ゆ き 

                                           滝本 由紀子

 

 (その

 鳩羽色のほの暗い空から細かい柔らかな雪が音もなく舞い降り始めた。

 師走も押し詰まった二十四日。明治25年も残り僅かで、町は年越し準備で忙しくなってきていた。
 たった今、この世に生を受けたばかりの赤ん坊が、世間の喧騒には関係なく無心に眠るのを、母親のみつは愛おしそうに眺めていた。既にみつには二男一女があったが、先ほどから降り始めたこの雪は、可愛いこの子を賜うた神の祝福の印のようで四人目の男の子ではあるけれど特に感慨深かった。

「男の子だと思うてたに」

 吐き出すように夫の弘が言うのを、みつは

「男子を授かれど手元に置かれなんだり、育たなんだらしょうがありませんがな。子供は達者が一番や。第一女の子は育て易いし可愛らしいし…」

 と強い口調で言い切った。

 実際二人の男子のうち手元に抜けるのは、二男の達二だけで、一人は幼いうちに後継のなかった本家筋に養子に出していたから、母親としてのみつの言葉には真実味があった。

 お七夜の朝みつは

「この子が生まれた時、きれいな雪が舞い降りてきた。だから名前はこゆきに決めようと思います。あの雪の感じは平仮名ね、漢字では強すぎて駄目」

 と言った。みつは気性が激しく、言い出したら逆らっても無駄、とばかりに弘は無言で筆にどっぷりと墨を含ませ半紙に「命名こゆき」と書くと恭しく神棚に上げた。

 萬延元年(1860年)生まれのみつは家付の娘であったのだ。

 弘は若狭小浜藩十万二千五百石の酒井雅楽頭一族の流れを汲む酒井雅楽之助と多加の二男として、嘉永二年(1849年)に生まれた。

 縁あつて明石家の家督を相続することになりみつの夫として養子に入った。

 みつが生まれた萬延元年三月は(あの)桜田門外の変が起こっている。

 その前々年の安政五年七月(1858年)時の大老伊井直弼と政治上の意見の衝突があり、幕命で福井藩主松平春嶽は隠居謹慎となり藩主の座を退いていた。

 (安政の大獄)に巻き込まれた福井藩と、仕えていた明石家にとって一大事であった。

 みつの父はコツコツと己の任を果たして、ようやく忍の日々に慣れてきた時に初めて授かった子供が「みつ」であった。

 その夫となった弘は、長兄が藩主の側近くに仕えていた縁で、早くに父を亡くした彼も幼少からお小姓として殿のそば近くに仕えて殿に目をかけられていた。

 文久二年(1862年)四月、松平春嶽は幕府に赦免され、一橋慶喜が将軍後見職の任についたのを助けて(政治総裁職)に任じられ再び幕政改革に活動するようになり藩はようやく落ち着いた。
 その頃十六歳になった弘は慶応元年(1865年)元服の歳を迎え、ちょうど京都の小浜藩邸に滞在していた松平春嶽によって、弘という元服名を賜り幼名の酒井重遠を改めた。

 明石家は福井藩十一代藩主松平重昌の代から仕え、千石取りの古い家柄でみつの祖父縫殿、父将監と代々藩の老職を務めた上級武士の家柄であった。

 みつの父明石将監に強く望まれて養子に決まった弘だが、妻となるみつはまだ八歳で良妻になれるとは想像のできない気儘娘だった。弘は十八歳で殿様に元服名を賜わって二年が過ぎていた。ほどなく明治維新という途方もない社会変革が起こる。

 これまでの世であれば、弘は毅然として任務を果たしていく立派な武士となったかもしれない。しかし十九歳の身には、これ程の大変革は厳しいものだった。

 みつは弘より十一歳年下の八歳であったので、弘との実際の婚儀は明治九年で、それまでの弘はみつの父将監のもとで後継として修行の身であり、みつとは別棟に住んでいた。みつのしげは弘について「幕府御三卿の田安徳川家からお越しになり城主になられた名君の誉高い十六代藩主松平春嶽様に元服名を賜った人物だから、さぞ頼もしいお人であろう」と弘に大きな期待を持っていた。
 彼が正式に明石家の後継になった時、小浜の親元からは藩主春嶽の直筆、花押のある命名由来書が立派な衝立屏風に仕立てられ明石家に持ち込まれていた。

