久松 洋子
行過ぎる風に、どこかふんわりと和やかな春を感じる。葉を落としていた庭木の小枝もほんのりと赤みがさして、いつの間にか枝先に小さな芽が膨らみ始めている。
文子が年を重ねて数十年、年毎に春の気配が庭から忍び寄る。若い時にはじめた華道小原流も一級の看板を取ってみると限界が見えてきた。それとは反対に自然の輪廻は永遠に変わらない。花は野にある如くである。
玄関を左に廻ると、濃い緑の葉に隠れるように名残の椿の花が一輪ひっそりと咲いている。深紅色をした椿の花は、背景の物静かな景色を引き立たせて一層美しく見える。
文子は傍らの木の根元から勢いよく枝を伸ばしている猫柳を見つけてしゃがみこんだ。生まれたばかりのような銀色のうぶ毛に包まれた小さな花が、枝一面に付いている。
「まあ、猫柳ってずいぶん早く咲き始めるのね」
思わぬ発見だった。春風に誘われたように咲き始めた猫柳は、いつもこの時期になるともう花をつけていたのである。
去年伸び過ぎていた枝を思い切って下から切り詰めた所から新しく芽を吹いて、しなやかな枝を伸ばしている様は如何にも清々しい。
山陰に勤務する夫修二に従って長い山陰生活をしながら、折々に少しずつ手に入れた珍しい植木やハーブなど数十種を和歌山の家の庭に移してはや四年ほどになる。
毎月のように帰郷を兼ねて車で運んだこれらの植物は、二人で丹精こめた手作りの庭に自然に馴染んできたようである。
見渡すと、気ぜわしい作業の割にはそれぞれがバランス良く定位置に納まっていて、思い出すと懐かしい山陰の風景が目に浮かぶ。
二月も終わりに近づいたある朝、文子は鶯の声で目が覚めた。夜明けの仄かな明るさの中で、鶯が鳴き始めたのである。
文子は布団の中で思わず耳を澄ました。
「ほーけきょ?」
鶯が里に戻って来たのだ。春一番に鳴く鶯の声は、まだ慣れない為か、少しずつ確かめているように鳴く。遠く、近く、仲間達の鳴き声も混じって頼りなげに鳴いている。
暫く間をおいて又、聞こえてくる。
「けきっきょ・・・ちつちょ、ちっちょ、ちっちょ、ちっちょ・・・」
木々の梢を駆け巡り透き通る声を四方に振り撒きながら、人々の目覚めを促すように鶯たちは健気に春の歌を謳う。
昨年の、四月も近いある日のことだった。修二と文子は長かった山陰生活を終え、十数年振りに漸く和歌山の川辺町にある我が家へ帰ってきた。この一年は、長い人生を短縮したように目の回る程の忙しさであった。今まで張り詰めていた糸に亀裂が入ったように夫が病に倒れたのは、引越しの一ヶ月後の事である。
山陰で過ごした十数年間の間の切ない思いを、文子は今でも忘れることはできない。
今こうして二人で静かに聴く鶯の声は、ひとしお深く心に響く。
振り返ると、十数年に亘る山陰の生活はあまりにも遠い人生の回り道であった。
もうこれからは、今迄のように時間に追われることもなく、長い道のりを車で突っ走ることもない。知る由もない幾ばくかの残りの人生が安泰であることを願うのみである。
『朝に遥かな太平洋の黒潮を見て出発し、夕方には鳥取に着き日本海に沈む真っ赤な夕日を見る』
景色が目に浮かぶような歌い文句そのままに、修二と文子が、この十年の間、月に一、二度は欠かすことなく日本列島を南北に縦断して和歌山と鳥取を往復し、早朝から夕方まで一日に七時間かけて車で走り続けた道程である。
定年わ過ぎていた修二にとっても、一緒に行動をする文子にも、高速道路と国道の長距離運転は決して楽な旅ではなかった。常に危険と紙一重の運命狭間を走っていたのである。
益田に始まり鳥取へと、昭和から平成の十数年間を苦労を厭わず走り続ける夫は、年齢や体力に挑戦しているようにも見えた。
「もう、十分過ぎるほど頑張ったのだから、早く切り上げて和歌山に落ち着きましょうよ」
車の中で助手席で過ごす長い時間、左右に体を振られ立ち上がるのも容易ではない。
