. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第1010講
■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」 ペテロの手紙4:17
ヘブル人への手紙には「人間には、一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっているように、、、」(9:27)とありますが、ペテロも、のことを豪も疑いません。彼は一歩進んで「さばきが神の家から始まる時がきている、、、」と書くのです。このことばには、キリストの再臨が間近であると言う初代教会に共通の意識が根底にあります。
初代のクリスチャンたちは、明日にでもキリストが再臨されると考えていました。彼らの心には大変な緊迫感が漂っていたのです。それが聖めへの渇望となって顕われ、また、伝道への熱意を生み出しました。
紀元300年代、ローマがキリスト教を受容したことによって、その再臨への期待感・緊迫感は薄れてゆきました。後にアウグスチヌスの著作に見るように、帝国の繁栄が、キリストの下にある神の国の情況と混同され、それと共に、キリストの再臨への意識も低下してしまいました。しかし、ペテロは、再臨への期待、意識がまだ生き生きしていた時代に生きていたのです。
何回も書くように、死後「神に従わない人たち」のたましいは、消滅してしまい、さばきに遭うことがないと説くエホバの証人の立場は、聖書の教えとは異なっています。このグループの創始者が、死後の裁き、地獄行きといった概念を受け入れがたいと感じたので、聖書とは異なった自分の思想を聖書の教えに交えて教えたので異端とされるのです。
