■ 今日の「井戸掘り」
. . 「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」 詩篇40:1〜09
■ 井戸を掘りましょう:
. .ダビデは、何と的確に主である神が彼に求めていることを捕らえたことでしょうか。ダビデは明瞭に「あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした」と言っています。ダビデが生まれ育った旧約のユダヤ教の環境では、これらのものは、人が主である神に近づくための必須条件と理解されていました。それで、ユダヤ人はあらゆる犠牲を払っても神殿の行事を守って、なん世代も経てきていたのです。
. .神がダビデに求めたことがらは、いけにえを捧げることではなく、みこころに歩むと言うこと、であることをダビデは理解しました。しかし、私たちはなんとしばしば何が信仰の本質であるかに関して誤解していることでしょうか。そして、律法主義や善行主義に陥ってゆくことでしょうか。
. .パウロの時代のガラテヤの人々は、折角、御霊により頼むと言う純粋な信仰の姿勢を持っていたのに、いつの間にか、単純なキリストへの信仰を見失って、元のユダヤ教の律法主義に戻っていってしまいました。信仰によって義とされた、すなわち、神に受け入れられたのに、いつしか、信仰によって、主により頼むことによってではなく、自分の行為に重点を移して、何かを行うことによって神に受け入れられているものと考えるように、信仰の道から迷い出てしまったのです。
. .使徒ヨハネは黙示録2章に、エペソ教会で起こったことを記しています。一世紀のエペソ教会では、いつの間にか「初めの愛」を離れて、行いのみを堅持する信仰の姿勢になっていました。行いや忍耐があることは悪いことではありません。しかし、より一層本質的な主なる神への初々しい愛を見失って行いのみを継続していたのでは、意味がありません。行いは愛によって支えられて初めて意味を持つのです。