文子は修二より五つ年下でも悲鳴をあげているに、七十歳をとうに過ぎている修二は己のペースを緩めようとはしない。
鳥取は冬になると冷たい雪が降った。慣れない雪道の運転は神経を使う。
正月を和歌山で過ごし、鳥取に向かって走っていた時修二が雪道でハンドルを取られてスリップし、ガードレールにぶつかつたことがあった。
助手席にいる文子も生きた心地もしない。
幸いガードレールの下に積まれた雪がクッションになり跳ね返されたが、ハンドルの車軸が曲がり、アルミホイールが吹き飛んだ。そのまま鳥取まで走り続けたのである。
車の修理が出来上がるまで、交渉から代金の支払いまで全て文子の役目である。
夫は会社に出勤する時も徒歩とバスを利用し、文子をあてにしない。その上、夫の留守中に文子が何処へ行っていても、何をしていても文句一つ言わない人でもある。
車の運転をしている長い道中に、色々な話題が上がる。しかし、修二にとって都合の悪い時は返事がない。文子が少々不機嫌な様子を見せても、一向に通じないのである。
「もうすぐ戸倉峠に入るから、その前に南波賀の道の駅で休憩して何か美味しい物を食べようか」
屈託もなく修二はさりげなく話しかけてくる。狭い車の中の二人だけの世界で、夫にそう言われると従うより他はない。
会社という組織の中での夫の立場は解らないではないが、文子はせめて私生活は大事にして欲しいと何時も思うのである。
何事もあまり深く拘らない上に行動的な性格の夫は、普段でも口数が少なく、必要なことでも言わない。妻は夫に従うものと決めていて、何時も自分の思い通りに生きて来た人である。
修二は大手企業のT化学(株)会社に勤務し、東京支店から大阪支店に転勤になり、一家は阪急沿線の豊中刀根山に家を構えて住んでいた。
戦時中は海軍兵学校で海軍士官候補生として鍛錬を受け、戦後の高度成長期から今日まで企業戦士として、変動の半世紀に亘る歴史の一旦を担った男である。
文子はそんな夫を見てきて、定年後はのんびり田舎暮らしをしたいと考えるようになった。
刀根山の家は豊中と伊丹にまたがる大阪空港に車で五分という距離にあった。
早朝六時過ぎに家から歩いて空港へ行き、七時二十分発東京行きの一番機に乗り、帰りは最終便で大阪空港に着いて歩いて帰る。修二の東京出張の日帰りのコースである。
大阪空港は、時代とともに過密化する航空事情に加えて、民家すれすれに離着陸する大型ジェット機による騒音と環境問題が表面化し、遂に空港近辺の住民運動にまで発展していた。
新たに泉州沖に関西空港の画期的な構想が出来上がったのは丁度その頃であった。
将来は関西空港から開けていくという修二の考えには信憑性がある。文子は夫とさっそく車を走らせ和歌山方面に向かった。
豊中から阪神高速に乗って堺で降り、国道を南に走るとその先には二色ヶ浜が見える。この海の上に関西空港を浮かべるという今まで想像もつかない高度な技術が可能になったのであろう。将来関西空港を中心にした交通網や周辺地域の発展性を考え、もしかしたら自分達で出来る範囲の夢が実現できるかも知れないと思うようになった。
和歌山県御坊市から東、日の岬に近い三尾に土地を求め、小さな家を建てたのは半年後のことである。二人はそこでささやかな別荘暮らしを始めた。
豊中の一坪あたりの単価に比べると格段に地価が安く、隣に建築業を営む人がいるという好条件も重なって、早速海の家が出来上がったのである。
第二次世界大戦中は日本国中凄まじい食糧難時代であったから、何時何が起こっても、自分の土地さえあれば自給自足が出来ると大きな望みを抱いていたのが、案外早く実現してしまったというのが本音である。
太平洋の潮風を受けた三尾の土地は理想的な南向きの斜面である。広い庭と畑もあって野菜作りが楽しめるのが嬉しい。その上、日の岬灯台や、アメリカ村もすぐ近くにあり、異国情緒も漂ってくる。
