■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」 ペテロの手紙4:16
以前にも書きましたが、苦しみには悪を行ったゆえに苦しむ苦しみと、クリスチャンとして苦しむ苦しみとがあります。前者の悪を行ったゆえに苦しみは、当然の報いで、褒められたものではありませんが、後者のクリスチャンとしての苦しみは「恥じる」必要はありません。むしろ誇るべきです。この世が邪悪な世であるので、クリスチャンとして苦しむと言うことが生じます。そのとき、クリスチャンは、その苦しみを恥じないで、むしろ誇り、喜ぶのです。
初代のクリスチャンたちに関して、使徒の働きは(5:41)「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」と記しています。ペテロとヨハネとが、エルサレムの美しの門の処で、ひとりの生まれながら足がなえた男を、キリストの御名によって癒したことに始まった迫害であり、議会への召喚でした。ペテロはこのとき、その議会に立った使徒たちのひとりとして、正に、彼が自ら生きたクリスチャンとしての道を、今書き綴っているのです。
この名のゆえにとありますが、言うまでもなく、キリストという御名です。「クリスチャン・キリスト者」とは、このキリストに属するもの、御霊によってキリストと一体とされた者たちなのです。苦しみも栄光もともにする者とされました。
ペテロがこの手紙の冒頭に言及した「御霊のきよめ」とは、このように、すべてにおいてキリストと同化することです。キリストは、あの十字架の上で、神を呪うことをしないで、むしろ神を崇めていました。主イエスの父なる神への信頼は揺るぐことがありませんでした。クリスチャンとは、そのようなキリストに同化して、キリストととも生きる者たちです。それゆえ、キリストの御名のための苦しみは、キリストの御苦しみに与るものとして、クリスチャンとして、誇るべきものと理解されるのです。
