指 定 席

   森 本 坦 子

 松林の中からバスが見えてきた。この町は海に面している。砂丘を土地造成して、汐見町八丁目という新しい住宅地ができて四十年になる。

 今年還暦を過ぎて二年がたった。吉野綾は、この町のバス停「夕陽丘」でバスを待っていた。

 彼女はバスに乗り込むと必ず一番前の一人掛けの座席に座る。乗る前から背伸びをしてその座席が空いているのを確かめると、乗ると同時にすばやくその席に滑り込む。そして、席を確保できるとほっとして窓外に目をむける。路線バスなので毎日同じ道を走るのだが、綾にとっては、毎日違う風景に思えるのだ。

 初夏はぶどう畑に豆粒のようなぶどうの実が葉陰で実っている。シャガールの絵にあるような魚の形をした雲が浮かぶ初秋の空。少しずつ風景は変わる。

 このバスに乗り、この席に座ると綾は心にたまった荷物を少しずつ降ろしていけるような気がして、片道三十分の時間をゆっくりと過ごす。

 きょうは突然京都での暮らしを思い出した。

 新婚の二年間。綾は二十歳であった。共同の炊事場、共同便所、銭湯のうす汚れた暖簾、ままごとのような食事つくりだった。

 新京極の土産物店で夜の八時まで働き、疲れも知らず、電車道から狭い路地の坂道を小走りに間借りの家まで帰ったことや、先に戻っている夫が元気な声て゜「おかえり」と迎えてくれたことなどが昨日の事のように頭に浮かんできた。そしてふと、現実の自分に戻った。

 あの「おかえり」はどこにいったのか。たしか、鳥取に帰ったころから聞いてはいない。

 この頃極端になんだかわからない不安と切ない気持ちになり、涙さえ溢れてくる。ひとりぼっちにされるような気がしてくるのである。多くの人との別れは「死」である。「死」の意識なのか。不安と恐れが増す。

 塩見町は今、マンモスベッドタウンにふくれあがり、家も五百軒を越えている。しかし、スーパーマーケットはなく、二、三軒あった万屋のような店も今は消えてしまった。

 綾は毎日の食材を買うために、また、図書館や本屋へ行ったりするためにこの路線バスを使うのだ。気がつくと終点の駅に近づいていた。

 綾はあちこちに指定席をつくっていた。

 きょうは初めから喫茶店の指定席をめざした。だが、なぜか喫茶店は混んでいて指定席までいっぱいだった。

 綾はそのことを確認するとすぐ店を出た。「すみませーん」という店員の声がした。店員とは仲良しだ。綾はすぐに仲良しをつくる。図書館でも文化会館でも喫茶店てもそうだ。バスの運転者さんとも仲がよい。

 帰りのバスでは、いつもより客が多いようで心に戸惑いがはしった。

 だが、綾が乗りかけたとき「そこ、すわっているよ」という運転者の声がした。「あら」とがっかりした綾に運転者が振り返る姿が見え、指さしていることが分かった。彼は綾の指定席に座ろうとした女性に声をかけたのだった

 気持ちが温まり運転者に感謝する。この指定席は小柄な綾が座っていても窓外の景色が見られるところなのだ。他の席では窓枠などがじゃまして十分見ることができない。だから、どうしても座りたい席だった。

 席につくとすぐ窓外に目をやる。来るときとまた違った風景だ。自分の目の置き場が違うだけなのだろうが、葡萄の房が大きくなったようだ。空にある雲ももちろん形を変えている。

 この秋がすぐに終わりまた冬がくるのだなあと思うとなんだか空しくなる。二人いた娘もとっくに結婚して自立した。孫も大きくなって綾にはあまり関心を示さなくなっていた。私はいつまで生きるのだろう。それよりも、生きる意味って何だろう。

 そんなことを思いながらふと二年前の冬のことを思い出した。立春は過ぎているのだが山陰の冬はそれからが本番なのだ。

 その日は朝から雪が降っていた。空から舞うように降りてくるぼたん雪は、汐見町をすっぽり包んでしまう。この限りなく優しい雪景色が綾は好きだった。夜中に目覚めたときなど、しんしんと降る雪の音は雪の寝息のように思えて思わず優しい微笑みが口元に浮かぶ。

 綾は午後一時のバスを待っていた。夜通し降った雪もやんで雲の切れ間から陽ざしが流れ、遠山の雪が乱反射して輝きはじめた。

 綾はバスを待つ人々の一番前で待ちドアが開くと同時に足を踏み入れ指定席に向かった。だが指定席には昨日も座っていた男が座っていた。昨日は諦めたのだが、同じ男が当然のように座っている。綾は通路をへだてた席に座って男の横顔を見た。