何よりも素晴らしいのは、煙樹ヶ浜から三尾にかけて視野いっぱいに広がる雄大な太平洋の展望であった。
「これから三尾へ行ってくるわね。山下さんが待っているから。何を持って行ったらいいかしら」
「どうぞ、ごゆっくり。あまり車を飛ばさないように。山下さんが喜びそうな物って、豊中の駅前でみつくろっていったら」
三尾の新しい友人山下さん夫婦は修二たちと同じ年頃なのである。
大学を終えてN楽器に就職をした下の娘はもう親の手を離れ職務に励んでいる。上の娘は嫁いでいて可愛い男の子がいる。それぞれ我が道を歩み始めていて親は親でとうに子離れしている時期である。
夫もその頃から勤務体制が週休二日制に変わり、週末に出かける所ができて何よりである。二人は車に鍬やバケツや食料の他に少しずつ食器や衣類等も積み込んで、いそいそと三尾に向かって走った。
豊中空港から阪神高速に乗り、一直線に南に向かって車を走らせると風景は一変する。修二の冒険心を掻き立たせるには程よい距離でもある。第二阪和高速から国道四十二号線へと走り続け、やっと煙樹ヶ浜から太平洋の遠望が見えてきた。
青い海、深い緑に囲まれ飽きることなく鶯の声を聞いていると、疲れも吹き飛び、今までにない心の安らぎと自然の豊かさで一杯になる。高い樹の枝やテレビのアンテナに止まって鳴く小さな鶯の姿を見るのも、ここならではの風景であった。
「益田と言う所を知っているかい」
ある日会社から帰った修二が突然益田行きの話を持ち出した。益田という地名さえ初めて聞いた。地図を出して調べて見ると、山陰の遥か彼方、西の外れに近い所である。
夫の考えは文子には大体想像はつく。今度も楽な仕事より困難な仕事を選ぶために行く様なものである。仕事人間の彼には己の力を試すチャンスでもある。
修二は
「まあ、二、三年のことだと思うよ」
と、簡単にいう。今迄まったく縁のない所なので、ちょっぴり好奇心も湧く。
「一度どんな所か行ってみてもいいかもね」
文子がそう言うのを待ってましたとばかりに夫は益田行きを決めてしまった。
修二に課せられたのは、山陰では一、二を争う総合建材商社の再建という過酷な仕事である。何を好んでそんな仕事を引き受けるのか、文子は理解に苦しむが、修二は黙って身の回りの荷物を持って出発していった。
一月後、修二のいる益田に文子は初めて足を踏み入れた。新幹線の小郡から更に山陰線に乗り継ぐ益田は遠い遠い地の果てである。
新大阪から新幹線を乗り継いでも片道七時間はたっぷりかかる便は一日に二本しかない。
せっかく暖かい和歌山の海の暮らしを始めたばかりなのに、山陰での慣れない夫の仕事に引っ張られるようについて行ったのである。
益田について驚かされたのは、水害による傷痕の生々しさであった。
北の日本海に近い益田は、都会に比べると三十年タイムスリップしたような鄙びた田舎である。それだけに水害は大きな打撃であった。復興作業ものんびりとしていて遅々として進まない。修二が契約した借家も軒まで泥水に浸かった跡がついていて、戸の開け閉めの度に乾いた泥が落ちた。
文子は物珍しさに知る人もない田舎道を一人でゆっくりと歩いた。
都会には見られない素朴な骨董が、むき出しのまま店先に並んでいる。骨董に詳しい老人が文子が初めて聞く珍しい話を聞かせてくれる。文子は孤独さを紛らわす様に手に入る小さな骨董を集め、この土地の周辺にある古い登り窯を訪ねたり、焼き物の知識を吸収して一人で楽しんでいたのである。
修二は倒産しかかっていた総合建材商社を六年で建て直し、漸く益田から解放されると思ったのも束の間、続いて鳥取の会社の経営を任され勤務を続けることになっていた。
大阪に帰る筈の荷物は、再び次の目的地である山陰の鳥取に運び込まれたのである。
和歌山には修二と文子の老後を楽しむ畑と海の家が待っている。新しい家を放っておく訳にはいかないから、出来る限り文子が新幹線を乗り継いで豊中に帰り、紀勢線に乗って三尾に足を運んだ。どんなに頑張っても、女一人の力には限度がある。畑の手入れをしたり、家に風を通したりしながら次の益田行きの準備もしなければならない。
