. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 115 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。」   詩篇 32: 6〜7 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .多くの人は、「聖徒」と聞くと、その呼び名が信仰者の中でも特別な人々を指す、と考える一般的な傾向があります。しかし、この詩篇の文脈では「聖徒」は明らかに、罪の赦しを経験した人々を指しています。ですから、同じ経験をもったクリスチャンに適用しても差し支えないでしょう。

. .罪を赦され、神との関係を修復した人々は、当然「みな、祈ります。」祈りは、信仰者にとって、赤ちゃんが肺呼吸をすると同様に自然な営みであると言われています。祈りは単純なもので、神を信じる者はだれでも祈るのです。しかし、祈りの世界には深みがあって、信仰生涯が何年たっても、まだ祈りがわからない、自分の学び取った祈りの分野はまだまだ、大海の中の浅瀬の部分にしかすぎないことをしばしば感じます。

. .祈りの世界が深いと言うのは「あなたにお会いできる間に」と言う句によって示唆されています。いつでも祈ることができるようでありながら、主である神と「お会いできる間」というものがあるのです。祈りのタイミングと言うものが大切なのです。

. .なぜなら、真の祈りは、私たちの願望をただただ主の前に披瀝するだけの営みなのではなくて、聖霊の感動を頂いて、主のみこころに従って、それを口にすることだからです。聖霊の感動が与えられた時、すなわち、主とお会いできる間、を捉えて祈るkとが、聞かれる祈りを捧げる秘訣なのです。ただことばのみが発せられ、空しく地に落ちてしまうような祈りではなく、確実に主の御手を動かす祈り、そのような祈りを祈るには、タイミングを捉えなければなりません。

. .ある人の経験のように、夜半目覚めて、遠くアフリカにいる宣教師家族のことが思い起こされ、祈るように導かれると言うことがあります。なぜか理由は定かではありません。しかし、祈りを促される経験があって、何年かの後、アフリカから、その時祈った宣教師が報告のために帰国し、彼らが経験した危機的な情況、また、その中から如何にして救い出されたかを語った時、かって、その宣教師のために夜半祈ったことのある聖徒は、不思議な時の符合に気づいたのです。神が祈らせてくださった。神は、その祈りに答えて遠いアフリカで活き働いてくださった、という確信がきました。まさに、神のタイミングでした。 高知県・越知町の大樽の滝


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