. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第113講
■ 今日の「井戸掘り」

   「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」             ペテロの手紙4:19A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ここには、神が「真実であられる創造者」として言及されています。ある人によると「真実」と言うのは、特異な性質を持った徳だそうです。他の美徳は、その前に「偽り」と言う形容詞をつけることによって、醜いものに変容してしまいます。例えば「愛」は「偽りの愛」に、「謙遜」は「偽りの謙遜」に、、、といった具合です。「偽り」と言う語は、酒樽に入った一匹のハエのように、すべてをスポイルしてしまいます。

   しかし「真実」と言う特質だけは、その前に「偽り」と言う形容詞をつけることができないのです。すなわち「偽りの真実」と言うことはありえないのです。真実はいつまでも真実であり、偽りとは相対しています。主イエスは、アーメンはアーメン、否は否であると語られました。神は、その性質に、このような特質「真実」を帯びたお方なのです。

   神はまた創造者であるとして言及されています。クリスチャンになったばかりの頃、伝道会に出席していて、説教者が「『神は創造者である』と言うのではなく、『創造者こそが神である』といったほうがよい」と語ったのを良く覚えています。そしてなんとなく分るような気がしました。創造者であるがゆえに、そのお方は「神」なのです。神は「すべてのいのちの源」であるがゆえに「神」なのです。

   そのようなお方「真実であられる創造者」に「自分のたましいをお任せ」できるこはいかに幸いでしょうか。実際、そうできなかったら、その人の信仰はクリスチャンの信仰の大切な要素を欠いていることになります。理性的な納得と言う意味での信仰ではなく、依り頼むと言う意味での信仰は、当然「お任せする」という面を包含しています。真実な方として欺くことがなく、また、創造主としてすべてのことをなし得る神に委ねることこそが、すべての問題・課題に打ち勝つ勝利の理由なのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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