. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第37講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「ナタンはダビデに言った『あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。“わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらにあなたの主人の家を与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。、、、”』」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .サムエル第二・12:1〜15

■ 井戸を掘りましょう:

. .私たちは「あなたがその男です」とはっきり言われるまで、自分のした悪、自分が犯した罪、に気がつかないのでしょうか。信仰を勧められると、ある人は「私は良心的に生きているから、信仰は必要ないと思う」と答えます。しかし、人間の良心と言うものは、いかに頼りなく、正しく機能してくれないものではないでしょうか。聖書には「腐った良心」、「死んだ良心 などなど、様々な良心への言及があります。ダビデは、彼の行った悪を指摘され、彼こそが、預言者ナタンの語った例え話のけしからぬ男、その人だと知った時、初めて「私は主に対して罪を犯した」と告白しました。

. .詩篇32篇、そして51篇は、このような出来事を背景として読まれたものです。これらの詩篇は、サムエル記第二、11〜12章と平行して読むと、その内容を更に意味深く味わえます。罪を犯したことによって、ダビデは明らかに「救いの喜び」(51:12)を失いました。罪の咎めの重圧がダビデの「上に重くのしかかり」(32:4)ました。聖霊(51:11)のはたらきによって、ダビデの良心は鋭く働き始めたのです。

. .そのような中で、この苦しみから解き放たれる道は唯一、その罪を主のみ前に言い表すことです。新約聖書には「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と書かれています(第一ヨハネ1:9)。

. .ある人は「そんなうまい話があるものか」、「自分罪は自分で償わなければ解決しない」、「信じて、罪を言い表すだけで赦されるなんて、あまりにも都合が良すぎる」といって反発します。しかし、一旦犯した罪は、どのようにして贖うことができるでしょうか。聖書が約束する赦しの背後には、神のみ子イエスの十字架による身代わりの死の事実があることを覚えましょう。赦しは、決して安価な解決法ではなく、御子イエスの死によってなのです。ここにクリスチャン信仰の中核があります。

高知県・越知町の大樽の滝


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