 見かけない若い男だ。窓枠に片肘をついて目を閉じている。ときどきふと目をあけて窓外を見ているようだ。眠そうな目がバス停の文字を見て慌てたように席をたった。昨日と同じ「日愛病院前」で降りると急いだ足取りで玄関に向かっていった。綾はさっそく立ち上がると指定席に座った。座席には男の温もりが残っていた。

 次の日もまた次の日も男が指定席に座っていた。折り返し駅からのっているのだろう。仕方がないことだった

 その次の日指定席が取られて五日目の日だった。男の姿はなかった。綾は少しだけその男のことが気にかかったがいつの間にか忘れた。

 薄墨を広く伸ばしたような暗い空と幻想的に降る雪に包まれる山陰の冬も三月下旬から四月の初めに春の雪を名残のように降らして、季節は濃く淡く移ろいを見せていた。

 綾は相変わらずバスに乗り指定席に座って市内に出ていた。

 指定席を四回も取られた男のことを再び思い出した。今頃になってなぜという気持ちの中に若い男の優し気な横顔が忘れられないような思いがあった。

 そんなある日、綾は突然ひどい目まいに襲われた。朝、めをあけた時だった。天井が大きくまわっている。壁も早いスピードで移動していく。起きられたものではない。目を閉じてじっとしていると吐き気がしてきた。たった一人で、夫と離れた部屋で毎日を送っていることが悔やまれた。どうすることもできない綾は目をとじて四つんばいになり這って風呂場まで行った。大きな声に気がついた夫が風呂場をのぞいた。

「大変そうだな。救急車を呼ぼうか」

「やめて。ハイヤーをよんで日愛病院まで連れて行って」

 と綾はようやく声に出した。

 早朝のため緊急患者という扱いで当直の医師が診察をした。

「急性の前庭部炎症でしょう。点滴をしますからすぐ治まりますよ。ちょっとひどいようですから二、三日入院されたらいかがですか」

 若い医師は優しかった。点滴で治まってきたせいか、綾はすぐに「最近の若い医師の優しい謙虚な対応って、昔の医者よりずっと癒される」と思った。

 三日目に退院チェックの結果を持って主治医になったあの日の当直であった医師がきた。

「循環器関係はいまのところ異常なしなんですが、血圧も中性脂肪も血糖値も高いのですよ。まあ、家庭において注意すれば治るという範囲なのですが

、私はここで二週間ほど教育入院をすることをお勧めしたいのです吉野さんが若々しく長生きできるようにね」

 という、医師の顔を見て綾は気持ちをきめた。

「おとうさん、ごめんなさい。検査の結果、二週間くらい入院してこれからの健康生活を勉強したほうが良いそうなの。いいですか」

「おお、そうするがいいよ。心配せんで入院するがええ」

 遠慮がちに言う綾に向かって夫から優しい言葉がかえってきた。

 二週間の教育課程は想像以上のものだった。講義による勉強と、実際の食事療法だった。三食据え膳で、掃除も洗濯もなく、テレビはいつでも自分が見たいものを見られる。家にいれば夫が見るものをつけていて綾の好みではないものばかりである。食事のときは夫の世間や娘、はたまた孫にいたるまでの不満や感想を聞きながら食べることになり、味もしない。だが、ここにいればゆっくり味わいながら病院食を食べることができるのだ。

 さらに、主治医の高橋ドクターの励ましや癒しの言葉は綾にとって何よりの薬である。

「吉野さん、感心しましたよ。僕が勧める教育入院を受けてくださってありがとうございます。たいていの患者さんが二週間と聞くと断りますね。家で養生しますとか言ってね。あなたにぼくの心が通じたのだと思うと嬉しいです。がんばりましょう」

 と言った初めの言葉は一番の特効薬だった。

 綾は優等生になった。今日こそさぼろうと思っても、夕方になって毎日顔をだして「きょうのお話は分かりましたか」とか「きょうも出席でしたね。立派ですよ。このぶんでは退院しても十分数値をさげることができますし、維持する事も当然できて、元気な若々しい吉野さんでいられますねえ」というドクターの言葉を思うと必ず出席した

 あと三日で終わるという日、その日の授業は終わり、綾は無性に外を懐かしく感じた。あのバスの指定席はどうなっているだろう。もう、誰かの指定席になってしまっていないだろうか。喫茶店「ひまつぶし」のウエイトレスは覚えてくれているだろうか。図書館の受付の女性は。本屋さんは心配しているだろうなと思い出すと矢も立てもなく外に出たくなった。

 綾は外出願いをスタッフステーションにいる看護師に渡した。

「朝から出しておいてもらわないと許可できないのですが、吉野さんは教育入院なので多めにみましょう。夕飯前に戻ってくださいよ。いま先生にうかがってきますから」

 と言って席をはずした看護師がまもなく戻ってきて「先生の承諾を得ましたよ」と承諾用紙を綾に渡した。

「気をつけ行って、早く帰って来てください。 高橋」

 と書いてあった。綾は思わずその用紙を胸に当てた。その短い文章が高橋からのラブレターのように綾の胸をときめかせたのだ。もう外出などしなくても良いという気にさえなった。

