. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 119 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」               詩篇 51: 5〜9 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .使徒パウロの、ローマ人への手紙の中での「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだしたのです」と言う告白にも匹敵するダビデの発見です。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」

. .NASB(新アメリカ標準訳)では「in sin」と訳しています。そして「sin」は単数です。また「咎めある者」とありますが、ダビデのみか人はすべてアダムの末裔として、アダムの背きの罪の咎めを負っています。ただ、この咎めに関しては、ウエスレアン・アルミニアン神学では、御子イエスの十字架の贖いによって既に取り除かれ、解決済みと理解しています。カルヴァンの神学に立つ改革派神学においては、アダムの咎は、アダムにあって依然として人類のもので、選ばれた者以外はその断罪のもとにあると教えます。

. .詩篇から少し横道に逸れますが、以上述べたことと関連して、改革派神学の立場では、罪を犯したことのない赤子でも、アダムの咎を負っているので死んだ後は滅ぶべく定められていると言います。それに対してウエスレアン・アルミニアンの立場では、善悪の判断ができるいわゆる「責任ある年齢(The Age of Accountability)」に達するまでに死んだ赤子はすべて、キリストの贖いの恩沢によって救われ、天国に行けると考えています。ウエスレアン・アルミニアン神学の一つの特徴は、この先行的恩寵の概念にあります。神の恵みの干渉は、初時の救いにおいて初めて始まるのではなく、地上でのいのちが誕生した時から、すべての人に与えられているのです。救いに先立つので「先行的」と呼ばれています。

. .さて詩篇に戻って「罪ある者として母は私をみごもりました」という告白、言い換えれば、ダビデは、そして、すべての人は、生まれた時から「罪ある者」だということです。人は、罪を犯すことによって罪人とされるのではなく、聖書の教えによれば、罪人であるがゆえに罪を犯すのです。この生まれながら人の心に宿っている罪を神学では「原罪」、すなわち、アダム以来の罪、と呼びます。また、それは「道徳的腐敗性(The Moral Depravity)」とも言います。それは生まれながらのもので、人を罪へと傾かせる、生まれながらの悪への傾向性です。バテ・シェバとの関係を通して、また、その後のその罪の展開、彼女の夫ウリヤを策略によって戦死に至らせると言う行動を通して、ダビデは、自分がそのような「罪ある者」として生まれていることを自覚しました。

. .それで、罪の赦しを求めるだけではなく、罪からきよめられること(6節)をも求めています。

高知県・越知町の大樽の滝


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