 しかしこれからの明石家を担う彼にとっては明治維新という途方もない改革の流れはただ戸惑うだけで、若く未熟な身にはあまりにも荷は重かった。当時士籍にあり維新の風に体上に立ち廻れなかつた者たちのその後は、惨めなことが多かった。
 まして賊軍敗者の幕府側にいた人達は尚更であったらしい
 明治二年には春嶽は版籍を奉還し、明治三年免官下野したので、家臣達はそれこそ糸の切れた凧同然となり、厳しい現実が彼らの前に立ちはだかった。
 明治四年廃藩置県となり弘の舅は「将監」というものものしい名を捨て「任也」と改名し県の小役人になり、千石取りの家禄を戴いていた頃の大所帯と違い全くの周楽はどうしようもなった。しげは家の体面を保つためにと常から倹約を旨とし、安政大獄の大騒ぎに巻き込まれた時は極度に家計を切り詰めてその分で藩の為にと尽くし武家の妻として恥じることのない暮らしをして
きたが、維新騒動の中にあっても毅然として家計を守った。

 やがて一家は家内の人達は皆に暇を出すと、台所まわりの老女一人だけを共に連れて、住み慣れた地に思い出を残して福井市清川上町を離れ、伝を頼り大阪京町堀に移り住んだ。大阪は文明開化で浮かれ、維新前とは様変わりしていた。
 十六歳になったみつは、弘と正式に祝言をあげ、翌年の春には長女千盤が生まれた
この騒動の中にあっても、両親が健在の間はみつ達はまだ直接生活の苦労を知らずに暮らした。「任也」と改名した父将監は商人の街大阪で生活の糧を取るために「武士の商法よ」と笑われようとも、慣れぬ商売を始めるしかなく、そのころ盛んになってきた海外貿易に目をつけて神戸の知人に手ほどきを受け続けて輸入物の美術品や貴金属の商を始めた。
 誇り高い千石取りの長い間の蓄えを総てつぎ込んでの再出発であった。
 明治四十五年、改革波乱の明治時代が終わりを告げる頃、あの小雪舞う日に生まれた明石こゆきは二十歳になった。
 頼りの祖父母は亡くなり、こゆきの父弘は当主とは名ばかりで生計のために祖父の始めた商いの方は未だ若いこゆきの兄の達二が神戸に居を構えて何とか頑張って続けていた。
 母のみつは、相変わらず気位ばかり高く、生活力に乏しい夫を責め立てるため、父はみつの厳しい言動に悩まされていた。

 一日中机に向かい駄文や散文を書いてみたり、大津絵もどきの絵を描きなぐっては、ごろりと寝転んで本を読んで過ごした。働く意欲などはまるでなく完全に時代に取り残された存在になっていた。
 彼は、当時近代文学の創始者である二葉亭四迷に傾倒してツルゲーネフの翻訳「あいびき」や「めぐりあい」などを読みふけっていた。
「二葉亭四迷なんて名前は「四迷」の親御さんが、軍人にも外交官にも慣れなんだ息子を怒って、お前なんか「クタバッテシマエ」と罵っていたので「自分にはそんな筆名がおにあいや」って面白がってつけなさった名前やそうですがな。そんな親の怒りを茶化す親不孝なお人の作品に凝ってる貴方ってホントお馬鹿さん。家族への男としての責任感がまるでないお人ですようなぁ」
 と、どこで仕入れてきたのか判らぬ知識をひけらかして夫を責めたてた。
 暮らし向きは、息子の達二からの仕送りと先祖から伝わった残り少ない書画骨董類を手放してやっと成り立っていた。
 そんな両親を見て
「祖父母は偉かった。特に祖母は黙ってやり繰りに知恵を絞っておられた。維新の嵐の中でも家族を守り、ましてや夫に不足を言われたことを聞いたことが無かった。それにひきかえその娘である母はどうだろう。なるほど父には生活力がなく家族を守る責任感に乏しいのはよく判かるが、夫に力がない場合それを責めるばかりでなくこれからは、女も世の中に出ていって男子同様自立できる生活力を持たなければ…」とこゆきは母親を反面教師にしてこれからの女性の生き方を真剣に考えるのであった。

 明治四十年(1907)師範学校規定が設定された。(1部、2部に分けられ2部は中学校卒業をもって当てられるようになる)こゆきは両親に内諸で検定を受けて小学校教員免許状を手にした。
 座布団ほどの大きい教員免許状を母に見せるとみつは仰天した。
「女が二十歳まで嫁に行かないだけで恥ずかしいのに、職業を持つなんて!あんたさん何を考えておいでなんや。私はそんなバッサイ(お転婆)に育てた覚えはありませんで」
 と反対して怒る。だがこゆきは
「今に女も自立せなあかんようになる。男の人に頼れ無い事もあると思うんよ。結婚しても仕事を続ける覚悟ですよって学校勤めを許して」
 と頑固に譲らなかった。
 仕方なく諦めた親の許しを受けると、こゆきは知り合いの家に下宿して大阪市の東部、平野の小学校に勤め始めた。
 明治44年、明治もいよいよ終わり近くなっていた。
 当時の平野という土地は江戸時代から栄えた商人が多く住んでいて、町は環濠と呼ばれる堀わりに囲まれ外部から独立した形態を持つ裕福な地域であった。
 家々の軒にはそれぞれに「うだつ」が上がり整然と並ぶ家並みも美しく、ゆったりと豊かな水の流れる堀わりには亀や鮒の泳ぐのが見えた。
 のんびりした風情の、こゆきの下宿の近くには秀吉も好んだというアメを売る創業三百有余年の「平野飴」の老舗もあり、初めての俸給でこゆきは両親に飴をお土産にして帰った。
 夏になると「平野こんにゃく」という喉ごし良い「具沢山」の特産こんにゃくをお土産にし、こゆきによってもたらされた、新しい豊かさを両親も素直に喜ぶようになり、初めは女が仕事をもつ事を反対していたみつも次第に考えを変えてきたと、やっと安堵してるこゆきに縁談が持ち上がった。
 相手は大阪府に勤める官吏で、こゆきより五歳年上ということだが、こゆき自身全然縁談には興味がなかった。しかし本人不在でも話は進んでいった。
 年の暮れ、学校は休みになったので、こゆきは家に帰った。
 前夜の嵐で門前に木の葉が散らかっていたので、掃除をしていると黒紋付きの羽織を着た小柄な老婦人が、連れの女性と2人で訪れてきた。竹箒を持つこゆきの顔をしげしげと見つめ
『あんたさんが、こゆきさん?」
 と尋ねジロリ見つめ、連れの女性と顔を見合わせ怪訝な表情をしている。
 その客たちを招じ入れて母に引き合わせるとこゆきは来客のお茶の支度をした。 
 座敷から客たちの話し声が聞こえてくる。
「へーな。このお方はな。なんぼ格が高いお家の娘さんか知らんけど息子の嫁には、もうちぃと器量のええ子が欲しいと言いなさるよって、写真写りが悪いんと違いまっしゃろかてワテは言うたんどすわ。ほんでなぁ今やったら、学校がお休みだから、本人さんが居てはんのと、違いますか、本人さんに会うてからお断りやしたら宣しおますがな。とう言うて今日は寄せてもろたんです」
 と、客の声は聞こえるが
「・・・」
 みつは明らかに気を悪くしている様子で声がない。
「ほんで今、本人さんに表でお会いしたら、色の白いええお嬢さんやおませんかいなぁ」
 途切れとぎれに聞こえる話し声で、こゆきは万事を察したが、どうかこの話が壊れますようにと念じていた。が結局は明治終わりの写真技術の悪さで壊れるはずの縁談は、本人が在宅していた事によって成立してしまい、年号が大正と変わる直前、こゆきの結婚は決まってしまった。夫となる永島豊は、大阪府の土地測量技師で国の方針「新しい大阪市」を造るために、農地等を新しい町造りに区画整理する仕事をして、母親と2人で暮らしていた。こゆきの勤めている平野の小学校から北に4キロ(約1里)の所に住んでいたので、こゆきは婚家から歩いて学校に通うことになった。

(その二)

