■ 今日の「井戸掘り」
「私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」 詩篇 51: 1〜4
■ 井戸を掘りましょう:
. .ダビデの詩篇と題される多くの詩編中、最もダビデ的な詩篇です。表題に「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」とあって、この詩篇が読まれた情況が明瞭にされています。ダビデの生涯の中で、最大の危機、霊的・道徳的な危機に直面した時の作です。
. .ダビデのような真実な信仰者でも、一瞬の隙を見せることがあるものです。コリント教会宛のパウロの手紙に「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」とあるのは、真にその通りで、心に留めておく必要があります。霊的にどのような高嶺を極めた人でも、依然として、人であって、天の使いでも、完全無欠な人でもありません。誘惑に対して決して無防備ではないのです。
. .罪を犯すと、神が備えてくださっている良心の働きが機能の低下を見ます。ダビデは、バテ・シェバとの間に罪を犯したときに、ナタンが来て、その罪を指摘するまで、罪を犯したことをひた隠しにしていました。心が麻痺して、罪を隠し果せるかのように誤解しているのです。しかし、預言者ナタンの指摘に遭って、最早隠すわけにはゆきません。ダビデの偉大さは、罪に固執しないで、ナタンの前に砕けたことです。ダビデの権力を持ってすれば、バテ・シェバの夫ウリヤを戦場に送ってあえて戦死させたように、いくらでもナタンを亡き者にする手段はあったはずです。でも、今回はそうしませんでした。ダビデは罪を認めて、ナタンの前、また、主の御前に打ち砕けたのです。ダビデは、神が「砕かれた、悔いた心」を蔑まれることはしないことを知っていました。
. .さて、この詩篇には、罪を表す用語がいくつも用いられています。新改訳の訳でも「私のそむきの罪」、「私の咎」、「私の罪」、「罪」、「悪」などなどです。日本語でははっきりしませんが、英語で読むと、複数、単数の違いがあって、更に多くのヴァラエティを示しています。
. .最も注目すべきことは、罪には、複数で表される行為の罪、具体的にはバテ・シェバとの姦淫と言う行動にみられる罪と、単数で表される人の性質に住みついた罪とがあります。行為の罪は、その結果としての咎を心にもたらします。単数で表現されている罪は、咎のような罪の行為の結果ではなく、その罪の行為を引き起こす内的な要因としての罪、人のうちにある罪深さを指します。人は、犯した罪を赦されて、聖徒・神の民となっていても、そのうちに生まれつきそこにある罪への傾きを有しています。それが罪の誘惑と呼応して、人が油断している折に、その人を濁流のように罪の行為へと押し流します。ダビデは罪の誘惑に敗北したことを認めざるを得ませんでした。