. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 117 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」           詩篇 32: 10〜11 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .恵み、なんと言う慕わしいことばでしょうか。価値のないもの、それに値しないもの、に注がれた主の愛、それが「恵み」です。主の愛は、旧約聖書においては「不朽の愛」と表現されています。「主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む」のです。なんと幸いなことでしょうか。

. .ダビデは、罪の赦しが恵みであることを弁えていました。ダビデの方には赦されるべき理由はなにもないのです。主がその一方的な愛をもって、赦しを宣告してくださったのです。罪の赦しだけでなく、聖徒として主に受け入れられ、祈る特権を与えられていることも、恵みのゆえに他なりません。人生における主の導きの事実も、恵みによります。神の子ら、そして、クリスチャンの生涯にまつわるすべてが「恵み」によるのです。

. .ジョン・バンヤン作の「天路暦程」(最近は、もっとやさしく「天国への旅」と訳されているようですが、、、)の最後の場面は、主人公のクリスチャンが、最後の河を渡る場面です。クリスチャンは激流に呑まれそうになりますが、「恵みによって」と叫んでその難局を乗り切ります。自分の功績、自分の努力によって、最後の河を渡りきったのではないのです。ただ恵みによったのです。

. .賛美歌作家のジュリア・H・ジョンストンという女性がいます。この方は、日本語で「罪に満てる世界」と題される賛美歌を作詞しましたが、その折り返しは「ああ、めぐみ、測り知れぬ恵み。ああ、めぐみ、我にさえ及べりとなっています。」この「我にさえ及べり」とう歌詞、そこに恵みの自覚が正に表現されています。「我にさえ」、、、恵みに値しない、それを受ける資格のない我にさえ、、、なのです。恵みとはそのようなものに他なりません。

. .この詩篇は、その恵みが、主に信頼する人を取り囲むと宣言して締め括られています。罪の咎めを意識して、夏の日照りのように渇ききった心から、罪を言い表して赦され、満ち足りた思いに満たされた心になるまでの変貌を経験した人の詩です。

高知県・越知町の大樽の滝


Copyright2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる
ダビデの生涯に飛ぶ