ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

工科学校は人を殺す練習をする学校

2015年12月23日――平田通子埼玉県上尾市議


 埼玉県上尾市の平田通子市議(日本共産党)は2015年12月18日の市議会の一般質問で、安全保障関連法の成立に伴い「自衛隊の性格は変わった。海外の戦闘地域で他国の人を殺すかもしれない」とし、陸上自衛隊高等工科学校(神奈川県横須賀市)の市広報誌への生徒募集掲載を中止を主張した、という。「市民への情報提供が目的で、市内の看護専門学校についても記事を掲載している」と理解を求めた市執行部に対し、「看護学校は命を救うのに対し、工科学校は人を殺す練習をする学校。同列にはできない」などと反論したという。

 産経新聞の取材に対し、平田市議は「多くの人を傷つけ、嫌悪感を与える不適切な発言だった」と釈明し、24日に議事録からの削除を申し入れた、という。2015年12月25日に産経新聞が報じたところによれば、「国を守るという使命感に基づく訓練と理解していたが、市執行部とのやり取りの中で興奮し、誤った発言をしてしまった」とも語ったと言うが、本気でそう思っているのならば、最初からそのような発言は出てこないだろうし、5日も経ってからの撤回にはならないだろう。本心が出ただけと思われても仕方ない。

 また、2014年10月に奈良県で行われた基地誘致に反対する講演会で日本共産党は「陸上自衛隊は「人殺し」の訓練。奈良の若者が駐屯地誘致で自衛隊に狙われている」などと書かれたビラを作成した。自衛隊=人殺しというのは日本共産党の共通認識なのだろうと思えてくる。

 ところで、「自衛隊が人殺しの訓練をしているのは事実ではないか」「人殺しの訓練をしていると認めるべきだ」という意見はある。おそらく、現役自衛官、元自衛官にもそう考える人間はいるのだろう。ここからはあくまでも個人的意見ではあるが……。確かに自衛隊が「国家を守る・侵略に対抗する」という目的のために、敵(あるいは民間人も含めて)の命を奪わなければならない場面もあるだろう。そのために厳しい訓練を積んでいるのは事実であり、それが不要だと思わないし、その覚悟を求めなければ、一般市民は安心して暮らせない。というより、銃や大砲やミサイルを撃って人が死なないと思っているのは余程の白痴としか言いようがなく、わざわざ改めて放言するようなことでもないだろう。

 しかし、自衛隊に対して不快を持つことは思想信条の自由があり勝手だと思うが、それでも使っていい言葉と悪い言葉があると思う。「人を殺す」というのは自衛隊の任務遂行に対する手段の一つであり、全てではない。自衛隊を貶めるために一面のみを取り上げて、このような言葉を使うことに、自分は不快を覚える。自動車産業に関わっている人に「年間4000人の死者、70万人強の負傷者を生み出す道具を作っている」というのは正しいだろうか。格闘技や武道を学んでいる人に「人を殺したり傷つけたりする練習をしている」と言うのは正しいだろうか。畜産農家は「動物虐待」なのか。小説家や漫画家は「嘘をついて金を貰っている」のか。郵便局員や銀行員は「振り込め詐欺師の片棒を担ぐ仕事」なのか。

 また、「人を殺す」という言葉の向こう側には、殺人犯というニュアンスが少なからず見え隠れする。例えば、1979年(昭和54年)1月に発生した三菱銀行北畠支店に猟銃を持った男が4人(警察官2人、銀行員2人)を殺害し、銀行員と客を人質に立てこもった事件。この事件では、最終的に警察の特殊部隊が突入して犯人を射殺したが、自衛隊を人殺し呼ばわりする人間は、「犯人も特殊部隊も人を殺したという点では一緒ではないか」というのだろう。事実、1970年(昭和45年)5月の「ぷりんす号シージャック事件」では、北海道の弁護士が犯人を射殺した警察官と広島県警本部長を殺人罪などで刑事告訴している(不起訴処分となっている。)。しかし、人質を見殺しにするべきだったとは決して言わないだろう。自分は安全な場所で責任のない立場から、他人を非難するのは簡単である。せめて、犯罪者や侵略者が人を殺すのと、治安の維持や防衛の為に人を殺すのは、全く異なる、ということは明確にしておかなければならないと思う。

自衛隊・安全保障をめぐる言葉