益田にいる間に、文子が五十三歳を過ぎて思い切って取った車の免許が役に立ったのはその時からである。
文子は一人で豊中からギャランを運転して三尾まで夢中で走った。
荷物を持って電車を三度も乗り換えることを思うと、車は自分で自由に動かして目的地に向かって一直線に物を運ぶことができる。
鳥取の十年に亘る長い生活に別れを告げていよいよ和歌山に帰り着いた時、文子は七十に手の届く年齢になり、修二は七十五歳になっていた。
長い歳月の間に、高速道路は岸和田から御坊まで貫通し、時間も大幅に短縮された。高速を百キロで飛ばして走ると、和歌山の家に数時間で到着するという変わり様である。
十数年家を留守にすると、世の中の事情も変わっていた。豊中に残した下の娘はそのまま刀根山の家から大阪のリビングYに勤務を続け、表向きは所謂キャリアウーマンである。
十数年留守を続けたことで、娘の人生に及ぼす影響は大きい。今更取り返す事のできない長い年月は決定的で悲しいものである。
修二たちがいよいよ鳥取から引き上げることになった時、豊中の家には鳥取から荷物を送り込む余地はなかった。
山陰に出る時は二、三年で済むと思っていたので、豊中の家の道具類は一切持ち出さなかった。それが十数年ともなると、その間に娘の居間には山のように住宅機器の専門書が積まれ、コンピューターやコピー機に囲まれていたのである。
五年程前、高速道路の出口に近い川辺町に、広い庭付きの別荘風の中古を見つけた。早速豊中にいる娘がキッチンを新しくして床暖房を入れ、風呂やトイレもバリアフリーを取り入れ改装したのである。あまり使用されていなかったこの家は、山陰で手に入れた珍しい骨董の似合う和風の家である。
四月の末、いよいよ引越しが近づいて来たある日、鳥取で親しく付き合っていた友人が来て手伝うという。
「私の人生、生涯引越し人生だったのよ。だから引越しは手慣れたものよ。もう大方片付いてしまつたから、お茶でも飲んでゆっくりしていったら」
友人はそれでも三日間毎日手伝いに来て楽しくお喋りして別れを惜しんでくれた。
最後の引越しは大勢の友人が集まって、あっけないほど手早く片付き、賑やかな見送りを受けて鳥取の仮の住家を後にした。
待ち焦がれていた和歌山の終の住処にやっと落ち着くことが出来たが、ほっとした反面、文子の心の隅に消化しきれない何かがある。
鳥取の十年の月日の重みはしっかり文子の心の中に刻み込まれていたのである。
文子の頭と体の半分は、今でも鳥取と和歌山の上を浮遊しているような気がする。
蜜柑山に囲まれた川辺町の家は、三尾から車で走ると十五分、鶯の声も一頻り響き渡る高台にあった。
春のこの時期は畑の一番忙しい時である。十数年の間遠方から往復していても落ち着いて手間をかける暇などなく、どちらの庭も畑もこれから手を掛けなければならないことが山ほどある。
引越しの荷物わ加付けながら、三尾の畑を往復し、トマトにキュウリ茄子等の夏野菜にカボチャや西瓜まで植えた。主に夫が畑を耕し苗を植える。文子は玄関周りや庭の草取りにまわる。春はとくに草の成長が早いので、少しでも小さいうちに取ってしまわないと茂ってからではもう手に負えなくなるからである。
六月に入って二日目、その日も川辺の家の片付けを済ませ、車で三尾へ走り、予定の夏野菜の植え付けを早く終えようと、追われるように忙しく立ち働いていた。
日が暮れてやっと川辺の家に帰り着き、いつものように風呂で汗にまみれた体を洗い、食事を済ませて床に入っていた修二に突然異変が起きたのである。
文子が夫の異様な呼び声に気がついたのは、明け方の午前三時頃であった。不審に思いながら起き上がり廊下に出てみると、夫はトイレの前に俯せて倒れて動けなくなっていた。
