ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

侵略戦争の放棄、こうするのが最も的確ではないか

1946年6月28日――野坂参三 衆議院議員


 1945年9月2日、アメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上で日本政府全権・重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長が、連合諸国17カ国の代表団臨席の元、降伏文書への調印が行われた。それにより、第二次世界大戦は完全に終結し、日本はアメリカ軍主導の連合軍により占領統治が始まることになった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の主導による日本の非武装化の方針の下、陸海軍の武装解除・軍関係の機関や法令の廃止がなされ、戦争犯罪人の逮捕、軍関係者や戦時指導者の公職追放、徹底した検閲による軍事研究の中止など、日本から軍事を排除すべく様々な施策が行われた。

 GHQ主導の下で作成されることとなった新憲法にも、GHQ――特に、ダグラス・マッカーサー総司令官の意向が強く反映されることになった。日本から完全に戦闘能力を奪うべきと考えていたマッカーサー総司令官は、当初は戦争放棄・戦力の不保持のみならず、自衛権も否定していた。さすがに自衛権は独立国が持つべき当然の権利であるとして、GHQ/民政局の憲法草案から自衛権の放棄の部分は削られたのものの、日本政府による新憲法策定における戦争放棄に関わる部分は総司令官の意向の前に戸惑うことになる。

 当時の日本共産党が憲法9条に否定的な見解をもっていたのは有名な話である。軍をもたない国が、如何にして自国の独立と安全を保証するのか。それに対して、日本政府側はGHQの強い意向に左右されることになった。憲法を審議した国会において、日本共産党の野坂参三衆議院議員の発言を一部抜き出して取り上げる。

 戦争放棄の問題です。ここには戦争一般の放棄ということが書かれてありますが、戦争には、我々の考えでは二つの種類の戦争がある。二つの性質の戦争がある。一つは正しくない不正の戦争である。これは、日本の帝国主義者が満州事変以後起したあの戦争、他国征服、侵略の戦争である。これは正しくない。同時に侵略された国が自国を護るための戦争は、我々は正しい戦争と言って差し支えないと思う。この意味において、過去の戦争において、中国或いは英米その他の連合国、これは防衛的な戦争である。これは、正しい戦争と言って差し支えないと思う。
 一体、この憲法草案に戦争一般放棄という形でなしに、我々はこれを侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか、この問題に付いて、我々共産党は、こういう風に主張して居る。日本国は、すべての平和愛好諸国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、如何なる侵略戦争をも支持せず、また、これに参加しない、私はこういう風な条項がもっと的確ではないかと思う。

 これに対する当時の吉田茂 内閣総理大臣の答弁は、

 戦争放棄に関する憲法草案の条項につきまして、国家正当防衛権に依る戦争は、正当なりとせらるるようであるが、私は、かくの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に、正当防衛権を認むることが、たまたま戦争を誘発する所以であると思うのであります。また、交戦権放棄に関する草案の条項の期するところは、国際平和団体の樹立に依って、あらゆる侵略を目的とする戦争を防止しようとするのであります。しかしながら、正当防衛に依る戦争がもしあるとするならば、その前提において侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを、前提としなければならぬのであります。
 故に正当防衛、国家の防衛権に依る戦争を認むるということは、たまたま戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、もし平和団体が、国際団体が樹立された場合におきましては、正当防衛権を認むるということそれ自身が有害であると思うのであります。ご意見の如きは有害無益の議論と私は考えます。

 というものであった。今の感覚で読めば、どっちが共産党? と思ってしまうやり取りではあるが、敗戦直後の日本では国家安全保障に対し、「自衛権そのものが存在するか否か」といったやり取りから始めなければならなかったことが見て取れる。しかし、この新憲法制定に関わる国会で、自衛権に対する議論は深められなかった。新たな国の在り方を決める重要な国会とはいえ所詮は占領下の国である。最後はGHQの言いなりになるよりないという諦めムードも漂っていたのかもしれない。しかし、それから数年で朝鮮戦争が勃発し、国際環境が冷戦構造に突き進んでいくと、日本には否応なく再軍備の求めが、一度は軍の放棄を命じたGHQによって突きつけられることになる。憲法制定に際して自衛権について議論を深めなかった結果は数十年に渡る日本の安全保障を巡る混迷の端緒となったと言える。

自衛隊・安全保障をめぐる言葉