牛の戸 名前の由来


牛の戸は、古来より牛を崇め奉る地域である。近年、大日寺が牛を、祭っている様であるが、以前は「大日山」と称するお堂があり、牛市が行なわれていたようである。
なぜ、この地に、この様な名前と風習が残っているのだろうか?
「大日山」と言えば天王山を言い表しています。各地にある「---大日山」が在り、ほとんどが天王山=牛頭天王と結びつき信仰しています。
又、必ずといって良いほど、妙見さんと羽黒山と温泉が一体と成っています。
牛の戸神社は、昔、妙見大明神と言い、明治になってから、他の祭神を合祭し、牛の戸神社として村社としています。
このような事から、妙見さん、妙見権現、妙見大明神などと言われている所が多い、妙見は星占いを現す言葉であり、太陽神に通ずる。
旧名は妙見神社を名乗れども、現社名に変更されているものが多くあります。
また、妙見神社であれば、妙見菩薩を祀っているはずですが、実際は「天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」を祀っている例が多く、妙見菩薩の例がなかなか見当たりません。
天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)とは、日本神話で天地が誕生したとき、高天原に最初に現れた「造化三神」の一神で、天の中央に座して、宇宙を主宰した神といわれています。
もともと、奈良平安時代の頃より、神仏は融合し、習合されており、天御中主神 (あまのみなかぬしのかみ) と、北極星の妙見菩薩が、同じく天の中心を表しているものとして、まとまったひとつの信仰の対象となっていたと考えられています。しかし、明治初期の『神仏分離令』および『廃仏毀釈』により、それまでの神仏習合に対して、これらを分離し、仏と神を分離しましたが牛とか星はどちらにも付かず排斥され、表舞台から姿を消さざるを得なくなりました。
これが現在、祭神には天御中主神が主に祀られ、社名も変更された理由と考えます。
このような事から、妙見さん、妙見権現、妙見大明神などと言われている所が多く、妙見は星占いを現す言葉であり、太陽神に通ずるとして今でも多く名前のみが残っています。


羽黒山といえば、羽黒天狗となりますが、天狗は奇妙奇異な術を身につけているとされています。これは牛頭天王=神農氏=漢方医学+温泉療法などと太陽神 (陰陽道) を合せた医術であり、月の暦と星の移動と占いとあわせた現代に通ずる科学です。


牛の戸神社は昔、妙見大明神と言い、明治になってから他の祭神を合祭し、しています。
「牛頭天王」とは元来、インド仏教の「ゴズ゙天王」と称し、中国では「三皇本記」に三皇五帝が記されている中で、その中に「神農氏」の話が出てきます。農作業を司る牛、水、農作物から得られる漢方医学と、又、牛が疫病に強い事などから「牛頭天王」と結びつけて信仰の対象と考えられており、朝鮮新羅では「牛頭天王山」と称する処では、栴檀(せんだん)、が産出され、これが熱病にすこぶる効能があり、これを牛頭と称している。又、神仏合体で「スサノウの命」ともされています。京都祇園八坂神社はその代表的なものです。日本書紀によると、新羅に追放されたスサノウの命は、ソシとモリに居るとされています。韓国語で、シソは牛、モリは頭であり、牛頭の事であり、韓国江原道春川に、「牛頭山」がある。
韓国では、牛頭天王=スサノウの命の=武塔神(中国)の混合神である。
スサノウの命が、いつ頃どのようにして日本に渡来したかは、歴史的史実は見当たりませんが、日本の記紀によると「スサノウの命」の何代目かは不明(5から10代目)ですが、大国主の命が誕生し葦原中国平定の時、太陽神の人々を従えて (後の日置族「日穂の命族」) 青谷から---日置の河原---五本松---鹿野---岩坪---上砂見---西郷湯谷と進行して行ったと考えられます。この時に「牛頭天王」の信仰も伝わったと考えられる。
なぜならば、街道ルートには、
1. 藩政時代、鹿野---岩坪に、二頭立ての神楽獅子舞が、ほぼ同じスタイルで残っている。
2. 1200年頃から、因州和紙作業の「すき」が鹿野を中心に、青谷日置と神戸、岩坪に供給されていました、鹿野には現在も「すき」を作る職人が存在し、手すき和紙の   里へ提供されています。
以上の事から鹿野---岩坪---日置ルートは昔、存在していたと考えられる。


