. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第22講
■ 今日の「井戸掘り」

   「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」                 ペテロの手紙1:9A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   先回に続いて、この聖句の「信仰の結果である、」と言う句における「信仰」について、再び考察しましょう。ヘブル書11:1 には「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるのです」と書かれていますが、これは信仰の一般的な定義と言えましょう。クリスチャンでなくても、この意味での信仰のない人はないといっても過言ではありません。生きるということと信じると言うことは密接に結びついていて、この意味での信仰なしには、人は生きてゆけません。

   クリスチャンにとっての信仰とは、幾つかの特徴を有しています。それは、先ず第一に「神を、キリストによって信じる信仰」(21節)です。神とキリストとが一体となっていて、キリストにあって知ることのできる神がクリスチャン信仰の対象です。

   第二に、それは「真理に従うこと」に表された信仰です。「朽ちない種」と言われている「神のことば」、また、「福音のことば」に基づく信仰です。クリスチャン信仰は、その意味で、単なる思い込みではありません。みことばの保証があるのです。

   そして、最後に、クリスチャン信仰が一般の信仰と異なるのはその道徳性にあります。「あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」とあります。救いの信仰は、悔い改めと表裏一体となっています。この道徳的な面を排除したら、そのような信仰は、単なるご利益信仰に脱してしまいます。

   しかし、人は本当に「すべての悪意、、、、」などを捨てることができるのでしょうか。キリストに反逆していたたましいが、キリストの軍門に下り、信仰の門を開らく時、その門を通して私たちの心の城に、神の愛が進駐してきます。そして、神の愛が心の王座を占有する時、心から「すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口」は放逐されるのです。そのようにして、そのたましいへの神の愛の支配が始まります。

   これこそが「信仰の結果」で、この信仰を通して、道徳的な変革が可能とされるのです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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