 私が祖母小雪のことを実際に書きとめようと思うようになったのは、祖母が亡くなった昭和48年3月31日以降のことで、祖母は享年82歳であった。
 昔、自分の来し方を書き残したく思っていたらしい祖母は、新しく筆性の良い筆を求めたといった事があった。
 抑揚のあるかな文字の祖母の字は品があって万葉仮名の「水茎きの後も美わし」と言うのはこんな筆跡を言うのだな。と感心し私には到底まねができないと思うった。
「ゆっ子ちゃん。お願いがあるの。私の生きて来た、「来し方」とでも言うのかな。それを書いておいて欲しいんやけど」
 こんなことを祖母が私に言ったことがある。
 その時20歳ぐらいだった私は困惑した。
 青春を楽しみながら、勤めもし敗戦からようやく立ち直った若い日本に、ドッと溢れてきた外国文学の翻訳物を乱読するのに忙しい毎日だったから、なんで私が…やねんと笑い飛ばし
「そのうちにな。それよりお祖母ちゃんが、ご自分で書きはったらどないやのん」 
 と言って取り合わなかった。
 そんなやりとりが何度かあったが、いつも冗談だと思っていた。
 やがて結婚して祖母の許から離れた私は自分の新しい生活に振り回されると、祖母の頼みはそれっきりになった。
 たまに祖母に会うと
「旦那さんやらご両親に尽くしなさいよ。嫁に行ったら、そこの家のことだけ思っていたら宣しい。こちらの身内のことは二の次に考えるんですで」 
 と、聞いて欲しい私の日常の繰り言をはね返して同情も慰めの言葉もなかった。
「女は結婚したら自分を捨てなはれ」
 それが祖母の口癖だった。
 母数え年19歳の子の私と妹は、子育てに慣れない母にかわって祖母に世話になることが多かった。後年の母は仕事を持っていたし、私たちと一緒に暮らしていた祖母が、私の婚礼の着物も皆縫ってくれ、やれ華道の発表会だのお茶会等と通常なら、母親のする役目を全部果たしてくれた。
 曲がった腰を伸ばし小さく縮んでしまった身体に、黒い紋付き羽織をきっちり着て何処にでも来てくれた祖母の姿が、今も昨日の事のように思い出されてくる。
 祖母が亡くなる前年の昭和47年、私は姑を見送り、いちどにいろいろな心労が重なり落ち込んでいた。
 そんな時、すでに伯父精一たちと共に東京に移り住んでいた祖母が電話を掛けてきた。例により私を励ましてくれてから、
「私も、もう先はなごう(長く)無いんでね、あんた一ぺん、東京へ来て頂戴。おおて(会って)話っていうか、頼みたいこともあるし…」
 と、いつもの調子とは少し違い、言葉のトーンが落ちていた。
 なぜあの時に万難を排して、祖母に会いに行かなかったのかと私は今も悔いている。
 暫くして祖母が寝付いたと知るが、母が介抱をしに上京したので、行きそびれ結局祖母とゆっくり話す機会を永久に失ってしまった。
 「あの時オバーチャンは、私に何を頼みたかったのかしら…」と気になり、祖母との間で長年交わした手紙を溜めた風呂敷包みを引っ張り出した。

 読み返すと手紙の中身は、いつも私の送った新刊本の感想やお礼、家族の近況などが書かれていたが、どの手紙も最後に「思ったことを書き残したかった」とか「書き残すこと数々ありながら…」で結ばれていることに気が付いた。祖母が寝付いて亡くなる直前に書いたらしい葉書には、私の子ども(ひ孫)の受験勉強を案じてから「私は自分のことを書き掛けては結局破ってしまい完成できずに終わりそうです」と書かれていた。
 祖母こゆきの一生は、明治、大正、昭和を生きた女としてはごく当たり前の「忍従」の生活で特に涙なしでは語れない…とか波瀾万丈というほどではない平凡なものなのに何故私に「自分の来し方を書き留めて」と何度も乞うたのか。
 祖母が亡くなって34年経つ今となって詮索することもできないし、どうでも良いことではないかとも思うが、何故か気になり始め、この際記憶にある限りの祖母の来し方を整理してみたのだった。