目の前に見る夫の姿に、文子は一瞬体が震えた。夫は顔も手足も蒼白となり吐き気を催していた。
心臓が強く締め付けられる度に呻き声をあげ、文子はタオルを濡らして夫の口にあてがい、背中を摩るより施す術もない。
「救急車を呼びましょうか」
「うん、そうしてくれ」
夫は苦しみに耐えながら途切れ途切れに言った。文子は咄嗟に電話に齧りついた。やっと一一〇番を回したが、救急車は一一九番ですよと教えられ、慌ててかけ直す始末であった。
文子は玄関を開け、目印に家の内外に赤々と電灯を点した。救急車がきたのは意外に早かった。
担架は廊下を通り、パジャマのまま俯せに倒れている夫を素早く救急車に運び込み、ピイポウ、ピイポウとサイレンを鳴らしながら最短距離で国立和歌山病院に向けて走り出した。
文子は救急車の中で深夜に響き渡るサイレンの音を聞きながら、救急隊員の適切な対応と夫の容態を見守っていた。頭の中は冷え切ったように空っぽで何も考えられなかった。
急救車の中には応急の処置ができる最新の設備が整っていて、夫の体に間髪をいれず心電図や酸素吸入がなされていた。そして症状を逐一報告しながら、運び込む病院と絶えず連絡を取り合って走り続けたのである。
待ち受けていた夜間当直医は心臓外科専門の医師であった。深夜人気のない廊下で一時間ほど待たされた後、文子は急救処置室に呼ばれた。ドアの外で靴を脱ぎ、無菌のスリッパに履き替えるだけでも文子の体は緊張する。
夫は酸素吸入のマスクで口を覆われ、点滴の長い管に繋がれている。心電図を指して医者が言った。
「この症状を見ると本人は相当きつかったと思いますよ。心電図ではだいぶ落ち着いてきているようですがまだまだ時間がかかります。それまで外の廊下で待っていてください。何処へも行かない様にお願いします」
文子は初めて口を開いた。
「十年程前にも、一度よく似た症状があったのですが、こんな事は初めてです」
「それは違います。今本人から聞きましたが、五、六回軽い発作があったそうです」
修二は、文子が豊中や三尾に帰って留守の間に度々症状を起こしていたのに文子には知らせず、医者の口から聞いて愕然とした。
ただ単に、心配させたくないと言うだけで済ませてしまった修二に、文子は失望した。後で詳しく聞くと、その時は胸を叩いて深呼吸すると平常に戻ったからと言う。
医者は修二の様態を見て、その繰り返しが今日の事態を招き、症状はかなり厳しいものであると説明した。医者にはすべてお見通しなのである。
発作の後の危険な状態が去って、私は帰宅が許されたのは昼過ぎであった。白み行く夜明けから昼下がりまで、文子は廊下の長椅子に座ってじっと待った。何時何が起きるか解らない状態は六時間から八時間と医者は言う。
家に帰ってから、夜中に点けたままの電灯を消し、嘔吐の始末をした。一人になって家の中を見回すと、昨夜の騒動で急に居なくなった夫の存在が如何に重要な位置を占めていたかを改めて思い知ったのである。
際どい状態になっていても、夫は自分の責任で踏み止まり、やはり文子には男の意地をみせたのである。
夜間の担当医が心臓外科の専門であったことは何よりも幸運であった。その医者が「本人の体力、殊に心臓の力が強かった事が何よりの幸いです」と文子に言った。
それもこれも夫を必要とする天の意思が伝わったからであろう。第一の難関は何とか無事に通り過ぎることができたのである。
和歌山病院では症状が安定するのを待って、早速血管造影の手術が行なわれた。検査の結果、心臓冠動脈梗塞が四ヶ所で見つかり、少しでも早い心臓血管手術が必要という所見である。
翌日午前十一時、和歌山病院の主治医の要請を受け、心臓外科手術では関西で一、二といわれる権威ある東上先生の居られる岸和田のT病院に転送された。
迎えの救急車には心臓専門の医師と文子が付き添い、関西空港から湾岸線を北上し、岸和田北から更に国道二十六号線に向かう。若い医師は文子の緊張をほぐすように気楽に話しかけ、今回の手術に関する話も含め色々な話を聞かせて和ませてくれる。
