打吹山
安西果歩
鳥取県倉吉市に打吹山伝説がある。静岡県美保の松原にある羽衣伝説に似た言い伝えで、
全国数箇所につたえられている天伝説のひとつであろう。
倉吉市の場合、何時頃から伝えられるようになったのか定かではないが、陰徳太平記に
記されている話としては、山の麓にある神社の神領地で一人の農夫が仕事をしていた時、
近くを流れる川で水浴びをしている天女を見つけ、その美しさに惚れ、天女の羽衣を奪い、
強引に天女を女房にしたというものだ。その後二人の間には二人の子が生まれるが、
天女は天に帰らねばならず、夫の留守に子供達に頼み、夫が隠した羽衣を探し出させ、
神社の井戸から昇天してしまった。子供達は父親が大切に隠し持っていた羽衣を母親に渡し、
そのため母親まで天に戻ってしまい会えなくなったことを悔やみ、高い山に登り、毎日、
母が好んだ音曲を奏でて天に昇った母を呼び戻そうとしたが天まで届くことは無く、
とうとう二人の子供は山で息絶えてしまったとい伝説である。それ以来その山を打吹山と呼
ぶようになったというのである。
藤堂綾乃はこの伝説の二人の子らに、自分が三十年前に東京に残して来た二人の子供を
重ねていた。小学生であった子供達が祖父母のもとでどように成長したのか、別れて以来会っ
たことの無い綾乃には分からない。ただ、綾乃が考えるような男に成長していることを祈るの
みである。
綾乃は北竜三を倉吉の駅で迎えて、町の駐車場に車を置き打吹公園へ向かった。「ほんとに
しばらくだったね。君が鳥取県に住んでいたなんて、想像もしなかったよ」
車を降りて坂道を歩きながら、それまでほとんど口を開かなかった竜三が言った。
雨上がりの湿った山道にかかっていた。綾乃は滑らないように足元を注意しながら、着物の裾をつまんで歩いていた。
「どうして急に僕を呼んだの」
竜三はそんな綾乃の横顔に目を向けながらこえをかけたが、綾乃は黙っている。
「着物姿で運転するひとなんて初めてだったけど、慣れているんだね。運転うまかったよ」
綾乃は微かに微笑んだ。その笑みを横顔に残したまま、下を向いて歩いていく。
「あまり風情のある公園ではないんだね。何か僕に見せたいものでもあるのかな」
竜三はいつまでも話にのってこない綾乃を不満げに見ながら付いて行く。
綾乃は突然東京の久我山に住む竜三に電話をかけてきた。
「今、結婚して鳥取に住んでいるの。とても静かな暮らしよ。急にあなたに会いたくなっ
て、涙がでそう」
四十年ぶりの電話にしては時を越えた話し方だった。
「結婚していたのかい。あれほど嫌がっていたのに。どんなひとなの」
綾乃の言葉は続かなかった。
「いいよ。会いに行っても。行ったことのない土地だもの。砂丘とか蟹とか二十世紀梨の産地だというぐらいは知っているけど」
そんな会話の果てに竜三は訪ねてきた。
「この山の上の方に大江神社というのがあるの。そして下の方に賀茂神社があるわ。私今神主をしているの」
竜三の足が止まった。
「神主って、あのお祓いをする人かい」
「そう、信じられないでしょう。私も信じら
れない。でもそうなっちゃった」
竜三は黙って歩き始めた。分るような気がする。我々はただ平凡に人生を終ってはなら
ないのだ。六十年安保以来、平和と飽食の時代は終わりを知らぬかのように続いている。
「わたしたち、あの頃、何を戦っていたの」
綾乃は歩みを止めると、瞳をまっすぐに向け、竜三の瞳が向かい合うのを待っていた。
竜三は立ち止まってたばこに火をつけ、喫煙のできる場所を探した。
「腰をおろしましょうか」
と綾乃が言うと、着物の汚れを気にした竜三はすばやく、持っていた週刊誌を敷物にした。
綾乃にとって竜三の煙草の吸い方は懐かし、胸に込み上げる青春時代の心のときめき
を思い出した。
「お茶にします。食事にしましょうか」
「うん、腹も減ってきたけれど、まあ、コー
ヒーだろうな。美味いところはあるのかい」
「さあ、どうかしら。近くに一軒あるわ」
綾乃は竜三を市役所の近くにあるモンブランという喫茶店に案内をした。
「あいかわらずコーヒーなの」
「君は紅茶かい」
渋谷のカーネギーホールにはよく行ったものだ。そして吉祥寺の田園。リクエストはブ
ラームスが多かった。
「映画もみたわねえ」
「あの時代は映画館と喫茶店、たまに湘南の海を見に行く程度だったなあ。僕達プラトニック
だったよ。キスくらいまでいったっけ」
「知らないわ。覚えていない。ただ、あなたの大学が地方だったので、たくさんのハガキが届
いた。樹氷を見せたいとか日本海を見せたいとか、はやく君と自由にいつでも会いたいとかそ
んなことをハガキで書くから、母から言われたわ。よほど綾乃を愛しているのねって」
綾乃はいまでもそのハガキを大切に持っている。
「一度だけ、燃えたことがあったね。はっきり覚えている。忘れられない時だった」
あのときだ。学生運動をしていた頃、ある闘争で機動隊に追われ、二人が一体となり霞
