. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第114講
■ 今日の「井戸掘り」

   「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。」             ペテロの手紙5:1 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   この手紙の冒頭には「イエス・キリストの使徒ペテロ」としか、ペテロは書きませんでした。しかし、ここにおいて、更に詳しく自己紹介をしています。「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者」と3つの事実が述べられています。

   最初に「同じく長老のひとり」に関して。使徒であることと長老であることは相互に背反することではありませんでした。ペテロは使徒であると共に「長老のひとり」でもあったのです。同様に、監督と長老との関係に関して、私は、長老の一部が監督と呼ばれるものと理解しています。すなわち、長老の中には、監督としての役割を担っている人々と、そうではない人々がいたと言う理解です。使徒は、初代教会の時代ののみの限定的な特殊な立場ですが、その使徒の働き・立場を継承したのが、次代の監督たちでした。

   ペテロは、更に自分に関して「キリストの苦難の証人」であると書いています。十二使徒は、キリストの復活の証人でした。しかし、ここでは「キリストの苦難の証人」として自己紹介されています。当時、ペテロが経験しつつあった「苦難」に焦点を合わせてのことでしょう。伝説によると、ペテロは捕らえられ、やがて、逆さ十字架につけられて殉教の死を遂げたとされています。

   最後にペテロが自分いついて述べていることは、「やがて現れる栄光にあずかる者」ということです。キリストの苦難は、苦難のみで終わることはありません。キリストゆえの苦しみは、やがて栄光となって報いられる時がくるのです。ペテロがこのように書くとき、彼の心にあった栄光とはどのようなものだったのでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝

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