 外に出ればまた嬉しい思いも感じられた。とりあえず病院から街の中心までバスに乗った。指定席は空いていた。時間的にバスの中がすいていたのだ。街へ向かうバスに揺られて、綾はとんでもないことを思い出した。

 指定席が奪われたことがあった。たった四日間のことだったが、綾は悔しくて席を奪った男の横顔をじっとみていたのだ。ほとんどその男は目をとじていたのだが、ときどき目を開けて窓外に心を奪われている様子だった

 その男性が高橋ドクターだった。たった今まで気づかなかったとは。二週間も朝晩見続けた顔だったのに。場所や立場が違い、表情に動きがあった
でわからなかったのだ。

 綾は終点までバスに乗り、そのバスで折り返した、日愛病院で降りた。そして、まっすぐに自分の部屋のベッドへ戻った。

「あら、もう帰ったの。夕方になるのかと思った」

 同質の患者たちが口々に言った。綾はいそいでベッドからでてナースステイションに行った。

「あの、戻りましたから。すみませんでした」

 と、声をかけると二、三人の看護師が同質の患者と同じように「はやかったですね」と言った。

 その夜高橋ドクターは綾のベッドにまわってきて、

「今日の外出はどうでしたか」

 と言った。

「先生。私達以前に四度もお会いしていたのですね」

 と言う綾の問いに高橋は

「知っていましたよ。バスの中でしょう。僕が目を悪くして運転が出来ないので汐見町の姉の家から四、五日通ったのです。その時でした。春の頃でしたね。そうでしょう」

 と答えたのだ。綾は自分を覚えていた高橋に、また、それを今まで口にしなかった高橋ドクターに喜びと親しみを感じ体が舞い上がるようだった。

「汐見町ってとても良いところですね。夜、二階の窓から見える対岸の漁港の灯りがとてもきれいでした。二年前の秋に行ったイタリアの「コモ湖」を思い出しました」

「コモ湖」。綾はおもわずドクターと握手でもしたい思いだった。「コモ湖」とは、綾が大好きな曲だったのだ。

 まだまだ幼い子どもをかかえて、朝から夜まで働き通しで夜になってようやく休むころには、疲れ過ぎて眠れず、そんなとき深夜に聞いたラジオの音楽番組のテーマ曲であった。なんども聴くうちに、コモ湖を頭に描くようになった。どんな湖なんだろう。そもそもイタリアすら行ったことはないのに。幻のコモ湖を胸に眠りにつくことがしばしばであった。

「先生、コモ湖に行っていらしたのですか。あの、イタリアのコモ湖ですよね。ヨーロッパの貴族や芸術家たちが集まるという温暖な別荘地にある湖ですよね」

「ええ、そうです。僕もあのときはぜひ行ってみたいと思い、きままな一人旅の途中に寄りました。その時の灯りを思い出したのです。吉野さんはどうしてご存知なのですか」

 綾は昔ラジオで聞き、胸に描くだけの幻の湖だが、今ドクターの口からその名を聞いたことが嬉しいと言った。「それは偶然の言葉でした。でも、これで、共通の思い出があったことが分かり、いっそうあなたを元気に長生きさせたくなりました」

 白いカーテンに囲まれたちいさな空間に綾の心が甘くひろがっていった。優しい目で綾を見つめる高橋ドクターの短い髪の毛が少し揺れ、小さく頭をさげたドクターは「おやすみなさい」と言ってカーテンの向こうへ消えた それからの二日間はなぜか二人とも無口になった。

「退院おめでとうございます。教育入院をよくがんばりましたね。数値はとてもよくなっていますよ。家に帰ってもこの数値を維持してくださいね。僕は大学に戻ります。汐見町ではお会いするかもしれませんね」

 綾が退院するとき高橋ドクターは最後に顔をみせて言った。綾はただ深く頭を下げた。口にだせないほどの感謝であった。彼がいなければ教育入院などとっくに途中で放棄していたであろう。

 日愛病院というバスストップの前で綾は銀杏並木に訪れようとしている秋色の季節を感じ、切ない思いを胸いっぱいにしながら汐見町行きのバスを待った。

 家の庭には早咲きのコスモスが揺れていた。

「おかえり・・・・」

 大きな声で夫が迎えた。綾が四十年ぶりに聞いた言葉だった。

 覚えていてくれたのだ。忘れていたのではなかったのだ。私の本当の指定席はここにあったのだ。他人に取られることのない席。あるかないかを心配しなくてよい指定席。指定席があるからちょっと心を若返らせてときめきを感じることがあっても良いのかもしれないと思った。 

                            (おわり


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