ヶ関のビルの一角で身を潜めたときだった。
ビルの壁の中に溶け込めとばかり竜三は綾乃を壁に押し付けた。苦しいという声さえ出
せない状態で息を殺した数分だった。
「機動隊の探索がなくなっても僕達離れられなかったんだ。くっつきすぎちゃった」
「やめてよ。オーバーだわ」
二人はモンブランをでた後、食事をして白壁土蔵群のある町を歩いた。
「この通りを挟んで、商人の町と手工業者の職人の町があったようよ。今は商人の蔵で竹
細工をしたり、下駄をつくったり、酒作りもしているのよ」
二人はアンティークな食器やガラス細工のものなど売っている店をのぞいた。
「記念にこのベネチアングラスみたいなワイングラスを買おうか。一つずつ持つというの
はどう」
竜三はどうしてこんなにロマンチストになったのだろうか。綾乃の脳裏に平和運動に命
を賭けていた頃の竜三の姿や思想が蘇っていた。優しいが決断の時は厳しい男だった。
町を出てから二人は松崎温泉に向かった。東郷湖という湖を廻って倭文神社へ行った。
「ここはそれこそ古い謂われのある神社だわ。大国主の命の時代ですもの。下照姫という安
産の神様よ。このあたりの女性のお産が大変で、お産で命を落とす女性が多かったので、
大国主の命が下照姫という助産婦を遣わして命を無事誕生させたというの。でも、彼女も
彼女についてきた人たちも、出雲に戻りたくて、姫を乗せてきた亀などは主人を待って石
になってしまったというわ。ここにはその亀石も、下照姫が出雲半島を眺めては故郷を思
って立ち尽くした岬もあるわ」
綾乃はこの地に来た頃、何度もくじけそうになった。東京で犯した罪は、大義名分を背
負っていたわけではない。たとえ自分達の理屈ではそうであっても、一人の男の死を賞賛
し手を貸すことは許されないことだ。綾乃も竜三も自分達の世界しか評価することができ
ず、自分達の信念だけが正しいと思っていた。
自殺をした男の両親や兄弟の悲嘆の姿を目にしたとき、初めて心からお詫びの頭を下げた。
彼の心を死に至らしめたことは大きな罪であった。
「平和の運動だったのよね。戦争だけは永久にさせないという運動だった。戦争は人を狂
わせる。それだけは間違いないわ」
男の死によって綾乃の心の中で、運動の大義名分が壊れたとき、綾乃は自分の幸せを捨
てた。罪を償う何かを求め、綾乃は日本の神に仕える男と結婚した。
子供達のもとに帰りたいとき、倭文神社を訪ねた。石になるまで待った亀の姿を見た。
「自分を捨てて生きるって、辛いものね」
倭文神社の境内に入った。この神社は素朴であらたかな雰囲気がたちこめている。
「ところで君は、なぜここにいるの。そうしてなぜ神主になっているのかい」
竜三にとっては、とつぜん綾乃が彼を呼んだ理由が分かりそうで分からない。
「私はここにくる前に双子のこどもを生んだの今東京にいるわ。私、彼等を置いてきたの」
綾乃の表情には深い思いがみられた。
「あなたは、自分の主義を捨てられたの。家族のためなら、あなたの世界を忘れられたの」
綾乃に尋ねられた竜三は、彼女の瞳の奥をじっと見つめた。
「私たちは人を死に追いやってまで、自分の信ずる道を貫こうとした。だから今も、道は
貫かなければならないの。そして、挫折した人たちのために償うことも必要だわ」
「それで僕を呼んだのかい。一緒に死んでくれというのだろうか」
竜三は覚悟ができているという表情をした。
「いいえ。そんなこと言わないわ。ただ、確かめたかったの。あなたも忘れてはいなかっ
たのね。私たち苦しい生き方を選んだのね」
君は信念を持つ運動家は家族や子供を持つべきではないと昔言っていたね。だが、反面
同じ信念を持つ後輩を育てなければとも言っていた。僕は君の強さに付いていくことが辛
くなったんだ。それで疎遠になった」
「憂国」
国を憂えたあの男は死をもって社会の未来に警告したのだった。
「彼の死は挫折なんかではないわ。私は、樺美智子さんが眠るこの地を選んだの。彼女の
死を無にしないため」
「僕は東京に戻らない方が良いのかな」
竜三の心に決意があることがよく分かった。綾乃は竜三を信じていて良かったと思った。
「戻ってください。私はあなたの心が分かっただけで十分よ。これからの生きる力になる
わ。ありがとう」
綾乃は、一人で信念を貫くことに自信を失いかけていた。
綾乃の罪は消すことも贖うこともできないものだ。生きている限り償いは続く。
二人の禊は終っていないのだ。
「今晩は松崎に宿をとってあるのだろう。一緒に泊まってくれるんだね。あのときの気持
ちを確かめ合おう」
竜三が綾乃の心を理解したように言った。機動隊に追われたあの日。ビルの壁に張り
付いて、まさに一体となり難を逃れたあの日のことを確かめ合うのだ。
二人は、古いたたずまいの宿の前に立った。掃き清められた敷石に打たれた水は、昨日ま
での過去を流し、静かに今日を迎える備えの姿であるようだった。