. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 65 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」                                       詩篇30:1〜12 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .「家をささげる歌」という表題がつけられています。内容的には病いを癒された時の歌のようですので、健康であったのでこうして家をささげることができた、という気持ちからの感謝の歌でしょうか。「私の神、主よ。私があなたに呼び求めると、あなたは私を癒されました。主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました」(2、3節)。

. .いつの時代でも、生きる人々にとっても健康、そして、病いは大きな課題です。原因が明らかに神への自らの不服従にあって、そむきの罪の結果として病いに陥るということはありますでしょう。しかし、不服従に覚えがない時には、人が病いに陥ることは、必ずしも個人的な罪と結びついて、何かの罰として病いが与えられるいうわけではありません。人類的な意味で、罪が世に入り、自然界の秩序が崩壊した結果の一つとして病いも始まったと言う意味でしたら、病いは罪の結果だと言えましょう。しかし、個人的には罪と何ら無関係でも病いに陥ると言うことがあるのです。ラザロは明らかに主に愛されていました。しかし、ラザロにとって、肉体の病いは避けることのできない現実だったのです。

. .主は、どのような場合にも癒してくださる主です。医療の助けを借りないで、主が直接的な、或いは、奇跡的な干渉を与えて癒される場合もあれば、医療技術の助けを借りて、そうした手段・治療を通して癒される場合もありますでしょう。いずれにしても癒したもうのは主です。医療に従事する人々は主が用いてくださった主の器です。そのように考えることは、勿論、彼らの働きを軽んじることではありません。

. .ダビデは病いに陥った時、神が怒っておられるように感じました(5節)。しかし、神の恩寵は、その怒りを凌駕していることと覚えて「いのちは恩寵とともにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」と詠いました。病いに陥った時、ダビデは神がその「御顔を隠され」たように感じましたが、それでも神のあわれみを請っています(8節)。

. .ダビデが主のあわれみを求める理由は、もし、病いに倒れてしまい、ちりに帰ってしまったなら、神をほめたたえ、神の誉れを告げることができなくなるからだと言っています。主はこのようなダビデの訴えに耳を傾けて「嘆きを踊りに変えてくださり」、「荒布を解き、喜びを着せてくださった」(11節)のです。それは、ダビデのたましいが沈黙の中に沈んでしまうことがないためでした。

高知県・越知町の大樽の滝


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