ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

モスラ対ゴジラ(1964年)

DATE

1964年劇場公開

監督:  本多猪四郎  特技監督:  円谷英二   音楽:  伊福部昭

キャスト   酒井市郎(毎朝新聞記者):宝田明  中西純子(毎朝新聞記者):星由里子  三浦(生物学博士):小泉博  小美人:ザ・ピーナッツ  中村二郎(毎朝新聞記者):藤木悠  熊山(ハッピー興行社長):田島義文  虎畑万造(実業家):佐原健二

観客動員数 351万人

内容にはネタばれを含んでいます。  解説・感想  ストーリー  映画の中の自衛隊

【解説・感想】

 1964年公開のゴジラシリーズ第4弾。モスラは1961年公開の『モスラ』で主役を張っており、その続編の位置というづけの作品でもある。善玉のモスラ、悪玉のゴジラという役割を明確にし、きっちりと色分けされたことでモスラの健気さ、ゴジラの強大な恐ろしさがより強調されたように感じる。なお、昭和ゴジラシリーズで、ゴジラが唯一黒星をつけられた作品でもある。

 1966年頃から1968年頃にかけて、いわゆる怪獣ブーム(第一次怪獣ブーム)が起きた。『ウルトラQ』『ウルトラマン』といった巨大怪獣が活躍するテレビドラマが大ヒットとなり、映画界でも東宝特撮映画のみならず、大映の『大怪獣ガメラ(1965年)』『ガメラVSバルゴン(1966年)』『大魔神(1966年)』といった巨大怪獣ものが興行的に成功を収めた。そのため、日活、松竹のような、本来畑違いの映画会社も怪獣ものに参入し、にわかに活気づくこととなる。この『モスラ対ゴジラ』や同じ年に公開された『三大怪獣 地球最大の決戦』などはその先駆けとなり、ブームの土台を気付いた作品だったとされる。

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【ストーリー】

 超大型台風が東海地方を襲った翌日、静之浦の海岸に巨大な卵が漂着する。地元の猟師らが水揚げするが、それが何の卵なのか分からない。その卵に目をつけたのがハッピー興行社の熊山であった。熊山は、この卵を見世物にするために猟師たちから卵を買い取る。熊山の後ろには興行界の実力者、虎畑がついており、虎畑は卵をメインにした一大レジャーランドの建設を目論んでいたのである。

   しかし、その卵は太平洋に浮かぶインファント島の守り神モスラの最後の卵だった。卵を取り返すべくインファント島から日本にやってきた小美人は、何とか卵を取り戻そうと熊山に接触するも、熊山は耳を貸さず、それどころか小美人を捕らえて見世物にしようとする有様だった。それは毎朝新聞社の酒井らの協力を得て、再度熊山に卵の返還を求めても同様であった。金儲けのことしか頭にない熊山の前に、小美人は仕方なくインファント島へと帰っていった。

 ところが、それからしばらくして、倉田浜干拓地にゴジラが出現。四日市のコンビナート地帯や名古屋市に甚大な被害が発生する。ゴジラを倒す協力をモスラに頼むために、新聞記者の酒井、カメラマンの中西、生物学者の三浦がインファント島へと向かう。しかし、原住民や小美人は、その要請を拒否。彼らは、核実験により島を荒れ果てさせられたことや、卵を返してもらえなかったことから、文明人への不信を募らせていた。しかし、モスラは酒井らの願いを聞き入れ、もう寿命がわずかほどしか残っていない身で日本へと飛び立った。

 日本では防衛隊とゴジラとが激しい戦いを繰り広げてした。その戦いの中で、熊山は虎畑と仲違いし、虎畑に射殺されてしまう。しかし、その虎畑も、ゴジラの襲撃に巻き込まれ命を落とす。そんな折、ついにモスラが日本に到着。ゴジラと激しい戦いを繰り広げる。モスラが優勢の戦いだったが、ついに寿命が尽きてしまい、モスラは卵の傍らで命を落とした。

 防衛隊は、対ゴジラ用のA作戦、B作戦を実行に移す。上空から特殊帯電ネットを投下し、全身に3000万ボルトもの放電で攻撃するというもので、一旦は効果がありゴジラを無力化させることができると思われたが、さらに電圧を上げようとしたところ、電線が焼き切れてしまい結局失敗に終わる。その頃、モスラの卵が孵化を始めていた。卵から出てきたモスラの2体の幼生。

 破壊の限りを尽くしたゴジラはさらに海を渡り、付近の岩島へと向かっていた。そこには取り残された子供たちと先生がいた。ゴジラを追う2対のモスラの幼虫。船を調達して子供たちの救出に向かう酒井たち。そして、決戦が始まった。

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【映画の中の自衛隊】

 この『モスラ対ゴジラ』は東宝特撮映画で初めて61式特車(戦車)が登場した作品としても知られている。敗戦国であった日本は、戦後は戦車の開発が停止させられていた。朝鮮戦争をきっかけに警察予備隊が発足し、自衛隊へと改編されていくと、当初は米軍のM4シャーマンやM24チャーフィーが供与されて使用されていたが、それらの戦車は第二次世界大戦時の旧式であったため、新型の配備が求められた。米国からの新型の供与も考えられたが、最終的には自国開発に落ち着き、戦後日本の戦車開発の歴史が再開された。61式特車は1955年に開発が開始され1961年4月に制式化された、戦後初めての国産戦車である。1973年に生産が終了するまで560両が生産され、全国の部隊に配備された。当初は25t程度の軽戦車が望まれていたが、90mm砲を搭載するためにはそれでは足らず、最終的には35t程度の重量に落ち着いた。また、列車で移動することを考慮して、車両幅2.95mと比較的コンパクトな使用となっている。時代の流れと共に旧式化していったため、2000年までに全ての部隊から退役した。

 なお、この映画の中ではM24チャーフィーのミニチュアを元に61式特車のミニチュアが作られている。そのため、主輪が6つのところ、映画の中では5つになっているのは有名な話である。機会があれば見比べてみるのも面白い。

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