. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第112講
■ 今日の「井戸掘り」

   「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」             ペテロの手紙4:19 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「神のみこころに従ってなお苦しみにあっている人々は、、、」―異教的な信仰は「神のみこころに従って苦しみいあう」ということを理解できません。こうしたの信仰は多くご利益的で、信じていれば苦しむことはない、禍いからまぬかれる、病いから癒される、といったことを強調して、人々を惹きつけているのです。信じているのに苦しむなど、とんでもないと言うことになります。

   クリスチャン信仰は、ご利益信仰ではありません。信仰の恵みとして災害から守られる、病いを癒される、といった恵みを否定しているのではありません。そのような恵みは十分に備えられているのです。しかし、「神のみこころに従ってなお苦しみに会う」と言うことがあることも受け入れています。苦しみは、私たち信仰者を浄化し、聖めの道を歩ませる効果があって、霊の父は、愛する子たちの訓練のために、苦しみが訪れることを、深い配慮のうちに許されるということがあるのです。

   私たちはそのような時、しばしば「神が愛の神であったなら、なぜこのようなことが起こるのか」と心に疑問を抱きます。具対的な理由はわからないことが多いのですが、神は、すべてのことを働かせて益と変えてくださる方です。神が神の愛する子たちが苦しみに会うことを許されるのは、彼らの益のためであり、御父の聖に与るためであると、ヘブル書(12章)の記者は教えています。

「善を行うにあたって」、なお「神のみこころに従って苦しみに会う」時、私たちの出遭う危険・誘惑は、苦しみに会うくらいなら、もう善を行うことを止めてしまおうか、と言う誘惑・危険です。ペテロは、そのような誘惑に打ち勝つために「真実であられる創造主に自分のたましいをお任せしなさい」と勧めます。

   信じ依り頼むことと共に、神に任せる・委ねるということは、信仰生涯に中で大切な姿勢です。信じることと任せることとは、表裏一体といって良いでしょう。任せる・委ねるということは、自分からはそのことを手離して、神に渡してしまうことです。神が最善にしてくださることを待ち望むことです。

高知県・越知町の大樽の滝

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