. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第8講
■ 今日の「井戸掘り」
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ、、、。』」 詩篇2:1〜12B
■ 井戸を掘りましょう:
この第7節で、主語が変ります。6節では「主」、すなわち、天の御座に着いている方」、が語っていますが、この7節では、その6節で「わたしの王」として言及された方が語り始めます。この方は、また、主によって「わたしの子」、「わたしがあなたを生んだ」と言われている方です。
聖書を解釈する時、短い一節だけに基づいて、解釈してはなりません。宗教改革者がいみじくも述べたように、「聖書は聖書全体によって解釈されなければなりません。」短絡的な判断ではなく、総合判断が求められるのです。
この7節の「わたしの子」、「わたしが、、、生んだ」を理解するに当たって、通常でしたら、「わたしの子」と言われている方は、生まれたときから存在を開始したことになります。しかし、御子は、父なる神と等しく永遠的な存在で、異端グループが主張するようには、始まりがありません。では「生んだ」、生まれた、と言うのはどのような意味なのでしょうか。
正統神学では、これを御子の「永遠のジェネレーション」と称して、御子が、御父に次ぐ第二位の神としての位におられることを教えているものと理解しています。聖霊が、第三位の神というわけで、これで「三位一体」ということが成り立つのです。