■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。」 ペテロの手紙5:1
この手紙の冒頭には「イエス・キリストの使徒ペテロ」としか、ペテロは書きませんでした。しかし、ここにおいて、更に詳しく自己紹介をしています。「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者」と3つの事実が述べられています。
最初に「同じく長老のひとり」に関して。使徒であることと長老であることは相互に背反することではありませんでした。ペテロは使徒であると共に「長老のひとり」でもあったのです。同様に、監督と長老との関係に関して、私は、長老の一部が監督と呼ばれるものと理解しています。すなわち、長老の中には、監督としての役割を担っている人々と、そうではない人々がいたと言う理解です。使徒は、初代教会の時代ののみの限定的な特殊な立場ですが、その使徒の働き・立場を継承したのが、次代の監督たちでした。
ペテロは、更に自分に関して「キリストの苦難の証人」であると書いています。十二使徒は、キリストの復活の証人でした。しかし、ここでは「キリストの苦難の証人」として自己紹介されています。当時、ペテロが経験しつつあった「苦難」に焦点を合わせてのことでしょう。伝説によると、ペテロは捕らえられ、やがて、逆さ十字架につけられて殉教の死を遂げたとされています。
最後にペテロが自分いついて述べていることは、「やがて現れる栄光にあずかる者」ということです。キリストの苦難は、苦難のみで終わることはありません。キリストゆえの苦しみは、やがて栄光となって報いられる時がくるのです。ペテロがこのように書くとき、彼の心にあった栄光とはどのようなものだったのでしょうか。