青谷日置の「牛頭天王」の信仰

1. 日置の利川神社(はやかわ)の地域を「早牛」(はやうじ)と言い、「早牛」の近くを流れる日置川と早牛川合流部地区の河原では、近年まで「天王山」と言う祠があり、近年、小畑の山口神社に移設されたと河原の前田久志さんの話である、「天王山」は即ち「牛頭天王」の事である。

2. 利川神社の前の川「早牛川」は非常に急流で、これを静める為に、石の牛像を川に納めたと社伝にはあるとの事、即ち「牛頭天王」信仰である。

3. 利川神社の祭神は「秋津川姫」で水門の神様であり、この神様は、イザナギ゙、イザナミイが産んだとされており、神社の起源は非常に古く、又延喜式にもノミネートさ れており、中央との繋がりが非常に強かったと思われる。

4. 利川神社の元神官原田家では、108代後水尾天皇の直筆があるとされており、なぜ、ここに108代後水尾天皇1600年頃の直筆が伝わっているか?娘の治療との関 係も考えられるが大昔から皇室との繋がりがあったと考えられる。

5. 縄文海進の紀元前6000〜3000年頃、早牛付近は海抜が現在より15mも低く早牛が海面ギリギリの海であったと考えられる。早牛の早川は海に注いでおり、海の荒波を鎮める為に石の牛像を川に納め沈静を願った物が海から、上流集落の河原に打上げられ、「天王山」と言う祠が出来たのであろう。

6. 早牛、大坪間の西、標高20〜25mには、土器や、墳墓が数多く発見されていること、内容が上寺地遺跡の物より同等か古いこと。

7. 大国主の葦原中国平定に於いて、漢方医学はすでに伝承されていたと考えられる。

8. 江戸中期には、利川神社の神官、原田家は医師に転職され、津山藩の御殿医として牛痘(天然痘)の功績により碑も建立されている、ジェンナーシの天然痘の話は、「牛の乳搾り作業に於いて、天然痘にかかった人は症状が非常に軽くて済む事が有名に成っているが、日本に於いても原田医師の様な人も居たのである。


以上のように日置の早牛から「砂見---湯谷越え」で牛の戸に来たと考えられるが、牛の戸の一番古い家の家系が何代続いているか不明であるが、家系が80代では2000年近くとなり、上記の推測が当てはまる。
大日さんと牛の信仰があったことを考えると、大日山と言う名前がうなずける。
「牛頭天王」信仰のある地域を見ると、日山、羽黒山などの名前が出てくるのはなぜだろう?
慶長4年と明治に神仏分離、廃仏毀釈があり、「牛頭天王」信仰が著しくダメージを受けている。又、「牛頭天王」信仰が「天然痘治癒」であるかの様なうわさの中で、日本では1909年にツベリクリン予防接種が正式に決まるまで、ジェンナー1796年の発見から、いろいろの人が試みられているが100%の確立まで100年間掛かっている。幕末から鎖国が解け多くの外国人や物が入るようになって「天然痘」「コレラ」が大流行し、「牛頭天王」信仰が「天然痘治癒」に結びつかない様な状況となり、反対に恐れられるようになったためでもあるが、この地域から上流は、「牛頭天王」の地域であり、その入り口として「牛の戸」の名前が付けられたのであろう。
弘法大師775年から1023年がこの地に訪れており、湯谷の温泉源の話や、小河内地区の兵円山の話、神馬の桃の話など1200年前の逸話が残っていることはこの地域は街道筋に当たり、当然「牛頭天王」の信仰普及されていたと考えられます。近年でも湯谷の山向こうの砂見からお嫁に来られている人も100円市に出られています。その方の販売される人参は、昔から伝わる種類のもので、非常に朝鮮人参に近い。


湯谷から上の弓小河内地区、小畑地区は鎌倉時代で、さらにその上集落の北村は江戸初期に北村氏が他国から落ち延びて来た集落です。
「牛の戸」の地名として考えられることは湯谷地区までと考えられます