国道に面した岸和田のT病院は何処を見回しても患者で溢れていた。午前も午後もなく、ひっきりなしに救急車が飛び込む上に、廊下にも溢れるほどの外来患者が待たされている。和歌山病院とは天国と地獄の違いでも、そこには夫の命を預ける名医がいる。
管理予備室という個室があてがわれ手術前の安静と血管造影検査を受けた。その結果体の中心を通る大動脈にも梗塞が見つかり、同時に五ヶ所のバイパス手術を受けることになったのである。
一週間の安静期間の後、東上先生に呼ばれて文子も一緒に翌日の手術の詳しい説明を受けた。名医といわれる東上先生は四十代後半の働き盛りで、その下には和歌山から付き添った医師も含め頼もしい五、六人のスタッフが整っていた。
東上先生は患者とその家族の負担を和らげる為に、総てを隠さずに丁寧に説明をし、家族の質問を聞いた。心臓を取り出して血管を繋ぐ細かい手作業は想像を絶するものである。
「先生のお考え通り、宜しくお願い致します」
文子は心から先生を信頼し頭を下げた。
修二の手術は夕方の五時から始まり、夜中の二時に終わった。長い時間、手術室の前にある控え室で待機していた文子と下の娘は、手術後三十分程たって集中治療室に呼ばれ患者と対面した。
夫は未だ麻酔のかかったままの状態で、酸素吸入のマスクの顔は見慣れた夫の顔とは思えない程青ざめていて、首の付け根や内臓数箇所にパイプを繋ぎ、そこから血液がナイロン袋の中に滴り落ちていた。
東上先生から「五ヵ所全て順調にいきましたよ」と説明を受けた。東上先生を初め、五人のスタッフの先生方も手術着のままではあるが無事に終わったという、緊張感もとれてほっとした様子がみえる。午前の患者の手術が長引き、その後の夫の手術が深夜二時になるなど、どれほど疲労が重なっているのかは待たされていた文子には解る。それでもみんな揃って笑顔で挨拶をされ、最後に
「長い時間待ってもらって大変でしたね」
と優しい言葉をかけられたのである。
深夜まで長い時間をじっと待機していた文子たちも、この一言で絶望の淵から立ち直り、清々しい気分になれたのであった。
集中治療室から重症管理室に移された後、文子は夫のベッドの側の長椅子で寝泊りをして昼夜を問わずに看病をした。身体に数箇所と心臓に数箇所のメスを入れられた夫は、身体中の痛みにさすがに弱り果てていた。
気管に麻酔の管が通してあった為に水も飲めない状態である。
弱音を吐かない夫が、初めて苦痛に耐え切れず弱音を吐いた。夫も人の子、人並みに赤い血が流れていたのである。改めて文子は夫を見直す気になった。
六、七、八月は一年の内一番暑さの厳しい時期である。修二は岸和田では手厚い看護を受け、和歌山に戻ってからは煙樹ヶ浜の緑の森の中で、冷房が行き渡った涼しい病院に寝ていたお陰で、暑さ知らずの夏を過ごしたわけである。
修二は三ヵ月の入院を終えて、九月になって漸く退院することになった。文子は退院に備えて、三日程前から退院する為の上下の服を調え、久し振りに履く靴を用意してその日を待った。
いよいよ退院の日がきた。夫は早々と一人で退院の手続きを済ませ、迎えに行った文子の車に乗り込んだ。
夫が家に帰って数週間たった。
ある夜文子が一人ひっそりと家の軒端から外に出ると、澄んだ夜空に金色に輝く三日月が煌々と光を放っているのが見える。
こんなに美しい月を間近に見ることは初めてだった。それ程光輝く三日月との距離が接近していた。
次の日もまた外に出てみた。少しふっくらとした月は、いくつもの星の瞬きに囲まれていっそう美しく輝いていた。
幸せはこんなところにもあると改めて気づいたのである。
今年の冬は今までになく長かった。この冬を乗り越えられたら、次の希望に繋がる。それから徐々に一日一日を大切に過ごせば良い。