 明治45年7月30日、戸籍上では祖母は結婚している。
 実際に嫁したのはそれより1年ぐらい前の事だったかもしれない。嘉永2年(1847年)生まれ60歳の姑ツタ明治20年生まれ25歳の夫、豊のもとから毎日一里の道程を学校に通う生活を続けながら、私にとっては初めての伯母になる、はま子を生んだのは大正5年のことであった。
 そしてあれ程の執念を燃やして頑張った教師を辞めてしまった。
 私たち孫と暮らした晩年になっても、座敷の床の間にある輪島塗の黒い免状箱から古びた大きな教員免許状を、そっと出して眺めている祖母を時々見ることがあった。
 私は、
「一生の仕事にするつもりだった先生をなんで途中で止めはったん」
 と尋ねたが、
「意志が弱かったんやね、私は。自分の意見がいつも言えなんだ。あんた達は肝心な時は自分の意志を貫きなさいや。後でどうの、こうのと思っても、その時はどうにもならんのよ。我儘言うのと自分の正しいと思う意志を通すのとは違いますんやで」
 と力を入れて言った。
 祖母が大正3年私の母俊子を生んだ時、姑は目を細め、こゆきには赤ん坊に触れさせず自分が抱え込んで愛おしそうに
「イチマサン(市松人形)みたいや。可愛いらし、化愛いらし」
 と初孫のお世話に余念なくこゆきの学校勤めにも何の心配もなかった。
 二年経ち二人目を身ごもった時も、
「何とかなりますやかい。無理やったら子守さん雇ったらよろしいがな」
 と上機嫌で言っていた姑が、二人目も女が生まれると
「女の子をやったらよう世話しませんで。最初は女でも宣しいけど、二人目には男を生んでもらわんと。子守さんは雇えまへん。あんさん学校を辞めて自分が世話しなはれ」
 とにべもなく子守を断られ、こゆきは途方に暮れた。
 今までは毎日のように俊子を自分の横に座らせ、孫にと特別に買い求めた玉子を、七輪の上に乗せたアカ(赤銅)の平鍋に割り込んでかき混ぜ煮えてくると
「さあさあお玉さんブチュブチュでっせ。そーれ見てなはれや」
 煮え固まってくる炒り玉子を見て
「ぶちゅぶちゅ」
 と喜ぶ俊子に食べさせているその声までが可愛らしかった姑の、別人のようなきつい口調はまさかと思われる変わり様であった。
 こんな時こそ頼りの筈の夫も
「辞めはったら宣しいがな。誰も働いてと頼んでぇしまへんや 」
 と取り付く島も無い冷たい態度である。
 実家の母みつにしても
「それ見ておみ、女は仕事と家とは兼ねられません。そんな事始めから、わかってますやないの」と我が意を得たりとばかり笑うばかりであった。
 俊子をあんなに喜んで可愛がった姑の心の内を計りかね、孫ならどの子も同じと思っていたのに、女の二人目はそんなに値打ちが無いものかとこゆきははま子が不憫であったのだ。それが当然のように姉のお古を着せられてスヤスヤ眠るはま子には、姑ツタは全然関心がないようであった。
「子守さんを頼んででも、このまま続けるか女先生として人気もあり自分でもやり甲斐があるこの仕事を辞めるか‥」
 しかし二番目の女の子を疎んじる家で育つ子供が可哀想だとこゆきは思う。とても夫も姑に理解を求められる雰囲気はなかった。
「真面目な官吏の家で、妻も働くなんて体裁が悪い。女にやり甲斐のある仕事なんかあるものか。女に何ができるんや。気まま以外の何物でもないわ。しかも女の子ばかりで男はよう生んでないのに」
 と周囲の目は冷たく、結論はそれが生涯の仕事と決めたはずの教員を10年で辞めた理由であったと思う。
 実際それは正解だったようで、その後の8年間はまたまた女が二人続き永島家は女の子ばかりが計4人跡取りの男子を待ち焦がれながらツタは結局男の孫を見ずに死んだ。
 大正15年冬、祖母こゆきはやっと五番目に長男精一を授かった。

