ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

幻に終わった防衛出動


 1976年9月6日に発生したソ連の最新鋭戦闘機ミグ25が函館空港に強行着陸した事件(ベレンコ中尉亡命事件)は、9月9日にベレンコ中尉がアメリカに亡命したことでひとまずの解決を見たかのように思える。しかし、その裏では、ソ連の侵攻に備えた自衛隊の影なる戦いが始まっていた。

 函館空港は警察に封印され、ミグ25の機体からは自衛隊は完全に排除されており、ベレンコ中尉の亡命の受け入れをアメリカが受け入れを表明して、自衛隊の出る幕はなくなったかのように思えた。しかし、気付く者は気付いていた。ミグ25の機体は、当時のソ連の戦闘機技術の結晶であり、最高機密である。それを、ソ連がそのままにしておくとは考えられなかった。同様の情報は航空幕僚監部(空幕)にも寄せられており、さらに8日には陸上幕僚監部にはスイスのアメリカ大使館付武官より、信憑性の高い情報として「ミグ25の機体を破壊するために、ソ連軍がゲリラ部隊を侵入させようとしている」というものである。

 陸上自衛隊は、それを受けて準備を始めた。その最前線にいたのは第11師団隷下の第28普通科連隊(函館駐屯地)だった。駐屯地の全部隊には第三種非常警戒態勢(不測の事態に備えた総員の営内待機)が命じられた。函館駐屯地は、駐屯地祭の準備に追われていたが、隊員たちはお祭り気分から一転、戦闘態勢に移行することを求められた。駐屯地祭のために用意された61式戦車や35mm2連装高射機関砲 L-90は、祭の飾りから戦闘の最前線の武器に変わった。連隊の幹部たちは事情を知らされていたものの、一般の隊員たちには当初は知らされていなかったという。

 ソ連軍による侵攻・交戦。――それは、第三次世界大戦の勃発さえも意味する。航空自衛隊千歳基地の第304飛行隊、海上自衛隊函館基地隊、陸上自衛隊第11師団隷下の第28普通科連隊。これらの部隊は24時間の厳戒態勢を敷いて警戒に当たり、命がけの緊張を強いられることとなった。その過程で、陸上自衛隊の高射砲部隊が、航空自衛隊の輸送機を撃墜しそうになる一幕もあったという。

 その間の政府レベルでの事態の推移を以下に記す。

 ソ連は9日にベレンコ中尉と機体を返還するように声明を発表した。ベレンコ中尉はソ連大使館員と面談し、亡命の意思を伝えた後、同日夜、アメリカに向けて飛び立った。ミグ25の機体は10日夜、法務省から防衛庁に移管され、11日より機体を航空自衛隊基地へ移動し、解体調査する研究が始まった。18日には自衛隊のみでは能力が足りない場合は、在日米軍に協力を求めることが決まり、在日米軍もこれを了承した。19日、機体の分解が開始された。

 20日、外務省は9日に発表されたソ連の声明に対してベレンコ中尉の亡命が自由意志によって行われたこと、ソ連機の解析が日本にとって必要な措置である旨という日本政府の立場を表明した。22日、ソ連側から再度反論がなされた。24日、在日米軍の大型輸送機によって分解されたミグ25の機体が、航空自衛隊百里基地に移送された。ソ連軍による最後の奪回の可能性を警戒して、航空自衛隊の戦闘機が護衛についた。25日、百里基地でミグ25の調査が始まったことで、ソ連軍による機体奪還に軍事行動を起こす可能性は完全になくなった。調査が終わった機体は、11月14日、ソ連に引き渡された。

 ソ連軍による日本侵攻は現実のものにならなかったが、それは日ソ開戦に最も近づいた2週間だった。その間、政府がその最悪の事態にどのように対応をしたのか、の動きはよく見えてこない。当時は、三木おろしといわれる政変の真っ只中にあり、ソ連軍の侵攻という最悪の可能性への対応は自衛隊に押し付けられ、三木武夫総理大臣は政争に終始した。しかし、自衛隊が実戦を覚悟し、防衛出動を念頭に行動した事実は、重要な資料となるはずだった。しかし、その資料も、政府はすべて破棄するように命じた。それに抗議し、三好秀男 陸上幕僚長は職を辞した。

自衛隊事件簿