筈だわ」
「どうかな。あいつは死ぬ運命を認めたくないと自分の神さんに願ったかな」
「願っているにきまっているわ。でも、自分の死期を知らなければ」
「そうさ。自分の死期を知らないやつがほとんどだ。俺には分かる筈が無い」
死神の表情は無表情なのだ。笑っていると感じたのは美由が人間だからなのかもしれない。
「その短銃には二発の弾が入っているのね。その二発を私に撃ち込んでください」
美由が必死で言ったとき、
「ほら、戻ってきたじゃないか」
と無表情な死神が言った。死神の視線を追うと、雪で白く霞んだ山の方からたしかに人が歩いてくる。雪は柔らかく舞う雪となっている。
人影は近付いてさっきの女性の姿となった。
「なぜ戻ってくるの」
美由は思わず叫んで、死神の体に突進した。
死神は慌てて引き金を引き、パンと実体を感じさせない音を出して飛んだようだった。
「しまった、一発撃ってしまった。あと一発だ」
死神はそのときはじめて表情を見せた。恐ろしいものだった。
「あとの一発は私のものよ。はやく私を撃ってください」
美由は隣にきている女性を後ろにまわし、死神の前に進み出た。
「いや、俺は二人を殺すように言われてきた。一発しかなかったらどちらを殺すのかわからん。同時に殺すにはどうしたらいいのかな」
死神はぶつぶつと言い何かを考えている様子だった。美由は再び死神に突進した。その腕を掴み自分の方に向けさせようとした。
そのとき、再び銃が乾いた音をたてた。
と同時に死神の姿も消えていた。
美由が気づいたとき、女性の姿もなかった。ただヘッドライトに激しい雪の舞が照らされていた 女性がいたときに見た雪の舞だった。
エンジンは止まり、このままいたら凍死していたに違いない。
美由は自分が死ぬ運命にあったことに気がついた。しかし自分は今その運命を変えたのではないだろうか。見知らぬ女性の叫びが、美由に勇気と行動力を出させてくれたのだ。
車は車体の半分を雪の積もった田圃に滑り込ませていた。
美由はエンジンをかけ、ギアーをバックにいれると、ゆっくりと車道にあげた。