 秋海棠ほのかな紅に蘇る昭和三十年祖母との会話
                                      由紀子

「今のご時世やったら、精一はよう生んでないかもしれんね」
 と笑いながら言う祖母。
「ホンマや女の子ばっかり四人も続いたら今やったらもう諦めるわよ。叔父ちゃんは昔で良かったね…」
 と私も笑う。
「精神一統何事カ成サザラン」と祖父は気負い込み待ち望んだ息子に精一と命名したが「精一なんてエライ名付けて貰て。私にとっては、ほんまに何もかも精一杯でギリギリの子育てでしたわ。けど子供は女でも男でも値打ちは一緒よ。母親にはみな同じに大事な宝やよ」
 祖母は、最後は他愛ない話に茶化しながら述懐した。機会ある毎色々聞いて欲しかったみたいだが、その気持ちを私は十分判らなかった。祖母には私が初めての孫だったのに。今、私は悔いている。
 もっと真剣に祖母の話を聴いておくべきだった。祖母の聞き伝えて欲しかったであろう維新以後の貴重な体験。知られざる喜びや悲しみそしてエピソード等なども…。
 思い出に残る祖母は、常に長火鉢の大向こうにどっかと座り構えた祖父の前で、食事給仕用の丸い盆を持ち侍るように座っていた。
 祖父はあの大戦前も戦時中もずっと世の中に拗ねた見識を持ち物を申した人であった。厳しい言論弾圧統制のあの時代に絶対に禁じられていた皇室への不満、政治の批判、軍部の悪口、等容赦なく喋り、毎日ブンブン怒り暮らしていた。
「錦の御旗さえ、ちらつかせたら何をしても良いのか。維新の時じゃあるまいし。こんなアホな奴らがする戦争絶対負けまっせ。第一、大本営は国民を騙してますやろ。あんさん、そんなんに気がつきまへんか」
 子供だった私は軍国主義コチコチの教育を受けていたから、
「何という考えのおじいちゃんやろ。非国民やなぁ。今に憲兵さんが怒りに来てきっと牢屋に入れられはるで…」
 食事のたびに祖母に己の考えや愚痴をぶつけて鬱憤を晴らす祖父を見て、子供心に心配もしつつ密かにそんな祖父を軽蔑した。
 祖母は一言の意見もいわず黙々と祖父の食事の給仕をし、
「へい。そうですか。はい」
 とかしこまって聞いているだけである。
「負けるって!おじいちゃん怖いこと言いはるね。日本はアメリカに絶対負けへんよね」
 不安に脅える私に
「あんな事言うて鬱憤晴らしてなさんのよ。逆らわんと聞いてあげたらそれで気が済むんやから…日本が負けると一億玉砕。皆死んでしまうと思って余計に腹が立つのよ」 
 平然と笑っている。
 戦争が厳しく物資不足でも、家族のだれよりもごちそうを食べ手に入り難い酒を嗜み、子供にも孫にも優しい言葉等かけたことのない祖父を非情な人と孫の私は怖いばかりだったが、祖母は心の中で「この人は古い考えで自己流に凝り固まり強がっているが実は小心で気の弱い殿方よの」と少し哀れんでいたのかも知れぬ。
 四人女子が続けて生まれた時期も、当然のように女遊びをした夫に一言の恨みごとも言わず、女としての誇りも捨てた忍耐ばかりの生活の連続に表向きは見えただろうが、祖母は案外憎しみを超越してもっと高所から「男の弱さ」を見通していたのではないか。そこに最後の武家の女としての誇りを私は感じる。 
 私の母である俊子は、学校を出るなり父に略奪されるようにして結婚した。当時珍しい恋愛結婚にも拘わらず父は不実な人で、戦争中航空機部品にかかわる仕事で軍に入り込み儲けて東京に居を移す頃には新橋の芸妓を囲った。敗戦後そちらに男子が生まれるとその居候を続けて最後には家庭を捨てた。娘が受けた屈辱は祖母が過去に受けた苦しみ似ていた
 次女はま子は、人なつっこい娘で四人の娘の中で一番頭も良かったが、たまたま大阪に来ていた鳥取の青年と縁があって結婚し鳥取に住むことになった。鳥取一日中を出て県庁に勤める夫には昔気質の母が居て、息子が大坂くんだりの女に誑かされたので仕方なく嫁として認めたというふうで、嫁のはま子に事ごとに辛くあたり、子供に恵まれない彼女はまるで女子衆のように扱われ苦労していた。見かねた祖母は戦前のまだ交通不便な中を大阪から鳥取まで、暇を作っては、はま子の姑のご機嫌伺いに行ったらしい。
 旧弊そのものだった鳥取では、嫁の里たるものは婚家へ物を運んで当たり前の昭和十年前後の事である。
 が…後年私たち母子が思いがけず、はま子伯母に世話になるとは当時は誰も想像していなかっただろう。
 私の父が仕事の本拠を東京に移したのは昭和18年4月で、その頃になると軍部がいくら隠しても敗色の濃いことは国民も薄々感ずいてきた。
 娘一家の東京行きを聞き祖父は呆れて
「貴方らは東京へ空襲にあいに行くんか。見ててみい、今に爆撃にあって死ぬよ。止めとけやめとけ」
 と大反対した。母自身も
