ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

我々は共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦うことになる

1951年4月――李承晩 韓国大統領


 李承晩(イ・スンマン)は、1948年5月に成立した大韓民国の初代大統領であり、戦後日韓関係の起点というべき人物である。1919年に上海に樹立した独立運動組織大韓民国臨時政府の樹立(ただし、中華民国も連合国も未承認)に関わり、米国との関わりも深かったため、初代大統領に推挙され就任した。李承晩は朝鮮の独立運動に関わっていた経歴や、日本の朝鮮半島併合によって追われた李朝の王族に関わる血筋ということから、日本を非常に嫌っていた。さらに政権の基盤が脆弱であったことや、数々の失政の隠れ蓑にするために反日政策を推し進めたという面もあった。1952年に日本が独立を果たす直前の無力だった時期に日本海の広大な範囲に一方的に海洋境界線、いわゆる「李承晩ライン」を引いた。1965年の日韓基本条約が締結されるまで多くの日本人漁民が殺傷され、数千人が抑留された。そしてこの「李承晩ライン」が現在まで続く竹島の帰属問題の端緒となった。就任中に朝鮮戦争が勃発し、韓国は多大な犠牲を払う事になった。1960年5月に、四月革命により失脚しアメリカに亡命した。

 朝鮮戦争において、隣国の日本も無関係を貫くことはできず、日本の海運業者が朝鮮半島への物資の輸送を行い、韓国の港での荷役作業に従事した日本人作業者が多くいたほか、義勇兵として戦地に赴いた在日朝鮮人も600名強おり、多くの犠牲者が出ている。さらにアメリカからの要請(という命令)によって海上保安庁の掃海部隊が戦地に赴き、1950年10月から12月まで46隻の掃海艇などによって元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業を行い、機雷27個を処分した。しかし、掃海作業中に座礁して沈没した艦があったばかりでなく、機雷に接触し1名の死者と18名の重軽傷者を出している。事実上、戦後初の戦死者であったが、その事実は長らく秘密とされた。

 日本の事実上の派兵に対して、北朝鮮、中国、ソ連が「国連軍に日本兵が参加している」「アメリカが日本兵を戦地に送り込んでいる」と非難の声を上げ、それを受けた日本社会党や日本共産党も政権への攻撃材料にした。一応の法的根拠がある中で行われた掃海部隊の派遣であったが、国会の承認を得ないままに行われた派遣であり、事実上戦後初めての参戦ということで憲法上の問題も絡まり、国会は大いに紛糾することになった。

 とはいえ、この活動が韓国の海上の安全の確保と、制海権の確保に少なからず貢献したのは事実である。しかし、掃海部隊の隊員には、韓国の対日感情を考慮し、できる限り上陸をしないようにと指示が出ていたという。海上保安庁の掃海任務が終了したのちの1951年4月。李承晩大統領は、倭館に駐屯する部隊への演説の中で日本への非難を口にしたという。

『最近国連軍の中に、日本軍兵が入っているとの噂があるが、その真否はどうであれ、万一、今後日本が我々を助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、我々は共産軍と戦っている銃身を回して、日本軍と戦うことになる』

 李承晩大統領は、朝鮮戦争の勃発して2日後にソウルが陥落した際、日本の外務省に、山口県に6万人規模の亡命政権の樹立を求めていた。当時の山口県知事は戦後の困窮する時期のことであり難色を示したが、韓国人5万人を収容する「緊急措置計画書」を作成し、米軍にも予算の支援を求めたという。戦場で多くの将兵が戦っている中、日本への亡命を求める李承晩大統領に、マッカーサー総司令官は「何があっても日本の土は踏ませない」と呆れ果てたとか。昨日助けを求めた相手に、明日は銃を向けると平気で言える人物である。ネットで時折見かける、李承晩大統領が対馬侵攻のために南に兵を結集した隙をついて北朝鮮軍が南進した、という説も、あながちただの与太話とも思えなくなってくる。

自衛隊・安全保障をめぐる言葉