ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

男一匹が命をかけて諸君に訴えかけているのだぞ

1970年11月25日――作家 三島由紀夫


 三島由紀夫事件が発生したのは、1970年(昭和45年)11月25日のことだった。当時を生きていない自分には、その衝撃の大きさを窺い知ることはできない。当時の三島は、単なる人気作家にとどまらず、三船敏郎や加山雄三、石原裕次郎のような映画スターや、長嶋茂雄のような名選手に肩を並べるような時代のスーパースターであった。

 そんな人物が、東京都市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室に乗り込み、総監を人質に、自衛隊に決起を呼び掛けた。結果、三島に呼応する自衛隊員はおらず、三島は自決して果てた。では、三島は同調する自衛隊員や自衛隊部隊が現れ、ともに立とうという流れになっていたらどうするつもりだったのか。どうもこのあたりのプランはまるでなかったらしい。切腹して果てるまでの一連の行動は練り上げられた計画に従って遂行されたのに。ある意味で、死に場所を求めてのことであったようにさえ思えてくる。

 その日、現場でばらまかれた檄の内容を読むことは現在でも可能である。また、演説内容も報道機関の録音テープが残っており、雑音で聞き取りにくいところが多々あるにせよ、その内容を知ることができる。知ることはできるが、なぜ機動隊によるデモの鎮圧に成功し、自衛隊の治安出動がなくなったことが、憲法改正を不可能となったことにつながるのか、そのロジックが理解しづらい。

 むしろ、その内容より、報道のヘリと自衛隊員のヤジの中で、「静かにせいっ」「お前ら聞けぇっ」「男一匹が命を懸けて諸君に訴えかけているのだぞ」と叫びながら、演説を繰り返し、「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を」「最後の30分だ」という悲痛な言葉のほうが印象に残る。

 最後に三島は「一人でも俺と一緒に立つ者はいないのか」と問い、呼応する自衛隊員がいないとわかると、「それでも男かぁっ!」「それでも武士かあっ!」と罵り、「俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ」と語り、最後に「天皇陛下、万歳!」を叫んでバルコニーを降り、総監室で腹を割った。

 この事件が自衛隊にどのような影響を与えたのかのかは分からない。少なくとも表面上は何の変化もなかったが、共感を覚えた若い自衛隊員も少なからずいたと伝えられる。1960年代――日米安保闘争、学生運動や極左暴力活動といった若者たちが革命という熱に浮かされていた時代。自衛隊はデモ隊に対峙することも、テロリストと戦うこともなかった。自衛隊は常に、日陰者に徹し続けた。しかし、日陰者も血の通った人間。決して何も感じなかったはずがないのである。

自衛隊・安全保障をめぐる言葉