「夢見も悪かったし東京行きはやめとこうかな」
 と渋っていたが、強引な父に引きずられ私たちは東京大塚坂下町に引っ越した。真っ白いクチナシの花が咲く昭和18年初夏私は5年生であった。
 転校先の小石川区(文京区)青柳国民学校は名刹、護国寺の前にあり、幹線道路には都電が走っていて駒場の帝大や東京文理大も近くというまさに東京のど真ん中、万一東京空襲となれば真っ先に狙われそうだと母は心配し始めた…が私と妹は新しい環境にすぐに慣れて帝都の洗練された環境に馴染んでいった。
 秋になるといよいよ空襲が始まり警戒警報のサイレンとともに学校と家との間を行き来するだけの日が続き勉強どころではなくなった。
 明けて昭和19年正月には、たびたび空襲警報のサイレンに脅かされ何時でも防空濠に逃げられるよう着たままの姿で寝るのが当たり前になる。
 六年生になった昭和19年6月30日「学童疎開促進要綱」なるものが「極秘」で閣議決定され国民がそれを知った7月15日以降には急に疎開が急がれて学校は大騒ぎになった。「縁故疎開ニヨリ難キ帝都ノ学童ニツイテ左ノ(帝都学童集団疎開実施要綱)ニ依リ勧奨ニヨル集団疎開ヲ実施云々…後略(政府通達)」要は一に縁故疎開を強力に勧奨。二、それを成し難き学童には集団疎開を実施するという事で、対象は「初等科三学年以上六学年」となり半強制的に各自いずれかを選ぶ事になった。
 我が家には、疎開のできるような郡部には縁故がなかった。早速小石川区の国民学校15校のうち13校は宮城県鳴子地区が疎開先と決まり青柳校鳴子地区が疎開地となる。これは後年わかったことだが、この学童集団の規模は、わが国教育史上最大のもので、約4000人の児童が1カ所に移動したのだそうだ。この疎開計画に母は、直感で危険を感じたらしく3年生の妹には「病弱で集団疎開に不向き」の医者に証明書を取り付け学校に提出し疎開を免除して貰うが私は「お国のために頑張ろうじゃないの」と勢い込んでクラスの半数とともに疎開組に入ることにした。
 出発は8月11日ときまり空襲の警報下、夜の灯火管制の暗い灯の下で母が、布団や衣類の準備を始め私は、新しい冒険にでも出掛けるようにワクワクして準備を見ていた。
「月月火水木金金」と海軍の艦隊勤務の歌を日常歌う私たちには、むろん夏休みなどはなかったように思う。8月になってすぐのある日母が緊張した様子で学校から帰ってくると
「あんたの疎開断ってきたよ。私たちは東京でて鳥取へ縁故疎開するから…」
イヤヤ」と私は泣いた。軍国教育を叩き込まれていたから国民学校6年生にもなれば銃こそ持たずとも天皇陛下のために次代を担う少国民は集団疎開をして空襲を逃れ、お国のため尽くすのだと妙な気負いを持っていた。思えば軍国教育という怖いマインドコントロールにかかっていたのだ。
 母は分厚い手紙を私に見せて
「鳥取の伯母ちゃんところに疎開できるようになったって、大阪の祖母ちゃんから手紙が来たから今学校に断わってきた」
 とセイセイした顔をして言う。
 あの時、私たちは大きな岐路に立っていたのだ。それを思うと六十余年経った今も、時々ゾッとすることがある。
 もし集団疎開していたら、どうなっていただろう。親子バラバラになっていたかもしれぬ。とても綺麗ごとでは済まなかった。
 戦争が熾烈になり食料も尽きてきて、疎開先では政府の無計画さで、ろくな食事も与えられずろくな衣服も着られずに、つらい勤労のみをさせられた疎開児童たちは、わずかの間に足のあるユウレイのように痩せて弱っていったと記録されている。また東京に残った父母たちも空襲で死んだり行方不明となり疎開地から帰ってきても戦争孤児になった人も多かった。あの負け戦。断末魔の悪い郵便事情の中で、母→祖母→はま子伯母と祖母を中心に往復した手紙のお陰で私たちは鳥取に疎開できた。空襲の犠牲にならず揃って終戦を迎えられたのは偶然ではなかったのだ。
 こうして私たち親子が世話になる事だけでも、難しい姑に気を使っただろうはま子伯母の許に戦後の食糧難の時期は、争って母の姉妹はずいぶん世話になった。今まで山陰の片田舎とばかり、はま子姉のいる鳥取に用のなかった妹連中だったのに全く虫のいい話だが、それがどうやらできたのも祖母の陰の力が大きかったのではなかろうか。
 さて三女万里子の夫は生活力が無く、その分、家事が得意なので、妻が働いて女と男の役目の振り替わった妙な家庭だった。
 四女慶子は夫の兄弟が多くその確執葛藤に悩まされた。 
だが、結果的に祖母は母親として娘たちそれぞれの家庭の防波堤の役に徹して、娘たちを守り抜いた。それが起こった六十数年前は、あの大戦の絡まった中だったからなおさら大変だったのだろうし、今では考えられぬ苦労もあっただろう。

