ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

九州南西海域工作船事件


 2001年(平成13年)12月22日未明。海上保安庁に防衛庁から、、東シナ海の九州南西海域に北朝鮮の工作船らしき不審船が存在していると通報が入った。

 事件の始まりは、12月18日に遡る。在日米軍から防衛庁(当時)に不審船情報が寄せられた。それを受けての調査により19日、喜界島(鹿児島県大島郡、奄美群島の北東部)の通信所が不審な電波を捉えた。21日の16時30分過ぎ海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)に所属に所属するP-3C対潜哨戒機が、東シナ海の九州南西海域(奄美大島の北北西150キロ)で不審な船を発見。P-3Cが持ち帰った不審な船の画像を解析した結果、不審船は工作船の可能性が高いと判断された。日付が変わった22日午前1時ごろ防衛庁長官。そこから内閣総理大臣秘書官、内閣官房長官秘書官、海上保安庁に通報がなされた。

これを受けて鹿児島、熊本、宮崎とその周辺海域を管轄区域とする第十管区海上保安本部(本部:鹿児島県鹿児島市)、沖縄県と沖縄地方の東シナ海、太平洋を管轄する第十一管区海上保安本部(本部:沖縄県那覇市)は航空機・巡視船を飛ばして不審船の補足に努めるとともに、近隣の第七管区、第八管区も警戒態勢を整えた。同日11過ぎに海上自衛隊も第2護衛隊群の拠点港である佐世保基地から護衛艦「こんごう」「やまぎり」を現場へ向かわせ、2年前に発足したばかりの海上自衛隊特別警備隊(SBU)にも出動待機命令が発令された。

 同日6時30分ごろ、海上保安庁の航空機が不審船を発見し、12時45分過ぎ180t型巡視船「いなさ」が同船を視認した。不審船に対して航空機と巡視船から最初の停船命令が出されたが不審船はこれを無視。海上保安庁は音声による警告を始め、あらゆる手段で停戦を命じ続けたが不審船はこれを無視し続けたため、射撃を行う旨の警告を行った後、警告射撃を行った。

 警告射撃を無視し、複数の巡視船が追いすがる中、ひたすら逃走を続ける不審船に対し、海上保安庁側も難しい対応を迫られた。この時点では、不審船はまだ凶悪犯罪を犯したわけではなく、日本の領海の外の排他的経済水域(EEZ)内であったため船体への直接射撃を行うには法的要件を満たしていなかった。しかし、「照準性能が高いRFS付き機関砲であれば、乗員に危害を加えずに船体射撃が可能」という判断により、船体への射撃が実行に移された。

 複数回に渡る船体への直接射撃も効果なく、不審船は更なる逃走を続けたが、17時前、不審船の船上で発火。曳航弾が予備燃料に当たったものと思われる。ついに停船せざるを得なくなった不審船の船上では、乗員が証拠品を海に投棄するらしき姿も確認された。それから30分ほどして火勢が弱まった不審船は逃走を再開した。海上保安庁も接舷のチャンスをうかがい特殊警備隊(SST)の到着を待っていたが、逃走する進路の先には多数の中国漁船が操業中であり、紛れ込まれると追撃ができなくなるため、SSTの到着を待たずに、強行接舷を行うことを決めた。

 22時頃、接近する複数の巡視船に対し、不審船からも攻撃が仕掛けられた。機関砲や小銃による攻撃のみならず、RPG-7(対戦車榴弾発射器)から2発のロケット弾が発射された。巡視船側も退避しながら20mm機関砲および64式小銃による正当防衛射撃を実施。この銃撃戦によって、海上保安官にも3名の負傷者が出ている。22時13分頃、銃撃戦の最中、不審船は突如爆発、炎上。そして、沈没した。不審船は自爆したものと考えられている。後の公安の調査により、爆発の直前に不審船から北朝鮮本国に電波が発信されたことが判明した。その中には「党よ、この子は永遠にあなたの忠臣になろう」「万歳」との内容が含まれていたという。その為、不審船は北朝鮮の工作船であったとされている。工作船には10名以上の工作員が乗っていたと考えられているが、最終的に死亡が確認されたのは8人であった。

 沈没した工作船の引き上げには、野中広務元官房長官(自民党)などの親北朝鮮派の代議士や一部のマスメディアから反対の声が上がったが、当時の小泉内閣は実行に移した。工作船が沈没した場所は中国のEEZ内の為、中国共産党との交渉を重ね、事件から10カ月近くが経った2002年9月11日、船体と遺留品が引き上げられた。中国政府には、漁業補償を含めて「捜査協力金」名目で1億5千万円が支払われている。引き上げられた遺留品は鑑定された後、北朝鮮への返還も検討されたが、北朝鮮政府も朝鮮総連も無関係を貫いた。死亡した工作員は、遺体の引き取り手がない行旅死亡人として、鹿児島市内で無縁仏として弔われた。また、漁業法違反と殺人未遂罪で鹿児島地検に書類招致された後に、被疑者死亡による不起訴処分の判断が出されている。

 引き上げられた工作船からは対空火器や対戦車火器なども発見され、あまりの重武装に関係者を驚愕させた。海上自衛隊は事件発生当初から緊密に連携しながら事態の対処に当たった。本件は海上保安庁の手によって収束されたため1999年3月の能登半島沖不審船事件の再戦とはならなかったが、工作船側は万一の時は自衛隊とも一戦交えるつもりだったのだろう。工作船は現在横浜市の「海上保安資料館横浜館」で保存され、公開されている。

自衛隊事件簿