ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

もうすっかり疲れ切ってしまって走れません

1968年1月――東京オリンピック男子マラソン銅メダル 円谷幸吉


 1964年東京オリンピック。花形である陸上競技において、日本人選手からはまだメダルが出ていなかった。主催国の威信をかけて、10月21日――オリンピック最終日の男子マラソンに期待がかかる。1960年のローマオリンピック金メダリストのエチオピア代表アベベ・ビキラは1ヵ月半前に盲腸の手術を受けて万全の状態ではないと見られており、日本代表選手にもメダルの期待は高まっていた。

 自衛隊体育学校所属の円谷幸吉は、初日の1万メートルで6位入賞を果たしたが、もともとトラックの選手であり、マラソン経験も浅かったため、有力選手とは目されていなかった。レースは前予想を覆しアベベ・ビキラが27km以降独走状態となり、オリンピック史上初のマラソン競技連覇を果たした。2位で国立競技場に入ってきた円谷は、トラックでイギリス代表のベイジル・ヒートリーに抜かれ3位となったが、堂々の銅メダルであり、1万メートルでの入賞とあわせて、一躍日本陸上界のヒーローとなった。24歳という年齢は、次のメキシコオリンピックでの金メダルの夢を、大いに期待させるものであり、本人も4年後に強い意欲を示していた。

 しかし、持病である腰痛の悪化、オリンピック後の多忙による練習不足から、その後の円谷は不振に陥った。本人の責任感の強い生真面目な性格は、不本意な成績に対する自責と、それに伴うオーバーワーク、故障、持病の悪化といった悪循環を招いた。1967年夏に椎間板ヘルニアの手術を行うなど、何度か手術を受けていたが、全盛期の走りを取り戻すことはできなかった。また、自衛官として体育学校教官の道を目指していた円谷は幹部候補生学校へと進むが、厳しい課程スケジュールにマラソンの練習時間は大きく削られることになった。

 私生活でも1966年にかねてから交際していた女性との縁談が破談した。円谷幸吉の死を語るときに、この破談が引き合いに出されることが多い。当時の自衛隊学校校長が女性側に圧力をかけて破断に追い込んだとか、そのことに抗議した円谷が信頼を置いていた教官が報復的に左遷させられたとか。そうやって孤立を深めた円谷は、追い詰められて死を選ばざるをえなかったと。実際には、当時の吉池校長は、そもそも円谷の結婚について何の報告も受けていなかったうえ、円谷家との約束もあって円谷の結婚はメキシコ五輪後にと主張していたが、円谷や相手の女性を交えた話し合いの末、結婚を了承したという。具体的な挙式についての話し合いが始まったが、結婚に対して先方の女性との温度差が大きく、最終的には女性の側から破談になったという。

 円谷は1967年の年末に故郷へ帰省し、年明けの4日に宿舎へ戻った。最後に家族たちとの別れを済ませる覚悟の帰省であったとも、帰省した時に字死を覚悟する何らかの出来事があったとも言われるが、何があったかは当人しか分からないことだろう。1月9日。自衛隊体育学校の幹部宿舎で頚動脈を切って自殺しているのが発見された。死亡したのは1月8日の深夜であったとみられる。遺書には、両親や身内にあてて、感謝の言葉と謝罪の言葉が綴られていたものと、上官などにあてての2通とが残されていた。

『父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。』――遺書の中の悲痛な叫びは、世間にも大きな衝撃を与えた。その死に際して、新聞や雑誌ではその原因について様々な声が上がった。自衛隊という組織が殺したという批判もあった。自衛隊体育学校には、オリンピックなど国際大会で通用する選手を育成するのと同時に自衛隊の広告塔としての側面もある。いわば完全国営のオリンピック選手養成機関であり、企業アスリートとは異なる環境にあったのは間違いない。有力な世界的アスリートの自死と言えば1934年に26歳でマラッカ海峡に身を投げたテニス世界ランキング元3位の佐藤次郎などの例もあり、国を背負って戦うプレッシャーに自衛隊アスリートだからとか企業アスリートだからということはないだろうが、円谷幸吉の死の裏側に、自衛隊――すなわち国家の存在が少なからず存在していたのは、否定できないことではないだろうか。

自衛隊・安全保障をめぐる言葉