このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。」 詩篇119:1〜176D
■ 井戸を掘りましょう:
「目」は、誘惑の門です。使徒ヨハネは、その手紙の中で「肉の欲、暮らし向きの自慢」とともに「目の欲」を、この世から出たものと書いています。人は、何かを見ることによって、その見たものへの欲望を掻き立てられ、心のコントロールを失う時、その欲望を満たそうと暴走を始めます。見たことが刺激となったのです。言い換えれば、見なければ誘惑されることはなかったでしょう。
人は、目・視覚のほかに、耳(聴覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)、鼻(臭覚)などを持っていて、それらのすべてが、誘惑の門となりうるのですが、目で見た印象は、聞いたことに勝って、何十倍も刺激が強いと言われています。いずれにしても、こうした五感から入ってくる情報を正しく処理する機能が、意思の力です。誘惑は欲望を刺激しますが、意志は、理性の助けを借りて、その欲望が正統なものかどうかを判断し、それに従うかどうかを決定します。
「理性の力を借りて」と書きましたが、時として、理性は、正しい意思決定の助けとならないで、色々と正当と見える理由を述べ立てて、欲望の要求を受け入れるように促すこともあるのです。人の心は、罪に捕らわれていて、その示唆に従いやすい傾向性を帯びています。これが原罪のもたらした人間性質の一面です。理性の判断は、常に正しいとは限りません。理性は、欲望の達成に向けて、いかにも正当と見える理由をいくらでも並べ立てます。人には、このような理性をコントロールするものが必要なのです。
それがかみのみことばです。心に、主の仰せ・戒めが刻まれていると、心・理性が、間違った欲望に従って意志を動かそうとする時、チェックを与えてくれます。それで、欲望の暴走、理性、そして、意志の奴隷化を防いでくれるのです。