これからのお寺への模索 2021.3.15

 

こういう時代だからこそ思うことがあります。どういう形でお寺を残すべきかを。今の時代にあったようにお寺を変えて行くことは必要だと思います。何を残すかということについては、悩むことはありません。それはブッダの教えだからです。悩むのは何を変えるかというところです。

お寺の主な収入源は法事や葬儀のお布施やお盆・お彼岸などの定例行事の懇志です。今までは檀家が中心となってお寺を支えて来ました。これが家族構造の変化や人口減少によって弱体化しています。さらにこの度のコロナで葬儀も法事も最小単位の家族だけで勤めるようになり、いわゆる世間体を気にする必要がなくなりました。親類であっても亡くなったことを知らなかったという事態は珍しいことではなくなりました。中にはお寺にも連絡しないで直葬で済ませるという例もあります。

鳥取市内の葬儀社さんが、この田舎町でも直葬が出始めたことに危機感を持ち鳥取県東部の寺院に意見交換会への参加を呼びかけられました。2か月に一度開催され3月が4回目の開催となります。第1回目は30ヶ寺を超える参加があったようですが現在は十数ヶ寺となっています。主催者によると日本人の心から宗教心が無くなることへの危機感がそうさせたようですが、危機感と云っても受け取り方は様々です。この度の危機は一時的なもので、コロナが終われば元に戻ると思っているお寺もあれば、収入の減少を目の当たりにし、右往左往して新しいことをやらなければと思っている寺院もあります。また、この度のコロナがお寺の抱えている本質的な課題を浮き彫りにしたと考えて、お寺のあり方を見直して行こうとされている住職もあります。何が正解かはわかりませんが、お寺が大きな転換期に来ていることは間違いありません。このまま何もしなければ間違いなく消滅するお寺になるでしょう。長くなりますが少し考えて見たいと思います。

 

意見交換会に積極的に出ておられるのが浄土真宗です。鳥取市仏教会の行事では姿を見かけないのですが、この会への出席率は良い方です。逆に曹洞宗さんは、前回お顔が見えませんでした。浄土真宗は危機感を持っているからという方もありますが、そうとも言えないでしょう。浄土真宗の僧侶は公然と結婚しますし、有髪の僧侶が多数を占めます。衣を着ていなかったら僧侶とは思えません。祈祷をすることもないですし、座禅も瞑想もお札もありません。アピールしにくい宗派かも知れません。

宗派を問わずお寺離れが進みつつあることは感じておられると思います。家族構造の変化と少子化が大きいと思いますが、可処分所得が減少を続けているのも影響しています。さらに葬儀や法事などのお布施は、今までパンドラの箱に入っていました。住職に聞いても「お気持ちで」と言われ明確になっていないものの代表でした。ところが今はネットで検索すると標準的な額として示されています。その額もデフレ下を反映して減少傾向です。もともと金額が決まっていないものですから、少なかったとしても何も言えるはずがありません。お布施の考え方からすれば目安を決めるのもどうかと思います。

結果として寺院収入が減って来ます。そうなるとこれからは寺院だけの専従というのも難しくなって行くでしょう。一方で檀家が千軒以上というようなところは機構改革をうまくやれば専従でやり切れると思います。お寺を必要としている人の受け皿になることも可能です。統合や吸収を繰り返して大きくなっていくお寺と、規模は小さくても住職等の努力で輝いているお寺の二極分化が始まって来ると思います。

 

かつてのお寺は、各種教室・医療施設・お茶処・芝居小屋・人生相談所・映画館など多くの顔を持っていました。現代は学校、カルチャー教室、病院、カフェ、劇場、自治体の福祉窓口、シネコンなど専門の施設が出来ています。そして世の中から見れば先祖供養と墓参りをするところという概念が強くなっています。檀家制度が出来て檀家の法事さえやっていれば安定的に暮らして行くことが出来るようになったことに安住したためです。お寺を護って行くということは、周りに協力してくれる方たちがいるから可能なのです。檀家制度が少しづつ壊れて行っている現代において、檀家だからという理由だけで寄付を集めることは困難になって行くでしょう。社会全体が裕福でなくなり可処分所得が減って来るにつれて、支出の見直しを迫られます。一定額をずっと払い続けるサブスクリプションという仕組みを取り入れる企業が多くなっています。サブスクリプションとは、製品やサービスを一定期間ごとに一定の金額(利用料)で提供するというビジネスモデルのことです。

サブスクリプションの方式で販売される内容は、製品やサービスそのものではなく利用権です。つまり、消費者は対価を支払って製品やサービスを購入し、自分の所有物にするというわけではなく、対価を支払って製品やサービスを利用できる権利を取得して使うというものです。

