ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

なにぶんにも初めてのことですし

1995年1月21日――村山富一 内閣総理大臣


 1995年(平成7年)1月17日5時46分に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)において、自衛隊の出動は震災発生から4時間以上が過ぎてからだった。もしも、速やかに自衛隊の出動がなされていれば、がれきの下敷きとなった被災者の命ももっと救えたのではないかという意見も根強い。陸上自衛隊は震災発生後にすぐさま出動態勢を整えて命令を待ったが、自衛隊の出動命令が出たのは10時10分のことであった。自衛隊の出動が遅れた理由は、「出動要請を出せる貝塚兵庫県知事自身も被災し登庁が遅れたこと」「震災のあまりの被害の大きさに情報が寸断され、情報がほとんど集まらず状況の把握ができなかったこと」「自衛隊とも連絡が取れなかったため」などであったという。

 震災発生時の内閣総理大臣は、非武装中立を党是とし、自衛隊は違憲という立場を取っていた社会党の党首であった村山富一氏であったため、人命よりもイデオロギーを重視したと非難された。また、当時は社会党では24人が集団で離党届を出し社会党が大きく揺れており、国家の責任よりも党の事情を優先したと批判された。現在でもネット上には、震災当時、村山総理大臣が自衛隊の出動に際して「人殺しの手を借りない」と言ったとか、出動命令が出る前に自衛隊法83条3項に基づく近傍派遣を行った36普通科連隊を非難したとか、炎に包まれる被災地をテレビで見ながら「燃えとる燃えとる」と他人事のように笑っていたとか、真偽不明の話が飛び交っている。

 国会で自衛隊の出動が遅れたことを問われた村山総理大臣は「なにぶんにも初めてのことでございますし、早朝のことですので――」と発言し、支持率を大きく下げることになった(のちに撤回)。もちろん、自衛隊の出動が遅れた原因が、当時の法体制の不備にもあったことは否めない。この未曽有の大震災は危機管理体制が大きく見直される契機となった。しかし、村山総理大臣を始め、行政の危機管理を軽視した怠慢や、緊急時の対応への不手際があったことも事実である。後に当時の貝塚兵庫県知事がインタビューで「そんな重大な情報があれば(所轄の警察署には数百人単位で生き埋めの住人がいることが分かっていたが、兵庫県知事の所には情報が上がっていなかった)、私はすぐに自衛隊に派遣要請をしていました」と答えたというが、当時兵庫県も神戸市も自衛隊との共同訓練を一度として行ったことはなかったという。

自衛隊・安全保障をめぐる言葉