ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

ベレンコ中尉亡命事件


 ソ連の脅威が現在以上に厳しく激しかった時代。最前線は北海道であった。航空戦力も陸上戦力も、多くが北海道に割り振られていた時代である。1976年(昭和51年)9月6日13時11分。突如、北海道奥尻島のレーダーサイトのレーダー上に輝点《ブリッツ》が防衛識別圏を超えて出現した。距離は函館の北西わずか300kmであり、速度はマッハ0.69(時速830q)であった。その進路は真っ直ぐ北海道を目指していた。本来であれば、ソ連防空基地から戦闘機が発進してからの行動すべてを捉えられる態勢を整えていた航空自衛隊は、予想外の事態に混乱に陥りながらも、北部方面隊司令部はアンノウン(所属不明飛行体)と判断し千歳基地からF-4要撃機をスクランブル(緊急発進)させた。所属不明機が在日米軍機の可能性もあったため、その回答を待ちながらの要撃機の出動であった。

 13時22分。正体不明の飛行隊は日本の領空に侵入。奥尻のレーダーサイトから国際緊急チャンネルで領空侵犯の警告を行ったが、領空侵犯機はこれを無視してさらに北海道に突き進んでいた。その直後、スクランブルの要撃機がレーダーで領空侵犯機を補足。ところが、13時26分、奥尻のレーダーサイトが領空侵犯機をロスト(見失うこと)した。要撃機のレーダーも領空侵犯機をロストし、これから35分の間、航空自衛隊は領空侵犯機の動向を補足できない状態が続いた。

 13時50分。領空侵犯機が函館空港上空に出現した。丁度全日空機が飛び立とうとしているところだった為、函館空港は大混乱に陥りつつも機体の出発を急がせた。全日空機が飛び立ったっ直後、領空侵犯機――双尾翼の戦闘機が函館空港に強行着陸。滑走路を235mオーバーランして停止した。それは旧ソ連の最新鋭戦闘機・MIG-25であったが、民間空港である函館空港の職員が自衛隊機と在日米軍機とソ連機の区別がついたかどうか。民間空港であるために、MIG-25から降りてきたパイロットスーツに身を包んだソ連の軍人――ベレンコ中尉(当時29歳)は、函館警察署の警察官により連行され、現場は函館警察署によって厳戒態勢が敷かれ、軍事の専門家である自衛隊も締め出されることになった。

 敵国の軍用機が領空を超えて日本国内に侵入した――純然たる軍事問題であり、通常であれば軍が対処する問題であった。もしも、民間空港である函館ではなく、航空自衛隊基地である千歳基地に誘導・着陸させることができたなら、主導権は自衛隊が握れたはずである。そもそもなぜ、航空自衛隊の要撃機はMIG-25をロストしたのか。理由はMIG-25が海岸線を海上スレスレの約10mという超低空で侵入してきたためである。この頃のレーダーには、ルックダウンの能力がなく、レーダーの死角をついての侵入であった。

 3日後の9日。警察や外務省、自衛隊の事情聴取を終えたベレンコ中尉は希望通りアメリカへの亡命が認められ、日本を発った。日本のマスコミには一切姿を見せないまま、事件の中心人物は姿を消した。残されたのは、パイロットのいなくなったMIG-25の機体のみ。しかし、この機体を巡って自衛隊は新たな緊張を強いられることになる。

自衛隊事件簿