ソフトであるオフィスやエクセルなどもオフィス365という形で販売されています。お寺の檀家制度も護持会費を払って檀家としての権利を取得しているという意味では、まさにサブスクリプション形式です。アマゾンのプライム会員やYoutubeのプレミアム会員などもそうです。どこの会員になるかはその人が費用対効果を考えることで成り立ちます。効果はアマゾンであれば、映画やテレビ番組が楽しめ音楽200万曲が聴き放題の上、頼んだ商品が最短で届きます。ところがお寺には何があるのでしょう。お盆に参ってもらえる、葬儀や法事を勤めてもらえるとしても、その都度お布施が必要になります。効果がそれしかないのであれば、その時だけ派遣僧侶を頼んだらどうかということで、そういうサービスが生まれたわけです。誰も効果やメリットがないものにはお金を払いたがらないと思います。

 

お稽古ごとの費用は月謝と言われます。こういう類いはサブスクリプションとは言いません。理由は使い放題というイメージではなく、一つひとつの対価として考えられているからです。お寺の場合はどうでしょう。対価ではありませんし、法事が当たってない年もありますし、お墓が他の地にある場合やお墓がない場合もあります。何年もお寺と関わり合いがないという場合もあります。そういうことで会員やメンバーと言えるのでしょうか。普通の感覚ですと何年も利用していないとなると、もったいないから解約しようということになると思います。それを食い止めているのは何だろうか考えて見ると、一つの答えが見つかります。それはお墓や位牌堂や納骨堂という先祖を祀っているものにあります。悪い言葉で言えば、「墓質」です。檀家の皆さんには先祖が世話になっているという思いがあるのです。それが檀家制度が壊れながらも、なんとか持ちこたえている理由だと思います。しかし現代は各地で墓じまいが始まっています。位牌堂は戒名によって収まる場所が違うそうですが、若い方たちは良い戒名が欲しいなどとは思っていません。ましてや戒名に大金を払うことに価値を見出していないようです。

納骨堂や樹木葬などを利用される方は、決まって永代供養という言葉を使われます。永代供養と云うのは、決まった定義があるわけではなく、お寺によってそれぞれです。都会に行けば永代供養とは十三回忌までのことを言うお寺もあるようです。少し驚いたのですが、「四十九日が終わって納骨堂に安置したので、あとはお寺さんが永代供養して下さい。一周忌以降の法事もやりません。」と言われた方があります。納骨したらあとは全部お寺にお任せというのも寂しい話しです。

現代は多くのお寺が納骨堂や樹木葬や合葬式の永代供養墓を手掛けておられます。費用も千差万別ですが、個人墓が減るということは一周忌、三回忌等の法事が減ることにつながるような気がしています。墓じまいというのは、お墓にお参りすることが困難になるということがきっかけになっています。

 

今までのお寺の収入の柱は、@葬儀・法事A檀家会費Bお盆の棚経C墓地の永代使用料D寄付金というものでした。どれひとつ取っても、これからの時代の柱にはなりそうにないです。収入という面で考えると、永代供養の付いた樹木葬・合同墓・納骨堂などを持つことがカギになりますが、どこのお寺でも考えることなので金額的な面での競争が出てくると思います。散骨を目的とした海洋葬や樹木葬もありますが、二度とご遺骨と対面出来ないという点で、日本人の心情とは合わない面があるのか、それほど広まったという話しは聞きません。

コロナも相まって生き残ることが中々難しい時代になったと思いますが、日本の仏教寺院は過去に二度危機を経験しています。第一の危機は明治政府の神仏分離令に端を発する廃仏毀釈です。これにより寺院や仏像が破壊され寺領が没収されて大打撃を受けました。第二の危機はGHQ占領下での農地改革です。戦前寺院が地主として所有していた農地の大部分が小作人に渡りました。寺院の経済基盤は大きな打撃を受けました。これらはどちらかというと外圧ですので危機感と共に反発心も強まり、団結力も高まったのではないかと思います。

しかしこの度の危機は、檀家制度の崩壊やお寺離れという宗教の信仰心に関わることであり、どちらかというと内部から壊れ始めているという感じがするだけに深刻だと思います。

そして寺離れに関連して現れた派遣僧侶や葬儀の簡略化は、取り敢えず形だけ整えば中身は気にしないという人々の気持ちをあらわしたものではないかと感じます。

 

お寺離れの要因は外部環境の変化とともに、僧侶の信仰心の薄れもあるような気がします。当初から僧侶の肉食妻帯を認めていた浄土真宗は、世襲制が当然のように世代交代していました。他宗では僧侶は結婚しないことが前提で、他から住職を求めるという形で世代交代が行われていました。しかし明治政府が「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべき事」という布告を出したのをきっかけに、どの宗派でも結婚する僧侶が多くなりました。実はこれには裏があり、神道を国教としようとしていた政府が仏教の勢力を弱めようとしてして布告したのだと言われています。