文子は今、半世紀に及ぶ長い道のりを振り返って見る。次男坊の気楽さと奔放さを併せ持ち、人一倍高い理念に燃えた夫の生き方に文子も半ば共鳴しながら生きた人生であった。
定年後の山陰で仕事一筋の夫と十数年を過ごしたことも、とても人並みとは言い難い。予期せぬ運命が待ち受けていたのも頷けるのである。
夫の入院中日課のように一人で病院を訪ね、家に落ち着く暇もなかったのに、七月も終わりに近づきこれから八月に入ろうとする頃鶯の声を聞いた。
鶯ってそんな頃になっても鳴くのかしらと不思議に思ったが、さすがにそれからは聞くことはなかった。鶯たちの世界では、竜神から高野山あたりの高い山頂に帰って春を待ち、馴染んだ里に再び戻って来るのであろう。その時一緒に小さな鶯色の子を連れて帰って来て、その子が一人前になるまで実に様々な歌を聞かせてくれる。細やかな親の愛情が傍らにいる文子にも伝わって来るのである。
新しい年が明け、今年も鶯の鳴く季節が来た。春を肌で感じる頃からは毎日早朝の五時半頃には鶯の第一声で起こされる。
「朝の一番鶏ではなくて鶯の声で起こされるんだね」
「そんな話はまだ誰からも聞いたことがないわ。こんなに静かで自然に囲まれた家に住んで、ほんとに良かったじゃないの」
都会に住んで子育てに明け暮れていた時期も、定年後山陰巡りを続けていた時も、その時どき、自分では出来る限りの良い生き方をして来たと思っている。
和歌山に帰ってから二人は生涯の大きな挫折を経験し、修二の退院後は一級障害の適応を受けることになった。ひと味違った意味の新しい生活が始まったのである。
若し、修二が鳥取に居てこの事態に直面していたら、恐らく今の幸せは無かったであろう。気候のいい和歌山で安心して暮らすことが出来、今ではごく普通の正常な生活に戻りつつある。
朝食が終わったあとの二人の会話は
「きょうはどこへ行こうかしら」
「うん、別に何処ということもないけれど、何処か良いところがあったら行ってもいいよ」
毎日こうして老年を迎えた二人の一日が始まる。近くには上の娘夫婦と孫のひな子がいる。時々保育園に通う孫の送り迎えをし、三尾の畑をする。自然はなかなか厳しく、思うようにいかない。それでも、修二は機嫌よく畑に出かけ汗を流し、文子は時々不満を漏らしながら付いて行くのである。
何故見知らぬ山陰の生活をしたのか、思えばそれは数奇な運命のようでもある。甘んじて受けようとしたのも自分たちである。
修二の歩いた道の傍らには何時も文子がいた。人生後半の下り坂もここで一休みしたいとこである。
海はいい。或る時は群青色に、或る時は燻し銀のように輝く。そして或る時は夕焼けを写し七色に変化する。
太平洋の黒潮が溢れるように深みを増し、空と海の間には弧を描く水平線が光っている。あの遥か向こうにはアメリカもある、カナダもある。
煙樹が浜の黒い砂浜が数キロにわたって延々と続く。その先に見えるのは、白い飛沫を浴びながら岩場に取り付き、黒い姿で糸を垂れる釣り人たち。
この海辺の道を迂回しながら文子たちは三尾の畑に向かって走っている。
今漸く健康を取り戻した夫の運転で、五歳になる孫娘のひな子と一緒に車を走らせながら、何時も自然に口をついて出る歌がある。
海は広いな大きいな
月が昇るし日が沈む
海にお船を浮かばせて
行ってみたいなよその国
海は大波青い波
揺れて何処まで続くやら
声を張り上げて歌うひな子に合わせて文子も得意の喉を震わせて歌う。変わったといえば、文子の喉も往年の響きが少し落ちていささか老化気味という程度である。
修二と文子とひな子を乗せた車は、やがて三尾の海の家に到着である。
岬を通り過ぎる風はいつもと少しも変わらない。潮風を孕んだ空気は新鮮そのものである。
地球の上では、大きな海の景色の中の只一点の小さな存在に過ぎないごく自然な家族の生活は、これからもごく平凡な幸せであって欲しいと願っている。
平成十四年六月