 晩年になり道元禅師の「禅の心」に救いを求め安らぎを得た祖母は、
「人間は死んだら[無]すなわち{空}になる。何もかも消えて楽になるのが楽しみやわ」 が口癖だった。
 祖母こゆきが自由を得て幸せを感じたのは祖父を見送った昭和27年以降二十年程であったと思うが、その間には子が無い寂しい境遇で病に倒れ50歳で亡くなったはま子伯母を、鳥取に出向いて最後まで看取り母の務めを果たした。
 祖母と交わした便りの中で、祖母の思いを辿ってきた私は、やっと気が付いた。
「人は何時か必ず死んで無になる。枯れた大豆の束のように。しかし大豆の束は死んだのではない。枯れたさやの中をご覧。つやつや光る豆の実が並ぶ。畑に撒けば青々と育ち沢山の豆が実り増えていく。この繰り返しは人の一生と同じ。実りの多い少ないは作る人の努力次第。だからこそ恥ずかしくない生き方をしなさい。お金や物はその気になり、手段さえ選ばなければ、そしてまた頭を使い身体も使えば、死ぬ気で働けば誰でも貯められ金持ちにもなれるけど、人間として生まれた限り、お金で買えないものを子孫に残さなければならないと思う。自己を磨き誇りの持てる生き方をして欲しいわ」
 祖母は、自分の来し方を孫の私が記す事でその時代を懸命に生きた女たちのポリシーを書き留めて次の世代に伝えていって欲しかったのだ。で、それらを記して残せば今は鳥取市久松山麓の円護寺の墓地に寂しく眠るはま子伯母も喜んでくれそうで少し肩の荷が降りた。

 さてそこで、今の私はどうなんだろうか。と己が心に問うてみると、齢70半ばになってはいるが祖母たちの生き方の真似事もできそうになく未だまだ「要修行」の身の上で「鶏鳴鋭けれど夜はまだまだ深し」とジタバタして時を過ごすばかりである。                                          
                                  おわり

 参考資料

  福井県史、 資料3「中・近世一」  福井県
   松平春嶽のすべて  新人物往来社
   泣くもんか  疎開児童たちの記録  島田 雅 編
   サンケイ新聞出版局  昭和44年発行