今は多くの宗派が世襲制を取り入れています。世襲制の場合、子息が跡を継ぐことになるわけですが、そうなると本人の意志というものがないケースが出て来ます。信仰心が薄くなることもやむを得ないかも知れません。

私が子供の頃の葬儀は、自宅かお寺でした。自宅葬の場合は隣組のような方々が仕切りました。宗派の作法や慣習についても尋ねられ、わからないことは和尚さんに聞けばいいと思われていました。お寺でやる場合は、住職が決めたように勤められました。司会なども不要でした。ところが近年は自宅やお寺で勤める場合でも葬儀社が仕切ります。僧侶はまるでステージに立つ人のようにお経さえ称えておけば作法のことなど何も考える必要がなくなったのです。信仰心を養う場所としての葬儀がお寺から離れて行ったと思います。

いつの時代にあってもお寺を護って行くということは、住職のリーダーシップとコミュニケーション能力、時代を読み解くセンス、自らの固い信仰心が必要だと思います。常にお寺は何のためにあるのかということを問いながら、進むべき道を考えて見たいと思います。

 

民間の企業に勤めていた私から見ると、お寺には予算がないと思います。予算というのはこの一年間をどのくらいの予算でどういうことをやろうとしているのかということを理解するための重要な資料です。つまり、なるようになるというやり方で過ごしていると言えるでしょう。前住職もそういうやり方でした。

私が相談を受けたお寺の決算についてみた限りでは、分析できる決算資料なども作れない状況でした。住職と坊守だけの世帯で、お寺の収入も多くないということでは決まった給料が払えるわけもなく、個人のお金をお寺につぎ込んでいる人も見受けられました。ただ、お寺の会計と個人の会計は明確に分けておかなければなりません。個人のお金をお寺につぎ込む場合は、お寺と金銭消費貸借契約を結んで貸付金として処理すべきです。お金に余裕がある場合は、お寺への寄付としても構いませんが、個人とお寺は区別しなければなりません。布教使収入が寺院収入の多くを占めていた方から、収入の減少幅に愕然としたというお話しを聞きましたが、収入の何がどれだけ減ったのかということを把握しなければ対策の立てようもありません。

葬儀が何件入るかなんてわからないし、法事もあてにしていいかわからないものを予算化することは出来ないと言われます。しかし出て行くものは決まっているわけですから、見通しが立たなくともそれに見合う予算を立てるべきだと思います。それが指標になり、経過するにつれて決算が見えて来るようになります。私たちがいただくお布施は、いわば自発的な寄付のような性格を持っています。納骨堂や永代供養の冥加金も同じような性格ですから、値段や料金をつけることはお勧めできません。都会の納骨堂の料金が対価とみなされ、収益事業として課税されたというニュースが流れました。あまりにも無知だと思いますが、課税されてからでは遅すぎます。文化庁発行の宗教法人実務をもう一度勉強し直したいと思います。

 

他の方も指摘しているところですが、お寺には経営に対する教育というものがありません。全部住職の器量で決まっているといっても過言ではありません。宗派や教務所など組織だっての研修は多岐に渡っていますが、経営に関する研修は皆無です。宗派から見ればお寺は独立した宗教法人なので内情に手を突っ込むことは出来ないということなのでしょう。

しかしどんなに法話が上手でも感動的な葬儀が勤められたとしても、肝心の寺院経営が破綻しては本末転倒です。私は民間企業で鍛えられましたので、ここ10年間くらいは持ちこたえられそうな基盤が出来ましたが、その先は分かりません。

不安要素を数えても意味はありません。今出来ることを一歩づつ確実にやって行くしかないと思います。私が考えているのは、次の四つです。@いつでも人が行き交うお寺にすることA財政の基盤になる柱を二つ作ることB檀家制度を止め、個人単位の新しい寺組織を作ることC地域コミュニティの一つの核となること

どれも簡単ではありませんが、人口も経済も縮小していく中にあって、葬儀や法事を財政基盤に置くことは難しくなると思います。全国的には訪問看護ステーションを作られたお寺もありますし、介護事業を核にされたお寺もあります。宗教活動以外の収益事業を行なうことは民間と競合する部分もあり、しっかりとした事業計画を作る必要がありますが、仏教の持つ見捨てられない安心感を事業に融合させることが出来れば成功するだろうと思います。これからはすべての分野に仏教系○○事業という看板が見られるようになるかも知れません。

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