. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第38講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「すると家来たちが彼に言った。『あなたがなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食して泣かれたのに、お子さまが亡くなられると、起き上がり、食事をなさるとは』」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .サムエル第二・12:15〜25

■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデ王の行動はその家臣たちには不可解でした。人は普通、愛する者の死に接して断食し嘆き悲しむものだと、彼らは理解していました。しかし、子どもに死に際してダビデが取った行動は、それとは逆だったのです。私たちはこのダビデが取った行動を通して、ダビデが真に祈りを知った人物であったことを学ぶことができます。

. .ダビデは家臣に答えて言いました「子どもが生きている時に私が断食して泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子ども生きるかもしれない、と思ったからだ」と。ナタンを通してダビデは「あなたに生まれる子は必ず死ぬ」という宣告を受けていました。常識的な祈り手なら、この宣告を受けたなら祈っても無駄なことだと言って、この問題に関しては祈ることをやめてしますでしょう。しかし、ダビデは常識的な祈り手ではありませんでした。ダビデは真に祈る人だったのです。

. .たとえ、この宣告が出されていても、聖書の神はアラーのような運命の神ではありません。もっと人格的な神で、私たちの祈りに応じてその決定・態度を変えたもうことのある神だということをダビデは知っていました。祈りは、結局私たちの神を知る知識、祈りの対象であるお方を理解する程度に関わっています。ダビデは彼の神を良く知っていたのです。それゆえ祈りが何であるかも知っていました。ダビデは祈りました。そして、その祈りに対する応答がはっきりした時、ダビデは祈りを止めて立ち上がったのです。主のみこころが変りのないことがはっきりした以上、なお続けて祈ることは空しいことでした。真の祈りの締めくくりには、いつでも、委ねるという姿勢が見られるのです。

高知県・越知町の大樽の滝


Copy right 2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる